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NHK【ファミリーヒストリー】山里亮太 〜夢を支えた家族の約束〜 鹿児島・熊本に残るルーツと30歳までの約束|2025年9月28日

ドキュメント

山里亮太を支えた家族の物語と「30歳までの約束」

お笑い芸人を目指したい。そう思った高校生の山里亮太さんは、家族に夢を打ち明けました。しかし堅実な道を歩んでほしいと願う父は猛反対。悔しさで涙する息子に、母は「泣くな亮太、大阪に行け」と背中を押しました。正反対の両親の言葉。そして家族と交わした「30歳まで諦めずに頑張る」という約束。それが後に芸人として成功する彼の支えになったのです。2025年9月放送の『ファミリーヒストリー』では、鹿児島と熊本に根を持つ山里家の壮大な歴史が語られました。

山里亮太やまさとりょうた

1977年生まれ、千葉県出身。 大学在学中に吉本総合芸能学院に入学。 卒業後、漫才コンビ、ピン芸人などの活動を経て山崎静代と「南海キャンディーズ」を結成、人気を博す。 お笑いタレントのほか、声優、ナレーター、ラジオパーソナリティーなど、多方面で活躍。

山里亮太 – 逆転人生(2019) MC – NHK

父・清美さんの鹿児島ルーツと堅実さ

父の山里清美さんは、鹿児島県日吉町吉利の出身です。山里家は代々この土地で暮らしてきた家系で、古い文献によれば鎌倉時代からすでに「山里」という地名が記されていました。地域の歴史そのものと深く結びついた家の出身だったのです。

5代前の先祖である山里四郎八は、多くの田畑を所有しており、地域の中でも豊かな暮らしをしていました。しかし時代の流れの中で状況は一変します。曽祖父の山里正太郎が知人の借金の保証人となったことから、一気に財産の多くを失ってしまったのです。正太郎は生活を立て直すために温泉宿で働き、コツコツと借金を返済しながら家族を支え続けました。

その後、祖父の山里正弘もまた地元の郵便局に勤め、真面目に働いて家を守りました。堅実さと努力を重んじる気質は、こうして代々受け継がれていったのです。

この流れを継いだ清美さんも、薩南工業高等学校に進学して技術を学び、卒業後は建設業界に就職しました。真面目に働き成果を重ねる姿勢は、父や祖父から受け継いだものにほかなりません。だからこそ、息子の山里亮太さんが芸人を目指すと言ったとき、清美さんは「安定した仕事に就いてほしい」と強く願い、反対したのです。

母・文代さんと熊本の山崎家

母の山里文代さんの旧姓は山崎で、本籍は熊本県八代市坂本町にあります。文代さんの父、つまり亮太さんの祖父にあたる山崎續男さんは、若い頃から努力を惜しまない人物でした。地元を離れて薬問屋に就職し、誠実な働きぶりと成績の良さで信頼を集め、29歳という若さで取締役に昇進しました。その姿は、家族にとって誇りそのものでした。

一方、亮太さんの祖母で續男さんの妻である山崎ケイ子さんは、鹿児島で「すぎ食堂」を営んでいました。食堂は地元の人々や労働者でにぎわい、ケイ子さんの明るさと太っ腹な人柄で多くの常連客に愛されました。お客を笑わせることが大好きで、場を和ませる力にあふれていたケイ子さんは、まさに地域の人気者だったのです。

さらにケイ子さんは筆まめで、日記に川柳を書き残すことを日課としていました。その几帳面さと表現の豊かさは、孫である山里亮太さんにも色濃く受け継がれています。亮太さんが芸人として積み重ねてきた数百冊に及ぶネタ帳は、祖母の川柳と重なり合い、家族の中に脈々と流れる「言葉を大切にする力」や「人を笑顔にする精神」を感じさせます。

両親の出会いと「ぶっとんだ結婚」

驚くべきなのは、両親の結婚の決め方でした。母の山里文代さんは紹介を受けた際、まず相手である山里清美さん本人ではなく、その両親に会いました。そして「とても良いご両親だから、本人に会わなくてもいい」と判断し、結婚を決意したのです。

一方の清美さんも、「両親が気に入ったのなら、それでいい」と返事をし、なんと一度も顔を合わせないまま結婚を承諾しました。二人が初めて出会ったのは、結納が終わったあとという驚きの展開でした。

この一見ぶっとんだ選択について、息子の山里亮太さんは「もしあの決断がなければ、自分は生まれていなかった」と振り返り、まさに運命に導かれたような劇的な縁として語っています。

父の海外勤務と厳しさ、母の優しさ

父の山里清美さんは、若い頃にリビアの首都トリポリへ渡り、港湾建設という大規模な国際プロジェクトに従事しました。海底を掘削し護岸を整備する難工事は長期にわたり、資材や道具の調達など責任の重い任務を任されていました。清美さんはその仕事をやり遂げ、見事に成功へ導いたのです。

しかし帰国後は、家族との時間をより大切にするために国内勤務へ異動しました。そんな清美さんは家庭では非常に厳格で、長男の大樹さんもその厳しさを強く記憶しています。真面目で努力を重んじる姿勢を子どもたちにも求めたのです。

一方で、母の文代さんは対照的でした。子どもたちに「好きなことをやりなさい」と優しく声をかけ、挑戦する気持ちを尊重しました。厳しさと優しさという正反対の教育方針。その両方を受けながら育った山里亮太さんは、自然とバランス感覚を養い、自分らしさを大切にしつつ努力を惜しまない姿勢を身につけていったのです。

夢を賭けた「30歳までの約束」

高校生の頃、山里亮太さんは思い切って「芸人になりたい」と家族に打ち明けました。しかし父の清美さんは猛反対。堅実に働いてほしいという強い思いから、芸人という不安定な道を受け入れることはできなかったのです。

それでも母の文代さんは「挑戦させてあげたい」と亮太さんを励まし、兄の大樹さんも味方になりました。大樹さんは自分がアルバイトでコツコツ貯めた30万円を「大阪での受験費用に使え」と差し出し、弟の背中を押しました。

こうして家族は「30歳までに芽が出なければ諦める」という約束を交わします。この約束は、亮太さんにとってただの条件ではなく、苦しい下積み時代を耐え抜く大きな支えとなりました。努力を続ける理由になり、心のよりどころにもなったのです。

南海キャンディーズ結成とM-1準優勝

大学進学と同時に、山里亮太さんは念願だった吉本興業の養成所に入学しました。結果が出ない日々の中でも諦めず、壁のシミを見てネタを連想するなど、日常の何気ない出来事を笑いに変える独自の訓練を積み重ねました。

そして2003年、運命の出会いが訪れます。長身で存在感のある山崎静代(しずちゃん)さんを自ら相方に誘い、コンビ『南海キャンディーズ』を結成。わずか結成から1年後の2004年、『M-1グランプリ』で準優勝という快挙を成し遂げました。亮太さんは27歳、まさに家族と交わした「30歳までに芽が出なければ」という約束の中で、大きく夢に近づいた瞬間でした。

その背景には、母の文代さんがかけた「泣くな亮太、大阪に行け」という一言がありました。あの励ましの言葉があったからこそ、厳しい下積みを耐え抜き、大舞台で輝くところまで歩み続けることができたのです。

家族に残された記録と蒼井優との結婚

父の山里清美さんの家には、息子である山里亮太さんの出演番組が録画されたDVDや、ラジオの音源がきちんと残されており、その様子はまるで一家の「資料館」のようでした。家族がどれほど亮太さんの歩みを大切に見守ってきたかが伝わります。

また、祖母の山崎ケイ子さんも筆まめな性格で、亮太さんの活躍を日記に書き留めていました。川柳や日常の記録と同じように、孫の成長や芸人としての足跡を丁寧に残していたのです。

そして令和元年、亮太さんは女優の蒼井優さんと結婚。このニュースは大きな話題になりましたが、父の清美さんは蒼井優さんを知らなかったという意外なエピソードも紹介され、思わず笑いを誘う場面となりました。家族の素朴さと温かさが伝わる、印象的なエピソードでした。

まとめ

この記事のポイントは以下の3つです。

  1. 芸人になる夢を支えた「30歳までの約束」は家族の絆の象徴だった

  2. 父の厳格さと母・祖母の明るさが山里亮太の原点になった

  3. 鹿児島と熊本に根付いたルーツが、今の芸人としての姿につながっている

山里亮太さんの物語は、家族の歴史そのものが背中を押してくれる力になることを教えてくれます。


ソース:
NHK ファミリーヒストリー


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