広島に刻まれた7つの家族の物語とその歴史的背景|2025年2月24日
今回は「あなたのファミリーヒストリー 広島編」。広島にゆかりのある視聴者から、先祖にまつわる謎や感動のエピソードが250件以上寄せられました。その中から7つの家族の物語を厳選し、徹底取材。
広島から海外へ渡った移民の足跡、地域を支えた偉人、戦争に翻弄された家族の記録など、それぞれの家族に秘められた歴史が明らかになります。さらに、広島出身の真矢ミキさんも登場。自身のルーツを重ねながら、家族の歴史に迫ります。
知られざる先祖の物語が、今、明かされます。
広島で先祖の謎を調査:ペルー 90年前の景色を求めて
塩崎芙美恵さんと父の石田昭人さんが登場しました。昭人さんは97歳。ペルーで生まれましたが、8歳のときに広島へ戻り、それ以来ペルーの生まれ故郷を訪れたことがありません。そんな父のために、芙美恵さんは「生まれた場所がどんなところか見せてあげたい」と調査を依頼しました。
石田家からペルーに渡ったのは、芙美恵さんの曽祖父・石田末一(すえいち)とその妻・シュンでした。彼らがペルーへ移住した理由を探るため、外務省の外交史料館(東京・港区)を訪れました。
- 明治36年(1903年)にペルーへ渡った移民の契約書を発見
- 石田末一・シュンの名前を確認
- 彼らの出身地は、現在の広島県廿日市市宮内(当時の宮内村)
- 宮内村では、耕せる土地が少ないため、海外移住が増加
- こうした事情から、多くの日本人が南米へ移住
次に、ペルーの日本人移住史料館を訪れました。そこで、石田末一・シュンのパスポートを発見しました。当時の外務大臣・小村壽太郎が発行したもので、2人の自筆のサインも残っていました。
さらに調査を進めると、末一夫妻はペルー到着後、サトウキビ農家に雇われて働いていたことが分かりました。その後の足取りをたどるため、イカ州チンチャへ向かいました。
現地の調査では、驚くべき事実が判明しました。
- 末一の子孫がペルーにいることが分かった
- イサベルさんとフリアさんという女性が、芙美恵さんと同じ末一のひ孫にあたる
- 大正9年(1920年)の家族写真を見せてもらう
- そこには、昭人さんの父である紋次郎も写っていた
- 末一たちはその後、家族で理容店を経営するようになった
そして、昭人さんは昭和2年(1927年)に誕生。しかし、8歳のときに父・紋次郎の病気治療のため、広島に戻ることになりました。それ以来、一度もペルーへ帰っていません。
昭人さんに、当時住んでいた場所の地図を書いてもらい、現地へ向かいました。
- チンチャの町の中心部へ到着
- 地図にあった教会と公園を確認
- 現地の住民に話を聞くと、かつて石田家があった場所へ案内してもらえることに
- しかし、その場所は18年前のペルー地震で全壊しており、現在は更地になっていた
さらに、新たな事実が浮かび上がりました。
- ペルーに住む親戚たちは、日本に親族がいることを知らなかった
- 末一の子孫たちは、日本とのつながりを初めて知り、驚きと喜びの表情を見せていた
- 昭人さんが生まれた土地を直接訪れることは叶いませんでしたが、家族の歴史がつながった瞬間だった
昭人さんの97年の人生をかけたふるさとの記憶が、ペルーの地で新たに息を吹き返しました。
広島で先祖の謎を調査 “ダビンチ”と呼ばれた祖父
投稿者の安部裕子さんの祖父・塩谷錠太(しおたに じょうた)は、地元で「田舎のレオナルド・ダ・ヴィンチ」と呼ばれていました。彼の発明の歴史を探るため、さまざまな場所を訪ねることになりました。
まずは、広島県大朝村(現:北広島町)の枝宮八幡神社を訪れました。神社の宮司・森脇健児さんに名前を出すと、なんと錠太が16歳のときに奉納した絵馬が残っていることが分かりました。そこには、彼の幼少期からの類まれな才能が表れていました。
- 絵馬には、精密な絵と独特の文字が刻まれていた
- 10代の頃から発明の構想を持っていた可能性がある
- 家族や地元の人々の間でも「特別な才能を持った少年」として知られていた
成長した錠太は、やがて塩谷家の養子となり、広島市内で塩谷製作所を創設しました。ここで、数々の画期的な発明を生み出していきます。
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火災報知爆弾の発明
- 火災発生時に爆発して音を出し、周囲に知らせる仕組み
- 発明協会に記録が残されている
- 「人の命を救う発明」を目指していた
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針の製造機の開発
- 明治時代、広島は針の一大生産地だった
- 第一次世界大戦後、ヨーロッパ製の針が市場に流入し、日本の針産業が脅かされる
- 錠太は、より効率的に針を製造できる機械の開発を決意
そして、昭和4年(1929年)、ついに「高速度製針機」が完成しました。この機械は、3つの工程を一度に行う画期的な装置でした。
- 針金を2本の形にする
- 針の穴を開ける
- 2本の針を切り離す
この発明により、日本の針産業は再び活気を取り戻しました。現在でも、この技術は広島県で受け継がれており、国内の針市場の約9割を占めるまでに成長しています。
- 塩谷製作所の針には「SHIOTANI」の刻印があり、今も使われ続けている
- 錠太の発明が、現在の日本の縫い針の発展に大きく貢献
- 日本発明家五十傑にも選ばれるほどの実績を持つ
彼の功績は、日本の発明史においても重要な足跡を残しています。単なる発明家ではなく、「世の中の役に立つものを作る」という信念のもと、数々の技術を生み出した人物でした。
広島で先祖の謎を調査 わが家の“ものづくり”のルーツ
広島東洋カープのレジェンドたちのフォトレリーフを手がける平岡良介さんの会社。そのものづくりのルーツをたどると、平岡家は昭和12年から広島で金型業を営む家系であることが分かりました。さらに、宮島の紅葉谷公園にちなんだもみじ饅頭の金型も製造しており、広島の伝統文化にも貢献しています。
- 祖父・喜三男さんによると、平岡家のルーツは関西
- 家の歴史を調べると、高祖父・平岡元次郎の名前を記した文書を発見
- 文書の中に「深草善福寺」の名があり、京都市伏見区にある寺と判明
平岡さんは京都へ向かい、善福寺の住職に話を聞くと、そこには明治30年に平岡元次郎の葬儀が行われた記録が残されていました。
- 善福寺の近くを歩くと「深草瓦町」という地名を発見
- 地域の歴史を研究する深草アーカイブ実行委員会から、深草は古くから瓦職人が多い地域と判明
- 伝統の瓦商人・寺本光男さんの協力で、さらに古い文書を調査
調査の結果、平岡家は代々、瓦職人の家系であり、平岡良介さんの先祖もその1人だったことが明らかになりました。
- 寺本さんの工房の前には、かつて「平岡孫左衛門の釜」があった
- 現在もその場所には、子孫の平岡靖弘さんが暮らしていた
- さらに、先祖が作った家紋入りの瓦が今も残されていた
家紋を調べると、平岡良介さんの家に伝わる片喰紋(かたばみもん)と一致。これにより、平岡家のものづくりの歴史は、京都・深草の瓦職人から広島の金型業へと受け継がれてきたことが分かりました。
- 平岡家の職人魂は、広島の地で新たな形で息づいている
- 現在も、金型製作を通じて、広島の文化やスポーツに貢献
- 「ものづくりの血」は、世代を超えて受け継がれている
この調査により、平岡家のルーツは京都の瓦職人にあり、その技術と精神が広島で新しいものづくりへと進化していることが分かりました。
広島で先祖の謎を調査 100年前の災害ボランティア
広島県福山市を流れる芦田川。ここでは100年以上前の災害ボランティアに関する驚くべき歴史が残っていました。投稿者の上田耕士さんは、自分の祖父・上田品次郎が関わった災害救助の詳細を知るために調査を依頼しました。
品次郎は瀬戸内海航路で石炭を運ぶ船の船主でした。その船の記録が残っているか調べるため、大正時代の新聞や資料をあたりましたが、なかなか名前が見つかりませんでした。しかし、思いもよらぬ場所に品次郎の記録が残っていたのです。
- 「日本青年館」の記録に品次郎の名前を発見
- 日本青年館は、全国の青年団の活動を支援する組織
- 記録を調べると、品次郎は山本瀧之助(やまもとたきのすけ)の活動に深く関わっていた
山本瀧之助は、明治時代後半から全国の青年会を組織化し、広島を拠点に全国の若者に社会貢献を呼びかけた人物でした。青年団の活動はやがて全国へ広がり、300万人もの若者が参加する巨大な組織へと成長していきました。
- 瀧之助の理念に共感し、品次郎も青年団の活動に参加
- 大正8年(1919年)の福山の大規模水害で、品次郎は救助活動の中心的存在に
- 品次郎が所属する千年村青年団からは184名もの若者が救助に駆けつけた
この水害は、当時の福山市に大きな被害をもたらしました。芦田川の氾濫によって、住宅や田畑が水に沈み、多くの人が救助を求めていました。
- 水害当日は激しい豪雨で、川が氾濫し各地で浸水
- 家屋が流され、避難する間もなく濁流にのまれた住民も多数
- 町のあちこちで孤立する住民が発生
このような状況の中、品次郎たちは船を出し、救助活動を開始しました。
- 品次郎の船がなければ、被災地に入ることは困難だった
- 船を使い、家屋の屋根に取り残された住民を救助
- 水や食料を届けるための物資運搬も行った
- 青年団のリーダーとして、避難所の運営にも関与
山本瀧之助研究会の会長・清水幹男さんによると、当時28歳だった品次郎のリーダーシップは非常に大きな役割を果たしていたとのことです。彼の存在がなければ、多くの人命救助は難しかったとも言われています。
- 品次郎の行動は、後に青年団の活動の模範となった
- 彼の名前は、日本青年館の記録に「模範的な青年団活動のリーダー」として残されている
- 救助に関わった青年団の記録が今も福山市の資料館に残る
100年以上前の水害の記録の中で、品次郎の活躍は決して忘れられることなく、今もなお語り継がれています。彼の勇敢な行動が、後の災害ボランティア活動の原点となったことは間違いありません。
広島で先祖の謎を調査 乱獅子という名字の由来は?
投稿者の乱獅子尚美さんは、親戚以外で同じ名字の人に出会ったことがないといいます。「乱獅子」という名字は江戸時代の相撲取りの四股名が由来ではないかと聞いたことがあり、その真相を知るために調査が始まりました。
江戸時代、相撲は地方でも盛んに行われていた。広島でも独自の相撲文化があり、地元の大会が頻繁に開催されていたことが分かっています。乱獅子という名前の力士が実在したのかを調べるため、東京の両国国技館の相撲博物館を訪ねました。
- 乱獅子という名は、広島で相撲を取っていた力士の四股名であったことが判明
- 「広島県武術家伝」(大正14年発行)に、乱獅子という名の力士が3人記録されていた
- 活動時期は文化・文政時代(1804年~1830年)と推定
さらに詳しく調べるため、広島市内の光圓寺(こうえんじ)を訪ねると、驚くべき発見がありました。
- 寺の境内に乱獅子姓を持つ3人の力士の墓が確認された
- 乱獅子丈五郎、乱獅子善四郎、乱獅子善太郎の名前が刻まれていた
- 乱獅子尚美さんの先祖は、資料によると乱獅子善太郎である可能性が高い
乱獅子という四股名が、なぜそのまま名字になったのかも調査を進めました。
- 江戸時代、相撲取りの四股名がそのまま名字として使われる例は珍しくなかった
- 特に地方では、相撲取りが引退後に地元に戻り、そのまま四股名を名乗ることがあった
- 乱獅子姓も、力士だった善太郎が広島で生活する中で、そのまま名字として定着したと考えられる
さらに、光圓寺の過去帳には、善太郎が相撲を引退後に地域で道場を開いた記録も残されていました。
- 弟子をとり、地元の若者に相撲を教えていた
- 広島の相撲文化を広めることに貢献
- その功績から、地域の人々に親しまれ、乱獅子姓が受け継がれた
この調査を通じて、乱獅子という名字が単なる相撲の四股名ではなく、広島の相撲文化と深い関わりを持つ歴史ある名字であることが明らかになりました。
広島で先祖の謎を調査 地域を救った用水路
広島市西区の豊田祐子さんからの依頼は、「八木用水を造った桑原卯之助は先祖か?」というものでした。八木用水は、広島市の祇園や西原の住宅街を縫うように流れる用水路ですが、もともとは農地のために作られたものです。
この地域ではすぐそばを太田川が流れていますが、土地の高さが川より高いため、そのまま水を引くことができませんでした。そのため、田んぼや畑に水を供給するのが難しく、多くの農家が水不足に悩まされていました。
- 八木用水の建設を決意したのが桑原卯之助
- 祇園の大工の家に生まれた卯之助は、地域の暮らしを支えるため、水路を造ることを決意
- どこから水を引くか何年もかけて調査を続けた
- 16kmも上流まで遡った太田川の水源を発見
しかし、工事は困難を極めました。
- 途中には山があり、そのままでは水を通せない
- トンネルを掘る技術もない時代だったため、山を迂回するルートを考案
- 人夫を集め、何年もかけて工事を指揮
- 大雨や土砂崩れで工事が中断することもあった
それでも卯之助は諦めることなく、ついに八木用水が完成しました。
- 農地に安定した水を供給できるようになり、多くの農家が救われた
- 米の収穫量が大幅に増加し、地域の暮らしが豊かになった
- 現在も八木用水は使われており、その恩恵を受ける人々がいる
豊田祐子さんは、桑原卯之助が本当に自分の先祖なのかを調べるため、広島県立文書館にある桑原家の系図を照合しました。しかし、そこに豊田さんの直系の先祖である孫兵衛や孫四郎の名前は見当たりませんでした。
- さらに100年ほど前の江戸中期の記録を調査
- そこに「卯之助の弟に孫兵衛という人物がいる」ことが判明
- 豊田祐子さんは、この孫兵衛の子孫である可能性が高い
つまり、直接の子孫ではなくても、豊田さんの家系は桑原卯之助の一族に連なっていることが分かりました。
- 八木用水を作った偉大な先祖が、自分の家系とつながっていたことを知り、感慨深いものがあった
- 先祖の功績を知ることで、地域の歴史をより深く理解できる機会となった
今もなお、八木用水は地域の暮らしを支える大切な存在です。その水路を作ったのが、自分の家系とつながる人物だったと知ることは、とても誇らしいことだったに違いありません。
広島で先祖の謎を調査 遺品のノートにあった青春
昭和20年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、多くの人々が命を落としました。その中のひとりが、当時15歳の女学生だった山田香さんです。今回の調査は、彼女が残した**「永遠の記」というノート**に込められた想いをたどるものでした。
投稿者の山田幸成さんの自宅で見せてもらったこのノートには、香さんの同級生たちからのメッセージが書かれていました。
- 「永遠の記」という題名には、友人たちが香さんに向けた大切な思いが込められていた
- 20人の女学生が書いた寄せ書きであり、友情の証でもあった
- 3月18日は香さんの誕生日であり、このノートは誕生日を祝うために作られたもの
香さんが通っていたのは、現在の進徳女子高等学校。しかし、当時は戦争の影響で学徒動員が行われ、香さんたちの授業は停止されました。
- 学徒動員先は日本製鋼所広島製作所と判明
- 女学生たちは主に、航空機を攻撃する銃の弾の生産に従事
- 長時間の作業が続き、体力的にも精神的にも厳しい環境だった
原爆が投下された8月6日は、動員先の工場ではなく、鶴見橋付近にいました。
- ちょうどその日は休日であり、工場での作業はなかった
- なぜその場所にいたのかは正確には分からないが、友人たちと楽しい時間を過ごそうとしていた可能性が高い
- 爆心地に近い場所だったため、大きな被害を受けた
香さんは原爆の爆風と熱線を受けながらも、一命をとりとめました。しかし、そこからの避難は過酷を極めました。
- 家族のいる広島市東区戸坂へ向かった
- 身体はやけどに覆われ、重傷を負っていた
- 家族と再会することはできたが、衰弱が進んでいた
- 被爆から5日後、戸坂の自宅で亡くなった
彼女が遺した「永遠の記」のノートは、現在も家族によって大切に保管されています。
- このノートは、戦争に翻弄された若い命の証
- 友人たちとのかけがえのない時間を刻んだ記録
- 現在も平和の大切さを伝える貴重な資料となっている
香さんの人生は短かったですが、彼女の存在を証明するこのノートが、これからも語り継がれることでしょう。
まとめ
今回の「あなたのファミリーヒストリー 広島編」では、広島に生きた7つの家族の物語を通して、広島の歴史や人々の生き方を深く知ることができます。海外移民の壮大な歴史、地域に貢献した発明家、広島カープの歴史、戦争によって奪われた青春、幻の橋を生み出した技術者、神楽を継承する家族、日本刀職人の家系など、それぞれの家族が持つストーリーには、時代を超えた大切な教訓があります。
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