室町時代にそびえた日本一の塔、その正体に迫る
2025年3月5日放送の「歴史探偵」では、京都御所近くに存在したとされる室町時代の巨大タワーについて徹底調査しました。この塔はかつて日本一の高さを誇っていたとされ、その歴史的背景や建築技術、さらには消滅の謎までが番組で詳しく解説されました。今回は、この「幻の室町巨大タワー」について、番組の内容を詳しく紹介していきます。
室町時代に存在した「日本一の塔」とは?
番組によると、室町時代の京都には高さ109mの巨大な塔が存在していました。この塔は「相国寺七重塔」と呼ばれ、当時の日本で最も高い建築物でした。現在、日本一高い木造建築とされる東寺の五重塔(高さ56m)の約2倍の高さを誇っていたことになります。
この七重塔の存在を示す重要な証拠の一つが、京都市動物園に残る石碑です。この石碑には「九重塔」の記述があり、かつて平安時代に高さ81mの塔が存在していたことも分かっています。
- 2010年に行われた発掘調査では、塔の土台部分(約30m四方)が発見されました。
- これをもとに、京都大学の冨島義幸氏が相国寺七重塔の土台の大きさを約36mと算出しました。
- 同時期に建てられた興福寺の五重塔の構造を参考にし、復元図が作成されました。
復元図をもとに考察すると、相国寺七重塔の高さは当時の技術でも十分に建設可能だったことが分かりました。しかし、ここで問題となったのが巨大な屋根の重量と、それを支える木造パーツの強度です。
- 瓦の重量が増えると、塔の骨組みにかかる負担も増大するため、建築技術的に可能なのか疑問視されました。
- しかし、奈良の室生寺では軽量な小瓦葺きの技法が採用されており、同様の工夫をすれば七重塔の建設も可能だったと考えられます。
- 実際、平泉の中尊寺金色堂にも同じような技法が使われており、こうした伝統技術の組み合わせによって建設が実現できたと推測されています。
さらに、七重塔の建築には木材の調達も重要な課題でした。
- 高さ109mの塔を支えるには、極めて丈夫な木材が必要でした。
- 当時の建築では、木材の乾燥技術や組み合わせの工夫によって強度を確保していました。
- 特に、京都や奈良では長い柱を確保できる木材の産地が近くにあったため、この高さの建築も可能だったと考えられます。
これらの点を踏まえると、相国寺七重塔は単なる伝説ではなく、実在していた可能性が高い建築物だと言えます。歴史的記録と発掘調査の結果が一致することで、その存在がより確かなものとなっています。
足利義満と七重塔建設の背景
この相国寺七重塔を建てたのは、室町幕府の3代将軍・足利義満でした。義満は11歳という若さで将軍に就任し、激動の時代を生き抜いた人物です。当時、日本は南北朝時代の最中であり、義満はその南北朝の争乱を収め、統一を成し遂げたことで知られています。
しかし、南北朝の統一を果たしても、国内の情勢は決して安定したものではありませんでした。義満は戦乱によって荒廃した寺社の再建を進めると同時に、強大な寺社勢力との関係改善にも力を注ぎました。
- 当時の日本では、寺社勢力が政治にも大きな影響を持っていたため、彼らとの関係を築くことは幕府の安定に欠かせませんでした。
- 義満は比叡山延暦寺や南都の寺院など、重要な寺社とのつながりを深めることで、幕府の権威を強めようとしました。
- その一環として、相国寺七重塔の建設を命じたのです。
この七重塔の完成時には、盛大な式典が開かれました。
- 朝廷のトップをはじめ、全国から有力寺院の僧侶たちが招かれました。
- 義満はこの式典で、単なる将軍ではなく、「仏の教えを広める存在」としての立場を強調しました。
- さらに、義満は貴族文化にも関心が深く、宮中行事の責任者も務めるなど、将軍でありながら文化人としての一面も持っていました。
また、七重塔の完成を記念し、義満は塔の頂上から「散華(さんげ)」を行ったとされています。
- 散華とは、仏の供養のために花びらをまく儀式のことです。
- 義満が七重塔の最上部から花びらをまいたことで、その花びらは風に乗り、京都の町中まで舞い散ったと考えられています。
- これは、七重塔が「戦乱の時代の終わり」と「新たな平和の時代」の到来を告げる象徴として建てられたことを示しています。
このように、義満は単なる権力者ではなく、仏教・文化・政治を巧みに利用して、自らの権威を強める戦略を取っていました。七重塔の建設は、義満の時代における室町幕府の繁栄と、彼の深い政治的意図を反映したものだったのです。
七重塔はなぜ歴史から消えたのか?
相国寺七重塔は、かつて日本一の高さを誇った建築物でしたが、時代の流れの中でその姿を消してしまいました。最大の理由は、落雷による焼失です。この塔は2度の落雷によって失われています。
- 1度目の落雷で大きな損傷を受けましたが、その後再建されました。
- しかし、2度目の落雷で完全に焼失し、再び建て直されることはありませんでした。
- 木造建築であったため、雷による火災に対して非常に弱かったと考えられます。
さらに、応仁の乱(1467年~1477年)が追い打ちをかけました。この乱は、日本全国を巻き込んだ大規模な戦乱で、京都は大きな被害を受けました。この時の記録には、七重塔が放火されたとの記述があります。
- 軍記物には、民衆の間で「放火したのは猿だった」という噂が広まっていたことが記されています。
- 日吉大社(滋賀県)では、猿は神の使いとされていたため、「塔は神罰を受けて燃えたのではないか」と考えられていました。
- しかし、実際には戦乱の中で何者かによって意図的に焼かれた可能性が高いとされています。
また、この頃の京都は混乱の時代を迎えていました。朝廷の権威は衰え、民衆の暮らしも厳しくなっていたのです。
- 七重塔はもともと「平和の象徴」として建てられましたが、戦乱に巻き込まれた人々の心には響かなかったのかもしれません。
- 戦乱によって家を失い、食べるものにも困る状況で、塔の焼失を嘆く余裕はなかったと考えられます。
- さらに、寺社勢力と幕府の関係も変化し、寺院自体の力も弱まっていました。そのため、塔の再建が進められることはありませんでした。
こうした落雷、戦乱、社会の変化が重なり、かつての日本一の塔は歴史の中に埋もれてしまいました。もしこの塔が現存していたなら、京都の象徴として、東京タワーやスカイツリーのような存在になっていたかもしれません。
七重塔と「洛中洛外図屏風」との関係
番組では、国宝である「洛中洛外図屏風」と相国寺七重塔との関係についても詳しく紹介されました。「洛中洛外図屏風」は、京都の町並みを俯瞰的に描いたもので、京都の景観を知るうえで非常に貴重な資料です。この屏風に描かれた構図が、相国寺七重塔の頂上から見た景色と類似していることが明らかになっています。
- 研究者の山田邦和氏によると、七重塔の頂上から見た景色がスケッチとして後世に残り、それをもとに「洛中洛外図屏風」が描かれた可能性があるといいます。
- 七重塔は高さ109mもあったため、京都市内を広く見渡すことができたと考えられます。
- 高い場所からの視点がなければ、あのように正確な町並みを描くことは難しいため、七重塔の眺望が参考にされた可能性は高いです。
番組では、七重塔が建っていたとされる場所の近くでドローンを飛ばし、当時の景色を再現しました。その結果、次のような発見がありました。
- 建物の配置が「洛中洛外図屏風」とほぼ一致していたことが確認されました。
- たとえば、清水寺や東寺の位置関係、さらには鴨川の流れ方も、七重塔の視点から見た場合と同じような構図になっていました。
- 遠くの山々まで正確に描かれていることからも、地上ではなく高い視点から見た景色がもとになったことが分かります。
また、「洛中洛外図屏風」に描かれた京都の町には、当時の人々の生活が細かく表現されています。
- 祇園祭の山鉾巡行の様子も描かれており、これが七重塔の頂上からも見えた可能性があります。
- 研究者の間では、「七重塔の頂上から祭りを見物する人々がいたのではないか」と考えられています。
- 足利義満が世阿弥を連れて祇園祭を見物したという記録もあり、これが屏風の描写に影響を与えた可能性もあります。
こうした点から、「洛中洛外図屏風」は単なる想像ではなく、七重塔の眺望を基に描かれた可能性が非常に高いと考えられています。もし七重塔が現存していれば、私たちも当時の京都の風景をそのまま体験することができたかもしれません。
まとめ
今回の「歴史探偵」では、室町時代に建てられた相国寺七重塔の存在について、最新の研究成果を交えて詳しく紹介されました。
- 室町時代に高さ109mの巨大塔が存在した
- 建築を命じたのは室町幕府3代将軍・足利義満
- 七重塔は平和の象徴として建てられたが、戦乱や落雷で焼失
- 「洛中洛外図屏風」は七重塔の眺望を参考に描かれた可能性がある
この七重塔がもし現存していたら、京都のシンボルとして東京タワーやスカイツリーのような存在になっていたかもしれません。今後のさらなる研究によって、この幻の巨大タワーの全貌が解明されることを期待したいですね。
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