記事内には、広告が含まれています。

NHK【映像の世紀バタフライエフェクト】朝鮮戦争と核の決断|大国の思惑と日本の転換点【2025年5月22日】

映像の世紀バタフライエフェクト

朝鮮戦争 そして核がばらまかれた

1950年、朝鮮半島で始まった戦争は、世界を巻き込む大きな転換点となりました。今回の「映像の世紀バタフライエフェクト」では、朝鮮戦争と核兵器の拡散という重いテーマが扱われ、戦争によって引き起こされた数々の連鎖と、そこに関わった権力者たちの姿が丁寧に描かれました。放送の内容をもとに、朝鮮戦争の始まりから核時代の到来、そして現代への影響までをわかりやすくまとめます。

日本の統治から始まった朝鮮半島の分断

1945年8月、日本が第二次世界大戦に敗れたことで、35年にわたる朝鮮半島の支配が終わりました。日本の撤退に伴い、北側にはソ連軍が、南側にはアメリカ軍が進駐し、朝鮮半島は分断されることになります。この境界線は北緯38度線とされましたが、実はこの線引きはわずか30分でアメリカ軍の将校2人によって決められたものでした。

・分割案は1945年8月14日に即席で作成された
・統治初期の38度線は比較的緩やかな警備体制だった
・南北の兵士同士が交流する様子も一部では見られた

アメリカは朝鮮半島南部の統治をGHQが担い、その最高司令官ダグラス・マッカーサーが大きな影響力を持ちました。マッカーサーは、アメリカに亡命していた李承晩(イ・スンマン)を南側の指導者として支持し、1948年には大韓民国の建国を後押ししました。一方、ソ連側が支配する北では、金日成(キム・イルソン)が抗日ゲリラ出身の経歴を買われ、ソ連の支援を受けて指導者に就任しました。

・李承晩は反共思想を強く持ち、アメリカと連携して南側の体制を築いた
・金日成はソ連軍将校の経歴を持ち、スターリンとの関係も深かった

1949年、金日成はモスクワを訪れ、ソ連の最高指導者ヨシフ・スターリンと会談。このとき金日成は、朝鮮半島に眠るウラン資源の提供を約束し、その見返りとしてソ連製の最新兵器を大量に供給してもらうことに成功しました。この取引により、北朝鮮は急速に軍備を増強し、同時にソ連も核兵器の原材料であるウランを得て、1949年8月に核実験を成功させました。

・北朝鮮はソ連との取引で最新の戦車や火砲などを入手
・ソ連は朝鮮の資源を利用して核開発を加速させた
・この時点で朝鮮半島の両政府は、和平よりも武力による統一を視野に入れていた

こうして、朝鮮半島は表面上の統治と平穏を保ちながらも、南北の体制は深く対立し、戦争の火種が静かにくすぶり始めていたのです。

朝鮮戦争の勃発と急展開

1950年6月25日、北朝鮮が突如として38度線を越え南側へ侵攻し、朝鮮戦争が始まりました。北朝鮮は、ソ連から提供された最新兵器を装備しており、その軍事力は当時の韓国軍とは比べ物になりませんでした。韓国軍は第二次世界大戦の遺物のような武器しか持たず、訓練も不十分だったため、わずか3日で首都ソウルが陥落しました。

・北朝鮮軍は戦車や重火器を使用し一気に南下
・韓国軍は戦闘機や重火器をほとんど保有していなかった
・市民も巻き込まれ、多くの犠牲者が出た

この事態を受け、アメリカを中心とした国連安全保障理事会は軍の派遣を決定GHQのダグラス・マッカーサーが国連軍の司令官に任命され、日本に駐留していた米軍部隊を中心に朝鮮半島へ送り出しました。国連軍は多国籍軍として編成されましたが、主戦力はアメリカが担っていました。

・派遣国にはイギリス、トルコ、カナダなども含まれた
・司令部は東京・日比谷の第一生命館に置かれた
・作戦指令は日本から朝鮮半島にリアルタイムで出された

しかし、アメリカ兵の多くは占領任務の延長で訓練不足だったため、戦場での対応力に欠けていました。北朝鮮軍の猛攻に押され続け、国連軍は朝鮮半島の南端・釜山周辺にまで追い込まれます。この状況は「釜山橋頭堡」と呼ばれ、国連軍が壊滅寸前だったことを示しています。

この緊迫した戦況の中、マッカーサーは日本の防衛力の不在に強い危機感を持ちました。日本に駐留していた米軍の多くが朝鮮半島へ移動したため、マッカーサーは独自の軍事組織「警察予備隊」を日本国内に創設。これが後に自衛隊の前身となります。

・1950年8月、警察予備隊が正式に発足
・約7万5000人規模で、旧日本軍出身者も多く含まれていた
・日本の「非武装憲法」の下での例外的措置とされた

このように、朝鮮戦争は単なる朝鮮半島内の内戦にとどまらず、日本の安全保障やアジア全体の勢力図にも大きな影響を与える国際的な危機として急展開していきました。

仁川上陸作戦と北への進軍

1950年夏、国連軍は釜山周辺に追い詰められ絶体絶命の状況にありました。この流れを変えるため、ダグラス・マッカーサーは奇策として「仁川上陸作戦」を立案します。仁川は干満差が大きく、海岸も狭く複雑で、世界的にも最難関とされる上陸地でした。作戦に対しては、アメリカ軍内部でも反対意見が多く、成功の可能性は極めて低いと見られていました。

・仁川の干満差は最大で9メートルを超える
・上陸可能な時間は1日に2時間だけと限られていた
・港には機雷や障害物が設置されていた可能性もあった

それでもマッカーサーは作戦を強行。1950年9月15日、上陸部隊は仁川への突入に成功します。この作戦によって北朝鮮軍の背後を突くことができ、戦局は一気に国連軍有利へと転じました。その後、9月28日にはソウルを奪還。しかし市内には北朝鮮軍による虐殺の痕跡が多く残されており、戦争の悲惨さを物語っていました。

・街のいたるところに民間人の遺体が残されていた
・建物は破壊され、都市機能はほぼ壊滅状態だった
・奪還直後から復興と治安維持に追われることになる

勝利に勢いづいたマッカーサーは、ここでとどまることなく38度線を越えての北進を命令します。国連軍は北朝鮮領内に入り、各地の軍事施設や政治犯収容所を解放していきました。中でも注目されたのが、咸鏡南道の収容所に拘束されていた文鮮明という人物です。彼は後に「世界平和統一家庭連合(統一教会)」を創設し、政治・宗教の両面で大きな影響を与える存在となります。

・文鮮明は新興宗教の教祖として投獄されていた
・釈放後、韓国や日本、アメリカに信者を広げた
・日本では岸信介との交流を通じて政治にも関与

釈放された文鮮明は、日本で岸信介と接触を持ち、反共主義を掲げる「国際勝共連合」を立ち上げるなど、冷戦構造の中での活動を本格化させていきます。こうして、戦争が生んだ戦局の変化は、やがて政治や宗教の分野にも広がりを見せることになるのです。

中国義勇軍の参戦と核使用の危機

1950年秋、国連軍は北朝鮮を押し返し、国境となる鴨緑江(おうりょくこう)に迫っていました。北朝鮮軍は壊滅状態にあり、戦争終結が目前とも思われました。しかしその裏で、中国の最高指導者・毛沢東は大規模な介入を準備していました。

・中国は前年に中華人民共和国として建国されたばかり
・国際社会での存在感を高める機会を求めていた
・戦場に国民党の残存兵を投入することで処理も狙っていた

1950年11月25日、38万人の中国人民義勇軍が鴨緑江を越えて奇襲。準備不足の国連軍は各地で撃退され、一気に南へ撤退を余儀なくされます。特に厳冬の山岳地帯での戦闘では、多くの兵士が凍傷や補給不足に苦しみました。この奇襲により戦局は再び混迷し、マッカーサーは軍人としての誇りを傷つけられます。

・一時は中国義勇軍がソウル近郊まで進出
・国連軍は戦線を再編しながら後退
・アメリカ世論も混乱し、国内の支持が揺らぎ始めた

この状況にマッカーサーは激怒し、アメリカ政府に対して中国とソ連の都市に対し26発の核攻撃を許可するよう要求しました。彼は核兵器を使うことで戦争を一気に終結させようと考えていたのです。標的には満州・シベリアの軍事拠点が含まれていたとされ、現実に核戦争が起きる可能性もありました。

しかし、この要求はトルーマン大統領により却下されます。大統領は、核の使用は第三次世界大戦の引き金になる危険があると判断し、1951年4月、マッカーサーを司令官から解任しました。これにより、マッカーサーは日本を離れることになり、GHQによる占領統治も終焉へと向かっていきます

・マッカーサーは東京国際空港からアメリカへ帰国
・退任式で戦争の悲惨さを語った演説は現在も語り継がれている
・その後、日本は主権回復に向けて本格的に動き始める

この一連の流れは、単なる戦場の攻防にとどまらず、核兵器の使用と抑止、そして国際政治の緊張を象徴する重大な転換点となりました。

戦争がもたらした日本経済の変化と核時代の到来

朝鮮戦争は、多くの命を奪い、東アジア全体を混乱させる悲劇となりましたが、日本にとっては経済復興のきっかけとなる「朝鮮特需」をもたらしました。戦場に必要な物資の多くが日本で調達され、軍需物資の発注が急増。それにより、戦後の混乱と不況にあえいでいた日本経済は息を吹き返します。

・トラック、鉄材、衣料、燃料などの大量注文が日本企業に集中
・製造業を中心に工場がフル稼働となり、失業率が大幅に改善
・赤字経営だったトヨタ自動車は特需で持ち直し、後の成長につながった

一方アメリカでは、マッカーサーの核使用要請とその解任が国内外に波紋を広げ、当時のトルーマン政権は支持を大きく失います。1952年の大統領選挙では、第二次世界大戦でノルマンディー上陸作戦を指揮したドワイト・アイゼンハワーが当選。彼は軍人出身であり、朝鮮戦争の早期終結を掲げる一方で、必要であれば核兵器の使用も辞さない姿勢を示していました。

この頃、アメリカは水素爆弾(Hボム)の開発に成功し、その威力は原爆の数百倍とされました。その情報を知った中国の毛沢東は、ソ連に核技術の提供を要求します。しかしスターリンはこれを拒否し、1953年に死去。彼の死によってソ連内では対立や強硬策に対する見直しが始まり、ようやく和平の気運が高まっていきます

・ソ連では後継者争いが起きつつも、朝鮮戦争の負担に対する不満が噴出
・中国も人的被害が大きく、戦争継続の意義に疑問が出始めていた
・アメリカでも厭戦気分が広がり、戦争終結への期待が高まっていた

そして1953年7月27日、ついに休戦協定が板門店で調印されました。これにより3年間に及んだ戦争は終結しますが、正式な終戦ではなく現在も休戦状態が続いているという事実は忘れてはなりません。戦争による死者は軍民合わせて500万人以上とも推定され、その代償として朝鮮半島に残されたのは、わずかに傾いた国境線だけでした。

この朝鮮戦争をきっかけに、世界は核兵器による軍事バランスを前提とした「冷戦時代」に突入します。核の抑止力が平和を保つとされながらも、同時に人類が自滅する危険と隣り合わせの時代が始まったのです。

戦争の爪痕とその後の核拡散

その後も朝鮮半島の緊張は続き、1953年にソ連が水爆実験、1964年には中国も核実験に成功。さらに、ソ連崩壊後にウクライナの技術者を得た北朝鮮も核開発に乗り出し、現在までに12705発の核兵器が世界に存在するまでに至りました。

番組のラストでは、マッカーサーの退任演説が引用されました。「戦争ほど嫌悪すべきものはないが、戦わざるを得ない時には迅速に終わらせるべきだ」と語った彼の言葉が、戦争の矛盾と核の脅威を物語っていました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました