佐藤浩市〜父・三國連太郎が背負い 生きた道を〜
2025年4月30日(水)放送のNHK総合『ファミリーヒストリー』は、俳優・佐藤浩市さんを迎え、父である名優・三國連太郎さん、そして母・佐藤敏子さんを含む親子三代にわたる壮大な人生をたどりました。19:30〜20:42の72分にわたる放送では、戦争、差別、孤独、愛、そして表現の力をテーマに、佐藤家の深い歴史が静かに、しかし力強く描かれました。家族の背負ってきた過去が、いかに現代に影響しているかを実感できる内容でした。
父・三國連太郎の出生と過酷な少年期
佐藤浩市さんの父・三國連太郎さん、本名・佐藤政雄さんは、1923年、静岡県の伊豆半島南部に位置する小さな漁村に生まれました。彼の母・小泉はんさんは、もともと漁村で育った女性でしたが、一家が嵐で船を失い、生活が立ち行かなくなったことから、広島県呉市の軍人の家へ年季奉公に出されました。まだ若かったはんさんは、17歳のときに妊娠し、奉公先から追い出されてしまいます。身重の体で故郷を目指して帰路につく中、静岡県沼津港で倒れてしまいますが、そのときに介抱してくれたのが佐藤正さんでした。
正さんは、松崎町で桶屋を営む家の三男として生まれました。桶作りの仕事には棺桶も含まれており、死に関わる仕事ということで地域社会からの偏見にさらされていたといいます。そうした差別的な環境への強い反発心を持ち続けていた正さんは、家業を離れて軍属となることで新たな人生を切り開こうと決意します。しかし、軍隊での生活でも上下関係の理不尽さにさらされ、上官による高圧的な態度に日々苦しめられることになります。
・正さんはその後、シベリアから帰還
・軍隊生活を経て、電気工事の職人に転向
・危険な作業をいとわず、息子・政雄の教育を第一に考えた
こうして生まれ育った政雄少年は、たくましく育てられ、昭和10年には静岡県下田市の進学校「豆陽中学校」に入学します。しかし、そこでは徹底した規律に基づく寮生活や軍事教練が日常的に行われており、政雄にとっては苦痛の日々が続きます。次第に学校をサボるようになった政雄に、父・正は烈火の如く怒りをぶつけました。けれども、政雄の心はすでに学校から離れており、ある日、ついに下田港に停泊していた貨物船にこっそり乗り込み、密航という形で中国へ渡るという大胆な行動に出ます。
・渡航先の中国では孤独な暮らし
・その後、朝鮮半島に移動しダンスホールのボーイや弁当売りなどで生計を立てる
・誰にも頼らず各地を放浪する日々を送る
やがて帰国した政雄は、静岡・沼津港へ戻ってきますが、その後の戸籍記録には、昭和16年に5歳年上の女性と結婚し、娘・伊都子が生まれたことが記されています。しかし、その娘・伊都子はわずか2歳で亡くなっており、調査の結果、静岡県沼津市内の寺に伊都子の墓石が残されていたことが番組で明らかになりました。政雄にとって初めて築いた家庭は、わずかな時間で終わりを迎えることになります。
この出来事をきっかけに、政雄は再び家庭を離れ、大阪など各地の工場や造船所で働きながら不安定な日々を送るようになります。そんな中、19歳で召集令状が届き、徴兵されることになりますが、政雄はそれを拒み、汽車に飛び乗って九州・佐賀県の唐津市へ逃亡。しかし、警察に見つかってしまい、静岡の部隊へ送還されて軍に入れられます。警察に居場所を知らせたのは、実は母・はんさんだったことも明らかになりました。
・母の行動に複雑な感情を抱きながらも、政雄は出征を決意
・父・正からは「無駄死にするな、必ず生きて帰ってこい」とだけ伝えられた
戦地では、上官による暴力が日常的だったにもかかわらず、政雄は一度も銃を撃たなかったとされています。こうした反骨精神や信念の強さは、幼少期に父・正から受け継いだものだったのかもしれません。過酷な体験と、家族との複雑な関係が、政雄=三國連太郎の人格と演技の原点に深く結びついていたことが、番組を通じて浮き彫りになりました。
偽装結婚、そしてスター俳優へ
戦地からの帰国が困難だった政雄さんは、収容所で聞いた「妻帯者は優先的に帰国できる」という情報をもとに、一つの決断をします。娘のいる家族に頼み込み、偽装結婚という手段をとって昭和21年6月に帰国を果たしました。帰国後は、偽装結婚の相手・豊美さんの実家がある宮崎県に身を寄せ、そこでの生活が始まります。
・宮崎では豊美さんの家族と同居
・配線工事やバスの運転手として働き、生活を支える
・昭和22年、豊美さんとの間に娘・深幸さんが誕生
その後、2人は正式に結婚しますが、政雄さんは1年ほどで家を出てしまいます。彼は再び定職を持たず各地を転々とし、鳥取県倉吉市に流れ着きます。その地ではふとん店の2階に下宿し、仕事もせず、ただ日々を過ごしていたといいます。生活に目的を見失いかけていたそのとき、人生を変える出会いが訪れます。
・倉吉の町で写真館を営む見田さんと出会う
・政雄さんに興味を持った見田さんが、写真を撮影
・本人の了承なく、その写真を松竹に送付
この行動が大きな転機となり、まもなく松竹から政雄さん宛に支度金付きで上京の連絡が届きます。驚きながらも、その誘いに応じて昭和25年、政雄さんは上京を決意します。演技の経験もないままに、映画『善魔』の主役としてスクリーンデビューすることになりました。しかも、演じた役名がそのまま「三國連太郎」という芸名として採用されることになります。
・映画『善魔』で1951年に俳優デビュー
・松竹は「大卒の知性派スター」として彼を売り出す
・華やかな俳優人生の第一歩を踏み出す
三國さんは、当時としては珍しい知性と存在感を兼ね備えた新人俳優として大きな注目を集め、芸能界に新たな風を吹き込みました。その後まもなく、東京・神楽坂で芸者として名を馳せていた佐藤敏子さんと出会います。敏子さんは、踊りや三味線に優れた技術を持ち、芸の世界で強く生きる女性でした。二人は強く惹かれ合い、昭和32年に結婚。互いの芸に対する理解と尊敬が、夫婦としての絆を深めていきます。
・敏子さんは芸者置屋の養女として育ち、芸の世界に入った
・二人は神楽坂の料亭で出会い、昭和32年に結婚
・数年後、長男・浩市さんが誕生
浩市さんの誕生は、三國さんにとっても新たな人生の章の始まりでしたが、同時に俳優としての飛躍期と重なり、多忙を極めることになります。家族との時間は限られていきましたが、この時期の三國さんは、芸に対する集中力と覚悟を強く持ち、作品に全力を注いでいました。
このように、偽装結婚という非常手段から帰国した政雄さんは、数年後には日本映画界を代表する俳優「三國連太郎」として名を刻むことになります。その背景には、偶然の出会い、直感的な行動、そして表現者としての資質が見事に結びついた軌跡がありました。
芸に生きた母・敏子と祖父・政治郎の教え
佐藤浩市さんの母・敏子さんは、神楽坂きっての芸者として名を馳せた人物でした。踊りや三味線に長け、芸に生きることを信念としていた女性です。その厳しくも美しい芸の精神は、幼い浩市さんにも大きな影響を与えていました。敏子さんの器用さは踊りや音楽だけにとどまらず、裁縫の腕前も一流で、衣装や和服の手直しなどもすべて自分の手でこなしていたといいます。
・敏子さんの裁縫の技術は、母方の「阿部家」から受け継いだもの
・阿部家は宮城県塩釜市にルーツを持つ商家
・東北の寒冷地で、関西から古着を仕入れて売る流通業を展開していた
江戸時代、阿部家は仙台藩や幕府ともつながりを持ち、城下町の商人として栄えた名家でした。しかし、幕藩体制の終焉とともにその商いは衰退。時代の変化に翻弄されながらも、家系の中では次々に新しい生活を切り開こうとする者が現れました。その一人が、浩市さんの曽祖父であり、敏子さんの祖父にあたる阿部政治郎さんです。
・政治郎さんは30歳のときに妻子を連れて上京
・東京・銀座の洋服店で住み込みで働き、テーラーを目指す
・明治中期には自らの洋裁店を開業
政治郎さんは、時代の最先端だった「洋服仕立て」という職人技を習得し、銀座の地で新しい生活をスタートさせました。彼の挑戦は一時的には実を結び、商売は軌道に乗り始めます。しかし、関東大震災がそのすべてを一瞬で奪ってしまいます。家も店も焼け落ち、ゼロからの再出発を余儀なくされました。
・関東大震災の7年後、敏子さんが誕生
・父・貞一さんは敏子さんが5歳のときに病死
・母は翌年再婚し、敏子さんの弟たちが誕生
幼くして父を亡くした敏子さんは、まもなく父方の叔母である「はる」さんの養女となります。はるさんは神楽坂で芸者の置屋を営む女性で、厳しくも情に厚い人物でした。敏子さんはここで芸の世界に魅了され、やがて神楽坂の芸者として頭角を現すようになります。置屋での暮らしは決して楽ではなく、礼儀作法・着物の着付け・踊り・三味線・お座敷での立ち居振る舞いなど、すべてが日々の修練の中で培われました。
・神楽坂では厳しい上下関係の中で芸を磨く
・敏子さんは芸の美しさと品格を何よりも重んじた
・芸だけでなく、生活のすべてに美意識を宿らせる姿勢を貫いた
敏子さんの生き方は、後に息子となる浩市さんにも確かに伝わっていました。浩市さんが役者として作品に向き合うとき、そこにあるのは母から教わった「形だけでなく、心に届く所作や表現」を大切にする感覚だったのかもしれません。何気ない日常の中に、芸に生きた母の美意識が息づいていたのです。
このようにして、佐藤浩市さんは、父・三國連太郎からは演技の魂と生き様、母・敏子さんからは芸に向き合う姿勢と美意識をそれぞれ受け継ぎました。両親の人生はまったく異なる背景を持っていましたが、どちらも「表現すること」に真剣であるという点では共通していました。その二つの力が、浩市さんの俳優としての在り方を支える土台になっているのです。
父と過ごせなかった時間、役者としての葛藤
佐藤浩市さんの幼少期、父・三國連太郎さんとの時間はほとんど存在しませんでした。三國さんは多忙な俳優生活を送っており、ひとたび映画制作に入れば数か月単位で家を空けることも珍しくなく、家族との時間を持つことができなかったのです。そんな生活の中、昭和47年に三國さんと母・敏子さんは離婚。浩市さんは母に引き取られ、父とは距離のある生活が続いていきました。
・三國さんは芸にすべてを捧げるタイプの俳優だった
・家庭よりも役に没頭する日々が続き、親子の時間は限られていた
・昭和47年に両親は正式に離婚、浩市さんは母とともに暮らす
離婚後、三國さんはかねてから構想を温めていた映画『親鸞』の制作に打ち込みます。この作品は、親鸞聖人の人生を描くもので、構想から10年、監督も自ら務めた渾身の一作でした。そこには、幼少期から差別と闘い、自分の信念を曲げなかった父・正の存在と重なる想いがあったとも言われています。
・三國さんは映画『親鸞 白い道』で監督・主演を兼任
・人間の苦悩や信念を掘り下げる深いテーマに挑んだ
・この作品に三國さんの生き様と思想が集約された
一方、浩市さんは19歳で俳優デビューを果たします。デビュー当初、父に相談することはなく、出演後にようやく「役者になった」と事後報告する形となりました。三國さんはそれを聞いても感情を露わにすることはなく、ただ「ああそう、わかった」と静かに答えたのみだったといいます。しかしその後、三國さんは浩市さんが出演するすべての作品を欠かさずに観ていたことが明らかになります。表には出さずとも、息子の俳優としての歩みをしっかりと見守っていたのです。
・浩市さんの俳優デビューは父への報告なしにスタート
・報告を受けた三國さんは淡々と反応
・しかし全作品を観続けていたという事実があった
三國連太郎さんは、1951年の映画『善魔』で主演デビューして以来、生涯で183本の映画に出演し、日本映画史に名を残す大俳優となりました。平成25年、90歳でこの世を去るまで、その演技力と存在感で多くの人々を魅了し続けました。番組では、そんな父の歩みをあらためて知った佐藤浩市さんが、「危うく涙腺も崩壊するところだった」と心の内を明かしており、父の壮絶な人生と演者としての魂が、今なお息子の胸に強く残っていることが伝わってきます。
・三國さんは183本の映画に出演し、平成25年に逝去
・浩市さんは父の人生を再確認する中で深く心を動かされた
・表には出さなかったが、三國さんはずっと息子を見守っていた
この父子の関係には、直接的な交流は少なくとも、芸を通してつながる深い絆が確かに存在していました。親子としての時間は少なかったかもしれませんが、互いの作品の中に、そしてその背中に、尊敬と理解の想いが静かに流れていたのです。
今、浩市さんが守り伝えるもの
現在の佐藤浩市さんは、妻・亜矢子さんとともに、児童養護施設の子どもたちと向き合う活動を続けています。映画『花束』では、虐待やネグレクトを受けた若者たちの姿を描き、自らも出演。施設出身の若者たちとの時間を通じて、浩市さん自身の孤独や葛藤、そして父や母の記憶と真っ直ぐに向き合おうとしています。「自分の記憶にはないかもしれないけど、すごく愛されてた証しだと思ってます」という亜矢子さんの言葉が、すべてを物語っているようでした。
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