山手線のナゾを巨大地図とARで解明!
2025年4月30日、NHK総合で放送された『マップタイムトラベル 山手線のナゾ』では、高さ16mの巨大地図や新開発の“さわれるAR”を使い、首都東京をぐるっと囲む「山手線」に隠された数々の謎を探りました。番組を進行したのは林修さん。ゲストには井桁弘恵さん、イモトアヤコさんが登場し、交通博物館の学芸員・奥原哲志さんの解説のもと、山手線の起源、形、名前の意味、そしてその成り立ちと役割にまで踏み込みました。
山手線はなぜ縦長?はじまりは「品川線」だった
番組の冒頭では、山手線が「丸い線」ではなく、実は縦に長い形をしているという点が取り上げられました。これまで何気なく見ていた路線図の印象とは異なり、その形の理由には歴史的な背景がありました。日本の鉄道の始まりは、明治5年(1872年)に開通した新橋~横浜間の路線です。その後、群馬や埼玉など北関東と東京をつなぐ鉄道も整備されていきました。
しかし、当時の東京はまだ今のように整理された都市ではなく、新橋と上野の間には建物が密集していたため、線路をまっすぐ通すことができませんでした。そこで、鉄道を南北に通す新しい方法として、明治18年(1885年)に品川~赤羽間を結ぶ「品川線」が開通します。この区間は、今の山手線の“背骨”にあたる部分です。
・当時、群馬や埼玉でつくられた生糸は、日本の重要な輸出品でした
・生糸は陸路で大宮・赤羽から南下し、品川・横浜を経て海外へと運ばれていました
・そのルートをスムーズに確保するために、赤羽~品川間に鉄道が必要だった
つまり、東西ではなく南北を優先した鉄道整備が、山手線の基本形をつくったのです。そのため、山手線が縦長であることには地理的・経済的な必然性があったというわけです。
この縦長の路線は、のちに上野や新橋、池袋などのルートが加わることで環状線となりますが、最初は「品川線」という名前で、山手線とは呼ばれていなかったことも重要なポイントです。こうした成り立ちを知ることで、普段使っている路線がより身近に、そして深く理解できるようになります。
このように、山手線の形は偶然できたものではなく、物資輸送のニーズや都市構造の制約から導き出された、実に理にかなったルートであることが、今回の放送を通して明らかになりました。
「山手線」という名前の意味とは?
番組では「なぜ“山手線”という名前なのか?」という疑問に焦点が当てられました。解説に登場した交通博物館の奥原哲志氏は、その名前の由来を「山手エリアを通っているから」と説明しました。山手とは、もともと山に近い高台の地域を指す言葉で、江戸時代から用いられていた呼び方です。東京の中でも、西側に位置する高地を「山の手」と呼んでいたことが語源になっています。
たとえば、山手線の駅を比較してみると、新宿駅は標高が高い位置にあるのに対し、品川駅は海抜に近い場所にある低地です。このような高低差を持つエリアをつなぐために、山手線の路線では多くのトンネルや高架橋が使用されています。つまり、ただ地図上の位置だけでなく、地形的な起伏を含めた「山手」という言葉の意味が、路線名に深く関わっていたのです。
・「山手」とは、もともと高台にある地域のこと
・新宿駅は標高約40メートル、品川駅はほぼ海抜0メートル
・この標高差を解消するためにトンネルや橋梁が必要となった
・そのため、山手線は“山岳路線”のような構造を持っている
また、明治時代においては、鉄道の路線名を地名や地域名からつけるのが一般的でした。山手線もその例に漏れず、地名からつけられた自然な名称であり、都市の成り立ちや地形を反映していることがわかります。
この名前には、単なる便宜的な意味ではなく、地形・歴史・都市構造の要素が凝縮されていることが番組を通じて伝えられました。今まで何気なく使っていた「山手線」という言葉にも、しっかりとした背景があることを知ることで、東京という都市の奥深さも感じられる内容でした。
山手線はなぜ「米粒型」なのか?
地図で山手線を見てみると、一般的に「丸い路線」と言われがちですが、実際には少しいびつな楕円形、まるで“米粒”のような形をしています。番組ではこの不思議な形の由来に迫り、その背後にある歴史や地理的事情を丁寧に紹介していました。
この形の鍵を握っているのが、田端駅・目白駅・池袋駅の三駅です。明治時代、石炭は重要なエネルギー資源であり、福島県や茨城県などで採掘された石炭が常磐線を使って田端駅まで運ばれていました。その後、東京の西側へと輸送ルートを延ばすために、新しい路線の建設が計画されました。
しかし、当時の目白駅周辺はすでに開発が進んでおり、鉄道用地を確保できるほどの土地の余裕がなかったのです。そのため、目白駅を経由することは断念され、代替ルートとして少し北側に位置する池袋駅を経由するルートが採用されました。
・田端駅から目白駅への直線ルートは実現不可能だった
・代わりに敷設されたのが田端〜池袋という遠回りのルート
・この選択により、山手線の西側が外へふくらむ形になった
・結果的に、山手線全体の形が「米粒型」と呼ばれるようになった
池袋駅は、当初から主要な駅として想定されていたわけではありません。“滑り止め”のような位置づけで建設された駅でしたが、その後、多くの路線が乗り入れるようになり、今では新宿・渋谷と並ぶ巨大なターミナル駅へと発展しました。
このようにして、山手線の形は地形や都市開発の制約、そして土地の確保という現実的な事情から自然と形成されていったのです。直線で結べない場所には別ルートを通し、そうすることで後に都市の中心となる新たな拠点が生まれたということが、池袋駅の成長からも見て取れます。
この「米粒型」の形は偶然の産物ではなく、都市の成長と鉄道開発の歴史を写し取った結果であり、現代の東京を理解するうえでも大切な手がかりとなるものです。普段、何気なく利用している山手線の形ひとつにも、多くの背景と選択の積み重ねがあることを、改めて感じさせられる内容でした。
山手線が東京の「屋台骨」になった理由
1923年に発生した関東大震災は、東京に大きな打撃を与えました。特に東京の東側は被害が深刻で、多くの住民が住まいを失い、西側エリアへと移り住むようになりました。こうした人口の移動により、山手線の西側にある地域は急速に発展を始めます。
たとえば、世田谷区では震災からわずか5年で人口が2倍以上に増加したと記録されています。住宅地や商業施設の開発が進み、それにともなって鉄道の需要も急増しました。この動きに対応するように、中央線をはじめとした多くの鉄道路線が山手線と接続され、山手線を中心とした放射状の交通網が形成されていきました。
・震災で東側に住めなくなった人々が西側へ転居
・山手線西側沿線に住宅や商業施設が集中して整備される
・中央線・東急線・西武線などが山手線に接続し、乗り換え拠点が増加
このような背景の中で、山手線は単なる都市内移動のための路線ではなく、都市全体をつなぐ大動脈の役割を果たすようになります。特に昭和初期の段階で、すでに山手線は高度な運行体制を築いていました。
・朝4時台から深夜1時近くまで運行されていた
・通勤ラッシュ時には約2分半ごとに電車が到着し、現在とほぼ同じ水準の密度
・各駅の乗降客数も急増し、駅周辺にはデパートやビルなどの開発が進んだ
このようにして、山手線は戦後の高度経済成長期を待たずして、すでに昭和初期には東京のインフラとして完成された姿に近づいていたのです。交通と生活の結びつきが強まり、山手線が都市の「屋台骨」として機能する基盤がこの時期に築かれました。
今日では当たり前のように利用されている山手線ですが、その信頼性や利便性は、震災という大きな出来事を経て、多くの人々の暮らしと移動を支え続けた結果として成り立っているのです。山手線は、ただの電車ではなく、都市再生と未来の設計図に貢献してきた象徴的な路線であることを、改めて実感させる内容でした。
この回の『マップタイムトラベル』では、単に路線の解説にとどまらず、歴史、地形、都市の成り立ち、そして災害と復興という視点まで掘り下げながら、山手線の真実に迫る内容となっていました。
地図を「見る」から「体感する」時代へ。山手線をめぐるナゾは、地図とARの力で今、新しいかたちでよみがえっています。
次回放送にも期待が高まります。見逃した方はぜひ再放送や配信でご覧ください。
コメント