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【NHK映像の世紀バタフライエフェクト】運命の恋人たち|マリリン・モンローとラビング夫妻の愛が切り拓いた未来【3月27日放送】

ドキュメント

運命の恋人たちがつないだ自由への希望|2025年3月27日放送回まとめ

NHK総合で2025年3月27日に放送された『映像の世紀バタフライエフェクト』では、「運命の恋人たち」と題して、時代を超えて愛の自由を求めた人々の姿が描かれました。マリリン・モンローやエルトン・ジョン、異人種間で結ばれたラビング夫妻など、それぞれが偏見や差別と闘いながら、自らの愛を貫き、人々に勇気を与えた物語が展開されました。放送では、彼らの歩みがどのように社会の意識を変え、法を動かしていったのかが、貴重な映像とともに紹介されました。

銀幕の女神マリリン・モンローの波乱に満ちた人生

ノーマ・ジーンとして生まれたマリリン・モンローの人生は、まさに映画のような波乱に満ちていました。孤児院で過ごした幼少期、心の支えとなったのは銀幕の世界でした。そんな彼女の転機は、軍需工場でのモデル撮影から始まります。そこで撮られた写真がエージェントの目に留まり、芸能界入りを果たしました。

しかし、最初の映画出演は評価されず、契約は1年で終了。ここでモンローを支えたのが、ハリウッドの有力者であったジョニー・ハイドです。

  • 演技指導を受けることで表現力が向上

  • 整形手術によって見た目の印象も変化

  • ファッションや立ち振る舞いも徹底的に磨かれた

その努力が実を結び、1950年公開の『アスファルト・ジャングル』で官能的な役柄を演じ、大きな注目を集めます。この映画で初めて“モンローらしさ”が認められたとも言われています。

その後、モンローは次々と映画に出演し、ハリウッドのトップスターに。とくに『紳士は金髪がお好き』で歌った「Diamonds Are A Girl’s Best Friend」は、今でも伝説として語り継がれています。

スターとなったモンローは、1954年1月に野球界のヒーロー、ジョー・ディマジオと結婚。2人の結婚は「アメリカンドリームを象徴する夫婦」として注目を集めました。

しかし、その幸せは長く続きませんでした。映画『七年目の浮気』の名シーン、風でスカートがめくれ上がる場面を見たディマジオは激怒します。

  • 公共の場での性的な演出に強く反発

  • モンローの人気が夫婦関係に影を落とす

  • プライベートでも価値観の違いが浮き彫りに

結果として、結婚生活はわずか9ヶ月で破綻。1954年10月には離婚手続きに入りました。

モンローの人生は、この後も恋愛、結婚、芸能活動と続いていきますが、この時期は彼女にとって大きな転換点となりました。恋と仕事のはざまで揺れるモンローの姿は、当時の女性たちにも深い共感を与え、多くの人の心に残りました。

異人種間の愛がアメリカを変えた

1950年代のアメリカでは、州によって異人種間の結婚が法律で禁じられていました。そんな中で、白人男性のリチャード・ラビングと黒人女性のミルドレッド・ラビングは、心から愛し合い、結婚という形でその愛を誓いました。2人は静かに暮らしていたにもかかわらず、ある日突然、警察に踏み込まれ、逮捕されてしまいます。

  • 当時のバージニア州では異人種間の結婚が違法

  • 2人は「結婚」という行為そのものが罪とされ、有罪判決を受ける

  • 故郷を追放され、ワシントンD.C.のスラム街での生活を余儀なくされる

それでも2人は別れることなく、愛を貫きました。日々の生活は苦しかったものの、「一緒にいたい」という気持ちだけは変わらなかったのです。

年月が経ち、ミルドレッドは勇気を出して、司法長官だったロバート・ケネディに手紙を送りました。その思いに応えるように、人権団体が動き、法廷での戦いが始まります。

  • 弁護士はリチャードの言葉「私はただ妻を愛しているだけなんだ」と伝える

  • 異人種間結婚の禁止はアメリカ合衆国憲法に反していると主張

  • 裁判は連邦最高裁にまで進み、全国的に注目を集める

2人は身の危険を感じて法廷には立てませんでしたが、弁護士たちがしっかりとその想いを代弁しました。そして1967年、ついに判決が下されます。連邦最高裁は異人種間結婚の禁止を違憲と認めたのです。

  • この判決により、アメリカ全土で同様の法律が撤廃

  • 2人はようやく故郷バージニアへと戻り、静かな生活を取り戻す

リチャードとミルドレッドの愛は、単なる夫婦の物語ではありませんでした。それはアメリカの差別の歴史を変えた、大きな一歩だったのです。 愛を信じ、あきらめなかった2人の勇気が、今の自由な社会へとつながっていったのです。

モンローの最期とケネディとの関係

1956年、マリリン・モンローは劇作家アーサー・ミラーと結婚します。それまでの「セックスシンボル」というイメージから脱却しようと、彼の勧めで俳優養成所に通い、本格的に演技を学び始めました。そこで演じた映画『荒馬と女』では、内面に葛藤を抱える強い女性の役に挑戦します。

  • アーサー・ミラーが脚本を手がけたことで、2人の信頼関係も深まった

  • 撮影現場では真剣に役作りに取り組み、プロとしての姿勢が見られた

  • 観客からは賛否が分かれ、興行的には失敗に終わってしまう

さらに、プライベートでは2度の流産を経験。夫婦関係にも次第に溝が生まれ、結婚生活は終わりを迎えました。

孤独と喪失感に包まれたモンローの前に現れたのが、当時上院議員だったジョン・F・ケネディでした。彼の人種差別撤廃や社会改革への強い意志に心を動かされたモンローは、その選挙活動に積極的に協力します。

  • ケネディの演説や政策に深く共感し、寄付や応援演説を行った

  • 大統領就任後も親しい関係を続け、政治的な場にも顔を出すようになる

  • しかし、FBIがモンローの存在を問題視し、ケネディに警告を出す

その結果、ケネディはモンローとの関係を突然断ち切ります。信じていた人に拒絶されたことで、モンローは深く傷つき、孤独と絶望の中で薬物とアルコールに依存するようになります。

  • 不眠や不安を紛らわせるために処方された薬に頼る生活

  • 心の空白を埋めることができず、精神的にも不安定に

  • 身近な人たちとの距離も遠のき、支えを失っていった

そして1962年8月、モンローは睡眠薬の過剰摂取によって、36歳という若さで亡くなりました。その訃報は世界中に衝撃を与えました。

葬儀を取り仕切ったのは、かつての夫ジョー・ディマジオでした。彼はマスコミの立ち入りを断固として拒み、モンローに静かな別れを届けたと伝えられています。ディマジオはその後も、生涯にわたりモンローの墓に花を供え続けたといわれています。

モンローの人生は、華やかな銀幕の裏で多くの痛みと葛藤を抱えていました。そして彼女の最期は、時代の光と影を象徴するような出来事だったのです。

偏見を乗り越えたエルトン・ジョンの告白と友情(追記)

マリリン・モンローの死から11年後の1973年、イギリスの若きアーティスト、エルトン・ジョンが彼女に捧げた曲『キャンドル・イン・ザ・ウインド』を発表します。繊細な歌詞とメロディーは世界中の人々の心を動かし、大きなヒットとなりました。ですが、その後エルトン・ジョンは大きな壁に直面することになります。

彼は1976年、自らが同性愛者であることを公に告白します。当時の社会では同性愛に対する理解が乏しく、その告白は大きな衝撃を呼びました。

  • レコードの売り上げが急激に落ち込む

  • 一部のラジオ局では楽曲が放送禁止になる

  • メディアや世間からのバッシングが相次ぐ

追い詰められたエルトンは、徐々に心のバランスを崩していきます。舞台から離れ、薬物やアルコールに依存する生活へと傾いていきました。音楽に支えられてきた人生が、偏見によって壊されそうになった瞬間でした。

そんなとき、大きな希望を与えてくれたのがダイアナ妃の存在でした。1987年、彼女はエイズ専門病棟を訪れ、患者と素手で握手を交わします。これは、当時根強く残っていた「エイズは触れただけで感染する」という誤解を打ち壊すものでした。

  • 王族という立場で偏見に立ち向かう勇気ある行動

  • エイズ患者にとっては初めて人間として認められた瞬間

  • ダイアナ妃の姿は世界中で報道され、大きな反響を呼ぶ

ダイアナ妃もまた、王室の中で苦しい結婚生活を送っており、孤独や痛みを音楽に重ね合わせていたといわれています。エルトン・ジョンの『キャンドル・イン・ザ・ウインド』は、彼女にとって特別な一曲となっていました。

そして1997年、悲劇が訪れます。ダイアナ妃が36歳で交通事故によりこの世を去ったのです。その死は世界中に深い悲しみをもたらしました。

葬儀の場で、エルトン・ジョンは彼女のために『キャンドル・イン・ザ・ウインド』の歌詞を一部変更し、ダイアナ妃への想いを込めて演奏します。

  • 曲は「Goodbye England’s Rose」という新たな歌詞で再構成

  • 世界中で感動を呼び、追悼シングルとして歴史的な大ヒットに

  • 売り上げの収益はダイアナ妃の慈善団体へ寄付された

エルトン・ジョンは、自身の音楽と友情を通じて偏見と闘い続けました。そしてダイアナ妃との絆が、彼に再び希望を与えたのです。 偏見に苦しむ人々を励まし、音楽の力で心をつなぎ続けたエルトンの姿は、今も多くの人に勇気を与えています。

愛のかたちが制度を変えるまで

ダイアナ妃の死後、ブレア首相はLGBTへの法整備を進め、2005年には同性パートナーシップ制度がイギリスで導入されます。その第1号カップルとなったのが、エルトン・ジョンとパートナーのデイヴィッド・ファーニッシュでした。

そして2015年、アメリカでも同性婚が合法化。その判決を導いた最高裁判事が参考にしたのが、ラビング夫妻の判決でした。モンローの孤独も、ラビング夫妻の勇気も、エルトンの音楽も、すべてが自由な愛を育む土台となっていったのです。

愛に形はありませんが、その力は人々を動かし、国の制度をも動かしていくほど大きなものでした。マリリン・モンローはかつてこう語っています。

「もしも私があなたを幸せにできたのなら、それは世界で最も偉大で困難なことを成し遂げたということ。だって、人を幸せにしたのだから。愛は人間界に隠されている奇跡なの。」

人を愛すること、信じることがどれほどの奇跡なのか。番組を通して改めて教えられる回でした。

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