激動 アジアの隣人たち 韓国 戒厳令との闘い
NHKの人気シリーズ「映像の世紀バタフライエフェクト」が、2025年6月23日の放送で取り上げるのは、韓国の「戒厳令」とその歴史的背景です。2024年末に起きた非常戒厳令の発令は、過去に繰り返された戒厳体制の記憶をよみがえらせ、多くの市民に衝撃を与えました。この放送では、戦後から現代に至るまで、17回にわたって発令された戒厳令と、それに立ち向かった市民の記録が映像とともに紹介される予定です。
韓国の戒厳令は何のために使われてきたのか
韓国における戒厳令は、もともとは戦争や国家の非常事態に備えた安全保障措置として法制度に組み込まれていました。しかし実際には、その目的を超えて政治的な混乱や反体制運動を抑え込む手段として頻繁に使われてきました。とくに戦後から1980年代にかけては、政権の正当性が問われるような場面で戒厳令が発動され、市民の自由が大きく制限されました。
・1948年、大韓民国建国直後に初めて戒厳令が発令されました。李承晩大統領は、共産主義勢力による脅威を名目にして戒厳令を敷きましたが、実際には政敵や市民の不満を抑える目的が強く、市民の不安を高める結果となりました。
・1950年から1953年の朝鮮戦争中には、国家の存亡がかかる中で全面的な戒厳体制が敷かれました。戦時下では当然の措置とされましたが、その後も政府は戒厳令の発動を日常的な政治手段として用いるようになります。
・1960年の「四月革命」では、選挙不正に抗議する学生運動が全国に広がり、李承晩政権はそれに対して戒厳令を発動しました。ソウルを中心に市民の抗議が拡大する中、警察や軍隊が出動し、デモ参加者に対して実弾を使用したことで、多くの死傷者が出ました。この出来事は国際的にも注目を集め、最終的に李承晩は辞任に追い込まれました。
その翌年、
・1961年5月16日には、朴正煕将軍による軍事クーデターが発生します。このときも戒厳令が即座に発令され、政権移行の正当化に使われました。以降、朴正煕政権下では政治統制や反対意見の封じ込めに戒厳令が繰り返し使われるようになり、戒厳令は制度としてではなく、政権維持の道具として定着していきます。
このように韓国では、戒厳令が本来の「安全保障のための非常措置」という役割を超え、市民の自由や表現の権利を抑え込む道具として利用されてきた歴史があります。発令されるたびに、市民の間には恐怖や緊張が広がり、言論の自由や司法の独立すらも制限される社会になっていきました。特に軍政下では、戒厳令が日常の延長線上で発動される異常な状況が繰り返されたのです。
1970年代〜1980年の弾圧と光州事件
1970年代の韓国は、朴正煕政権のもとで政治の自由が大きく制限される時代でした。朴正煕は1961年のクーデター後、軍事政権を築き、経済発展を進めながらも徹底した統制と抑圧を行いました。とくに1972年には「維新憲法」を導入し、大統領の権限を大幅に拡大。この憲法により国会の解散や法律の制定すら大統領の裁量で可能となり、政権批判は許されない体制が完成しました。
この間、朴政権は戒厳令や「非常措置」という名目で次のような制限を強めていきます。
・言論の自由が奪われ、新聞社やテレビ局への検閲や圧力が常態化
・大学や教育機関では、学生運動を防ぐための取り締まりが強化
・集会やデモは禁止され、政治活動そのものが弾圧の対象
1979年10月、政権の中心人物だった朴正煕が側近によって暗殺され、長く続いた独裁体制が突如崩れます。これにより国民の間では民主化への期待が一気に高まりましたが、実際には新たな混乱が始まることになります。
暗殺後、政府は戒厳令を敷いて秩序の回復を名目に軍の介入を強化。そして1980年5月、韓国全土に再び強い戒厳令が敷かれます。その矛先が向けられたのが、全羅南道の中心都市・光州(クァンジュ)でした。
・1980年5月18日、光州の全南大学で、学生たちが戒厳令撤回を求めてデモを開始
・これに対し、軍は棍棒や銃を使って武力で制圧。学生だけでなく市民も次第に参加し、抗議は全市に広がります
・市民は警察や軍の暴力に対抗するため、消防車やタクシーを使って防衛線を張り、やがて郷土予備軍の武器庫を制圧して武装化
この一連の衝突で、数百人とも言われる市民が命を落とし、数千人が負傷または拘束されました。中には10代の学生や高齢者も含まれていたと報告されています。
最終的に、5月27日に政府軍が光州市を完全に制圧し、運動は終息します。しかし、この光州事件は単なる暴動ではなく、国家による弾圧に立ち向かった市民の勇気と犠牲の象徴となりました。
この出来事は国内外に大きな衝撃を与え、韓国の民主化を求める声がより一層強くなる契機となりました。光州事件はその後も長く語り継がれ、韓国における民主主義の礎となる歴史的事件として位置づけられています。現在でも、光州では追悼行事が行われ、犠牲となった市民の記憶が受け継がれています。
戒厳令が奪ったものと、その代償
韓国において戒厳令が発令された時期には、社会の根幹を支える多くの自由と権利が奪われました。とくに1970年代から1980年代にかけては、その影響が日常生活のあらゆる場面に及びました。人々は見えない監視のもとで暮らし、自由に発言したり行動したりすることさえ恐れる社会が形成されていきました。
・報道や言論の自由は完全に制限されました。新聞・テレビ・ラジオは政府の検閲を受け、政権に不利な情報は一切報道されませんでした。記事の内容は当局のガイドラインに従って編集され、番組は突然中止されることもありました。ジャーナリストは解雇されるか、拘束されるか、沈黙を強いられました。
・集会やデモは法律で禁止され、政治的な意見を表現すること自体が犯罪扱いとなりました。学生集会や市民の集まりは、どれだけ小規模でも軍や警察によって解散させられました。ビラ配りやスピーチすら取り締まりの対象となり、人々は声を上げることをためらうようになっていきました。
・司法の独立も崩れ、裁判所の機能は事実上停止状態に置かれました。戒厳令下では、軍が令状なしで市民を逮捕・拘束することが可能となり、被疑者は裁判にかけられることなく長期間拘束されたり、秘密裏に裁かれたりしました。法律による保護が効力を失い、「正義」は軍の判断によって左右される状態となりました。
・人権侵害は日常的に行われていました。とくに学生運動や民主化デモの参加者に対しては、警察や軍が暴力や拷問を加えることが公然と行われました。逮捕後に家族と連絡を取ることができないまま、行方不明になる例も少なくありませんでした。光州事件では、数百人が死亡し、何千人もの市民が傷つき、亡くなった家族の所在すら不明なままの人も多くいます。
こうした中で、人々は次第に言葉を発すること自体を恐れるようになりました。「見て見ぬふり」「黙って従う」ことが生きる術になり、社会には沈黙と不安が広がりました。このような状態は民主主義とは真逆のものであり、市民が政治や社会に関わる機会そのものが失われていたのです。
戒厳令は制度として終了しても、その影響は簡単には消えませんでした。多くの人が家族を失い、夢や学びの機会を奪われ、心に深い傷を残しました。社会全体が「恐怖」に支配され、「自由」に対する感覚を失う時代が長く続いたことこそが、最大の代償だったといえます。いまもその記憶は、遺族や当事者によって語り継がれており、韓国社会にとっての教訓となっています。
2024年12月、突然の非常戒厳令とその余波
2024年12月3日午後10時27分、尹錫悦大統領は「非常戒厳令」の発令を宣言しました。韓国において戒厳令が発動されたのは1980年以来、実に44年ぶりのことでした。この措置は、一部の野党勢力に対して「反国家活動」や「北朝鮮との共謀」といった疑いが表面化したことがきっかけで、政治的な緊張が高まる中での異例の決断となりました。
・戒厳令の発令直後、軍と警察部隊がソウルの国会議事堂前に集結し、バリケードを築いて議事堂の封鎖が開始されました。市民の間には驚きと緊張が広がり、一時的に首都周辺の交通も混乱しました。
・夜が更けるなか、与党・野党を問わず多数の国会議員が緊急に議事堂へ駆けつけ、徹夜で協議が行われました。政治的立場を越えて集まった議員たちは、「戒厳令の即時解除」を全会一致で決議し、国会の意思を明確に表明しました。
・この決議に基づき、翌12月4日午前4時30分、非常戒厳令は正式に撤回されました。発令からわずか6時間あまりの短期間で終息を迎えましたが、その間に市民社会には大きな動揺が走りました。
この一連の出来事は、多くの韓国市民に1980年の光州事件や過去の戒厳令体制の記憶を鮮明によみがえらせるものとなりました。SNSでは「またあの時代が来るのか」「二度と繰り返してはならない」という投稿が次々と広がり、ニュース番組も急きょ特別体制で放送を続けました。
全国の家庭では、多くの人々がテレビやスマートフォンを手に、夜通し状況を見守りました。一部では、若者と高齢者が「戒厳令って何?」という問いをめぐって対話を交わす姿も見られ、過去の記憶と現在がつながる時間となりました。
この出来事は単なる政局の混乱ではなく、「民主主義はいつでも揺らぐ可能性がある」という現実を突きつける象徴的な夜でした。同時に、国会の迅速な対応と市民の関心が連動したことで、戒厳令という制度の危険性に対して強いブレーキが働いたこともまた事実です。
戒厳令の発令とその即時解除の両方を経験したこの夜は、韓国にとって「記憶の連鎖」が再び浮かび上がった歴史的瞬間であり、今後も語り継がれることになるでしょう。
今回の放送で描かれるメッセージとは
この「映像の世紀バタフライエフェクト」では、過去に起きた戒厳令の歴史と、その記憶が現代社会にどのようにつながっているかが描かれると考えられます。
・一見過去の話のように見える戒厳令の制度が、今も起こりうること
・それにどう市民が反応し、社会を守ろうとしているか
・民主主義とは何かを、改めて問い直す番組になると予想されます
韓国の民主化は一夜で成し遂げられたものではなく、何度も弾圧を乗り越えた人々の積み重ねによるものでした。2024年末の出来事もまた、その民主主義の力が試された瞬間だったといえます。
この放送は、過去の映像や証言を通じて、激動のアジア現代史と今の私たちの社会のつながりを知るきっかけになるはずです。
※放送後、詳しい内容が分かり次第、最新の情報を更新します。
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