三軒茶屋の三差路が町を変えた!“3”に秘められた発展の謎とは
2025年6月7日放送の「ブラタモリ」では、東京都世田谷区にある人気エリア・三軒茶屋が舞台となりました。若手芸人や若者にも人気のこの街。今回は「なぜか気になる三軒茶屋 秘密のカギは“3”にあり」というテーマで、街の成り立ちや名前の由来、独特な町並みのルーツを探る旅が展開されました。江戸時代から現代まで続く“三”という数字に隠された秘密が、タモリさんと一緒に少しずつ解き明かされていきます。
NHK【ブラタモリ】青山通りの秘密とは?江戸時代の大山街道や大名屋敷の痕跡を発見!|2025年6月14日
三軒茶屋のシンボル・三差路に隠された歴史
三軒茶屋の町の真ん中には、三つの道が交わる特徴的な三差路があります。この場所がどのように生まれたのかを探ることが、今回のブラタモリの最初のテーマでした。案内役は、江戸時代の世田谷をよく知る藤井祐子さんです。タモリさんたちは、まず「大山道」と書かれた石の道標を訪ねました。これは、江戸の人々が神奈川県伊勢原市にある霊山・大山へ参拝に行くための道で、大山詣りが江戸時代に大流行していたことが背景にあります。
この人気の参詣道はもともと、農民が作物を運ぶための生活道路でもありました。しかし参拝客が急増したことで道が混雑し、通行に支障が出るようになります。そこで新たに整備されたのが、現在の国道246号線のルートです。この新道が元の道と交わる場所が、今の三差路につながっていきます。
この三差路の構造は特徴的で、
・世田谷通りと国道246号線が一度分かれてから再び合流する構造
・どちらの道も「大山街道」としての歴史を持っている
・246号線は江戸時代に後から整備された「新しい大山街道」
・昔、三差路には玉川線という電車が走っていた
このように、三差路は交通の分岐点だけでなく、歴史の層が重なった場所としての意味も持っています。特に、電車の路線までもが三差路に沿って枝分かれしていたという事実は、三軒茶屋が交通の要所として重視されてきた証拠です。
また、三差路の付近を歩いていくと、緑道と呼ばれる歩行者専用の道にたどり着きます。ここにはかつて川が流れていて、自然の地形と道が密接に関係していたことがわかります。この川沿いの道も、もともとは農民の暮らしのために使われていたルートです。
つまり、三軒茶屋の三差路は、
・信仰の道(大山詣り)
・生活の道(農業物流)
・交通の道(電車と街道)
この3つの機能が重なって生まれた、まさに“三”の意味を体現する場所だといえます。その形が自然発生的にできたものではなく、時代の流れと人々の暮らしが複雑に絡み合ってできたことが、今回の旅で明らかになりました。三軒茶屋の発展には、この三差路の存在が欠かせなかったのです。
「三軒茶屋」という地名は本当にお茶屋が由来だった
三軒茶屋という名前は、文字通り「三軒の茶屋」があったことに由来しているという説が、今回の放送で改めて裏付けられました。江戸時代、この地には旅人たちが一息つける茶屋が並び、そこにあったのが「田中屋」「しがらき石橋楼」「角屋」という三軒の茶屋です。中でも「しがらき石橋楼」の元女将であり、三軒茶屋の“マドンナ”として知られていた山本カネさんの証言が、当時の茶屋の場所をたどる手がかりとなりました。
この証言をもとに、かつての茶屋の位置を示す地図が作成されました。いずれも今では姿を変えていますが、その面影は現在もわずかに残っています。
・「田中屋」は現在、「田中屋陶苑」という瀬戸物屋になっています。創業者の孫にあたる堀江幸男さんが店を営んでおり、江戸から明治にかけての時代の変化を語ってくれました。明治時代中頃、交通が発達し、人々が宿に泊まらなくなったことで、宿業から陶器販売業へと転業したそうです。
・「しがらき石橋楼」は、現在はカラオケ店に建て替えられており、面影はありませんが、かつての女将・山本カネさんの証言がその歴史を伝えています。
・「角屋」は、ドーナツ屋とコーヒーショップへと姿を変えており、若者たちの憩いの場として現代の街並みに溶け込んでいます。
また、田中屋陶苑の堀江さんは、新選組の副長・土方歳三が店に立ち寄ったという話を祖父から聞かされたと語っていました。ただし、それが本当かどうかは今もわからないとのことです。伝説と現実が混ざり合うこのようなエピソードも、三軒茶屋という土地が持つ魅力のひとつです。
つまり、「三軒茶屋」という名前は偶然ではなく、実際に存在していた三軒の茶屋に由来する、歴史に裏打ちされた地名だったことが分かりました。現代の姿は大きく変わっていても、その根底には江戸時代から続く人の営みと、町の記憶がしっかりと残っているのです。
戦後のヤミ市が生んだ「三角地帯」の魅力
三軒茶屋の今を象徴する場所のひとつが、「三角地帯」と呼ばれるエリアです。この場所は、三差路の内側に広がり、斜めの道と垂直な道が交差するようにして構成されています。案内役は、三茶の街に詳しい金谷匡高さん。この地域には小さな飲み屋や個人商店がぎっしりと並び、他にはない独特の空気が漂っています。
中でも「三軒茶屋 三番街」と呼ばれる細い通りには、今も戦後から続くお店があります。豆菓子店を営む小泉泉江さん(94歳)は、昭和22年からこの地で店を構えてきました。小泉さんによると、開店当時の三軒茶屋は空襲で一帯が焼け野原になっており、その跡地にバラック建ての商店が集まっていたといいます。
・当時の商店街には、魚屋・肉屋・八百屋がひしめいていた
・通りは狭く人通りが多く、活気にあふれていた
・戦後の混乱期に生まれた「ヤミ市」としての側面があった
この三角地帯の成立は、戦後のヤミ市が起源でした。焼け跡に自然発生的に店が並び始めたことで、この地には人と物資が集まり、結果として今のような飲み屋街の基盤が形成されたのです。
さらに、タモリさんたちは近くの洋服屋を訪ね、店主・高野信雄さんから戦後当時の貴重な写真を見せてもらいました。そこには、246号線沿いに走っていた電車の停留所が写っていました。この停留所は、駅で降りた人々がそのまま三角地帯に入って買い物や飲食を楽しめるように、通りが垂直に配置されていたことが写真から読み取れます。
つまり、
・戦後の混乱の中で人々が生き抜くために始めた商い
・交通の利便性を活かした人の流れの導線
・自然発生的な都市の再構築
これらが重なって、今の三軒茶屋のにぎわいを支える三角地帯が形づくられました。整然とした都市計画ではなく、人々の生活と工夫の積み重ねでできた場所だからこそ、どこか懐かしく、個性的な風景が今も残っているのです。高層ビルが建ち並ぶ都会の一角にあって、三角地帯の雑多で温かい雰囲気は、多くの人の記憶に残る場所となっています。
三でつながる三軒茶屋の不思議な縁
番組の最後にタモリさんは「三差路が出来て今の三軒茶屋がある。三だらけだったな」と話し、今回の旅を振り返りました。三軒の茶屋から生まれた地名、三方向に分かれる三差路、三角地帯と呼ばれる商店街エリア——まさに“3”に導かれた町の物語が浮かび上がってきました。
今回の「ブラタモリ」では、江戸時代から続く人々の営みと交通の変遷、そして戦後の再生の物語まで、三軒茶屋という街に流れる深い歴史と魅力が丁寧に描かれました。今ではおしゃれな若者の街というイメージが強い三茶ですが、その背景には“3”に秘められた長い物語があったのです。
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