今だから知りたい、なぜ生まれてきたのか
2025年1月22日に放送されたNHK「ファミリーヒストリー」では、ゲストとして藤あや子さんが出演しました。昨年5月、初期のがんと診断され、手術を経験した藤さん。死を意識する中で自らのルーツを知りたいと思うようになり、番組を通じて家族の歴史を深く掘り下げました。父方、母方の両方のルーツを辿る中で、戦争や貧困といった時代の波に翻弄されながらも、困難を乗り越えてきた家族の姿が明らかになりました。藤あや子さんの人生に刻まれた家族の物語、その背景を詳しく解説します。
父方のルーツ:秋田の農家・高橋家の歴史
藤あや子さんの本名は高橋真奈美。秋田県仙北郡薗田村(現在の仙北市)にルーツを持つ高橋家に生まれました。高橋家の初代である仁右衛門は、安土桃山時代から江戸時代にかけて活躍した人物で、荒れ地を開墾し広大な田畑を子孫に分け与えました。結果、高橋家は8つの分家を持つ大きな家系となり、地域でも名の知れた存在でした。
- 真奈美さんの父・定治は、大正6年に高橋家の分家で四男として誕生しました。幼少期から活発で行動力にあふれ、地域の凶作や農村の困窮という厳しい時代を経験しました。
- 昭和初期の記録的な凶作の中で、定治の心の支えとなったのは民謡でした。歌や音楽が苦しい生活を癒やしていたことがわかります。
昭和12年に日中戦争が勃発すると、定治は陸軍に入隊し、工兵として満州に派遣されます。任務地はソ連国境付近という緊張状態下の地域で、常に危険と隣り合わせでした。昭和16年に除隊したものの、定治は日本に戻らず、満州で食文化に着目します。
- 持ち前の行動力で、満州に食堂を開業。豊かな食文化を取り入れながら生計を立てました。
- この頃、いとこの女性と結婚し、長女が誕生。しかし、戦争の激化に伴い終戦時には満州が混乱に陥りました。
終戦後、定治は家族を日本に帰国させますが、自身は船に乗れず取り残されます。2年間の消息不明期間の間、妻は再婚しました。その後、定治は中国人になりすますという危険な手段を使って帰国を果たしました。
- 帰国後、再婚した定治は、戦争中に培った経験や料理の腕を活かし、精肉店を開業します。
- 精肉店ではコロッケをはじめとする惣菜の販売も行い、地域で人気を博しました。
- 秋田県角館に移り住み、再び精肉店を営みながら家族とともに生活を築いていきました。
定治の人生は、農家の四男として生まれ、戦争や時代の変化に翻弄されながらも、行動力と創意工夫で困難を乗り越えた軌跡といえます。その精神は娘である藤あや子さんの生き方にも影響を与えています。
母方のルーツ:祖母ヤスノが残した思い
藤あや子さんの母方の祖母、ヤスノは秋田県仙北郡下延村出身で、奥田家という村でも有力な家系に生まれました。奥田家は広い秣場を所有し、地域社会に影響力を持つ存在でした。
- ヤスノの祖父である義夫は役者として活動し、農民が演じる農村歌舞伎に参加していました。当時の農村では娯楽の一環として芝居が行われ、義夫も地域に貢献していたことがわかります。
- ヤスノの母となるマツ江は名家である川瀬家の養女となり、そこで新たな人生を歩むこととなりました。川瀬家は地域の中でも尊敬を集める存在で、その養子縁組は奥田家と川瀬家のつながりを象徴しています。
ヤスノは18歳で結婚し、小さな農家の妻として懸命に働きましたが、重病によりわずか25歳で亡くなりました。この早すぎる死は家族に大きな影響を与えました。
- ヤスノの娘であるノリ子は、生後6か月で母を失い、父とともに生活を続けます。
- 父親が再婚した後、弟3人が生まれるものの、母の記憶を持たないノリ子は心を閉ざしがちな少女時代を過ごしました。
中学を卒業後、ノリ子は家計を支えるために働き始めます。近所の精肉店でアルバイトをする中で、店主の定治と出会い、次第に信頼関係を築きます。
- 定治は満州での経験を活かして精肉店を営みながら、ノリ子を温かく見守り、支えました。
- 昭和36年、ノリ子と定治は結婚し、新たな家庭を築きます。この結婚は、戦争や困難な時代を生き抜いてきた定治と、家族の支えを求めていたノリ子がともに歩む決意を示すものでした。
ノリ子が歩んだ道は、祖母ヤスノが早世し、父と弟たちと苦労を分かち合いながら生きてきた背景が深く影響しています。幼い頃から苦労を重ねたノリ子の姿勢は、娘である藤あや子さんの強さと優しさに受け継がれているのです。
真奈美から藤あや子へ:角館の祭りと歌手への道
真奈美さんが育った秋田県角館では、毎年9月に行われる祭りが町全体を彩っていました。祭りの山車が家の目の前を通り、その上で披露される手踊りに強い憧れを抱くようになりました。手踊りは町の伝統文化を象徴するもので、真奈美さんにとって幼少期から心を躍らせるものでした。
- 高校を卒業した後、真奈美さんは結婚し、子どもをもうけます。しかし、その後の離婚によってシングルマザーとなり、生活を支えるために新たな道を模索することになりました。
- 生活費を稼ぐ中で、民謡歌手のバックダンサーとしてのアルバイトを始めます。ステージで歌や踊りに触れる環境が、真奈美さんに新たな夢を抱かせました。
- やがて、自らもステージで歌を披露するようになり、民謡の練習に励む日々が続きました。
24歳の時、一般参加型の歌番組に出演する機会を得ます。この出演が彼女の人生の転機となりました。番組を見ていたレコード会社のプロデューサーからスカウトされるという、思いがけない展開が待っていたのです。
- スカウトの誘いに対し、最初は「秋田を離れたくない」と一度断ります。この決断の背景には、シングルマザーとして子どもと離れることへの不安がありました。
- しかし、父・定治の「大切なのは行動することだ」という助言が、彼女の背中を押しました。父の言葉は彼女の心を動かし、新たな挑戦への決意を固めました。
平成元年、真奈美さんは「藤あや子」という芸名でデビュー。華やかなステージデビューを果たし、その歌声で注目を集めます。デビュー後の3年目にリリースされた「こころ酒」が大ヒットし、全国的な人気を獲得しました。この成功は、彼女の努力と家族の支えがあったからこそ実現したものでした。
- デビューからわずか数年でNHK紅白歌合戦への出場を果たし、日本全国にその名を知られる存在となりました。
- 真奈美さんの人生は、角館で育まれた伝統文化への愛情と、家族の助言が織りなす物語そのものです。
藤あや子さんの歩みは、家族や故郷の思いが詰まった歌声とともに、これからも多くの人々に感動を与え続けています。
家族の思いと時代の波
藤あや子さんの父・定治は、娘がNHK紅白歌合戦に初めて出場する姿を病室のテレビで見届けました。藤さんの成功をその目に焼き付けた定治でしたが、半年後の76歳で他界しました。藤さんにとって最も大きな支えとなった父の死は、彼女の心に深い悲しみを残しました。
- 定治は、満州での激動の経験や、戦後の再出発を経て、家族のために精肉店を営みました。その努力は、娘が夢を追い続けるための土台を築くものでした。
- 紅白歌合戦に出演する藤さんの姿を見たことで、定治の人生の中で大きな喜びとなったことは間違いありません。
平成15年、母・ノリ子も病に倒れ、秋田で入院生活を送ることになりました。この時、献身的にノリ子を支えたのが、祖母ヤスノの妹・良子さんでした。良子さんは「これはヤスノに頼まれた役割だ」と語り、病床のノリ子を見守りました。
- 良子さんは、亡き姉ヤスノの代わりに家族を支えることを自分の使命と感じ、ノリ子に尽くしました。その姿勢は、家族の絆の深さを物語るものです。
- 同年の紅白歌合戦で藤さんが再び出場する際、ノリ子は病室でその姿を見つめ、娘の成功を誇らしく思っていました。
ノリ子は紅白歌合戦から9か月後、63歳の若さで生涯を閉じました。ノリ子の最後の姿を見守った良子さんは、その役目を果たしたことに満足しながらも、姉への思いを抱え続けました。
- 父・定治、母・ノリ子、そして支え続けた良子さんの存在が、藤あや子さんの人生において大きな影響を与えています。
- 時代の波に翻弄されながらも、家族はそれぞれの役割を全うし、藤さんの成功を支えてきました。
藤あや子さんの人生は、家族の支えと絆、そして彼らの想いによって形作られていると言えます。その姿は、家族が歩んできた道のりそのものを象徴しています。
まとめ
藤あや子さんのファミリーヒストリーは、時代の困難を乗り越えた家族の絆と歩みを浮き彫りにしました。そのルーツをたどる旅は、藤さんが自身の存在意義や歌手としての原点を見つめ直す機会となりました。
コメント