伊勢神宮への旅・第四夜|津の城と松阪商人、松阪牛に迫る歴史探訪!
伊勢神宮を目指す旅の第四夜では、三重県津市と松阪市を舞台に、江戸時代の宿場町の歴史や文化、そして経済の力がどのように育まれてきたのかに迫ります。築城の名手・藤堂高虎によって整備された津城と城下町、江戸の経済を動かした松阪商人の活躍、そして日本を代表する松阪牛の誕生秘話まで、旅の道中に隠れた物語が多角的に紹介される予定です。
藤堂高虎が整えた津城の構造とねらい
津は、伊勢街道の要衝として栄えた宿場町であり、江戸時代には藤堂高虎がその基盤を築いた城下町としての側面も持っていました。高虎は1608年、伊予今治から転封されると、当時織田信包によって築かれていた津城を大改修します。
・本丸と二の丸、西の丸を備え、内堀・外堀を巡らせた輪郭式の堅牢な城構造
・石垣は積み直され、高虎独自の防御設計を反映した高低差のある設計
・東側には堀川を引き込み、伊勢参宮街道を城の内部に誘導
これにより、参拝客が城下を通過することで経済活動を促進し、かつ治安の維持も図るという戦略的な都市づくりが行われました。城の周囲には武家屋敷と町人地が整然と配置されており、城と街が一体となった機能都市の原型ともいえる姿がそこにありました。
津城は現在、本丸の一部と西の丸、内堀跡が残されており、公園として整備されています。復元された角櫓の白壁や苔むす石垣からは、当時の荘厳さを今なお感じることができます。
伊勢街道の要「津」と「松阪」で発展した商業文化
津から南へ進むとたどり着くのが松阪市。ここは江戸時代、多くの豪商を輩出した商業の町として全国に名を轟かせていました。松阪商人たちは、江戸・日本橋を拠点に反物や呉服を扱い、商いの才覚で莫大な富を築きました。
・代表的な商家には「三井高利」などがあり、後の三井財閥の礎となる
・「現金掛け値なし」の商法をいち早く取り入れ、顧客からの信頼を獲得
・商売に携わる前には、寺子屋や学問所で実務教育を受ける風土が整備されていた
松阪商人の家は広い帳場や蔵を備え、町全体が商いのために構成されていました。彼らは利益だけでなく、町への還元も忘れず、教育施設や文化事業にも資産を投じました。こうした地域貢献の姿勢が、町全体の発展を後押ししました。
松阪には、今も商人の旧宅や商家資料館が残されており、江戸時代の商人の暮らしぶりを間近に感じることができます。
日本屈指のブランド牛「松阪牛」がなぜここで生まれたのか
松阪といえば、もう一つ忘れてはならないのが松阪牛。その名は国内外で知られ、最高級の和牛として確固たる地位を築いています。
松阪牛のルーツは兵庫県但馬地方の但馬牛にあり、江戸時代には農耕用として導入されていました。明治以降、食肉文化の広がりとともに、松阪地域における牛肉の評価が高まり、独自の飼育方法が確立されていきます。
・黒毛和種の未経産雌牛のみを使用
・導入後は松阪市を中心とした地域で肥育されることが義務づけられている
・1頭ごとに手間暇をかけて育てられ、900日以上かけて育てた牛は「特産松阪牛」として最高格付け
飼育には清潔で静かな環境が重視され、1頭1頭に音楽を聴かせたり、ビールを与えたりといったきめ細やかな管理がなされる農家も存在します。このような背景から生まれる松阪牛は、きめ細かい霜降りと脂の甘み、柔らかな食感で高く評価されています。
タモリさんも番組内で松阪牛に舌鼓を打つシーンが描かれる予定です。単なるご当地グルメとしてではなく、地域文化と歴史に支えられてきた「伝統の味」としての魅力が紹介されるでしょう。
まとめ
『ブラタモリ』第四夜では、津から松阪への伊勢路をたどりながら、江戸時代に築かれた街の構造、経済、文化がどのように連携し、現代にも影響を与えているのかを探ります。
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藤堂高虎による都市計画としての津城と伊勢路誘導
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江戸の経済を牽引した松阪商人の先進的な経営哲学
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世界に誇る松阪牛が生まれた歴史と技術の背景
こうした複合的な視点を通じて、旅の“目的地”である伊勢神宮だけでなく、“道中”そのものの魅力を深く味わえる内容となりそうです。
放送後には、番組内容に基づいたさらなる詳細情報を追記する予定です。
※放送内容と異なる可能性があります。予めご了承ください。
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