孤立集落へ 命の道をつなげ|2025年3月8日放送
2011年3月11日、日本を襲った東日本大震災。マグニチュード9.0の巨大地震が発生し、それに伴う大津波が沿岸部を襲った。岩手県鵜住居(うのすまい)地区にある日向(ひなた)地区も例外ではなく、津波の影響で道という道がすべて瓦礫で塞がれ、完全に孤立してしまった。
電気や水道といったライフラインは寸断され、食料もなく、住民たちは外部との連絡手段すら失った。救助が来るのを待つしかない――そう思う人が多い中で、「このままでは助からない」と立ち上がった人々がいた。地元の建設業者たちが、自らの手で道を切り開くことを決意したのだ。
これは、誰にも頼まれることなく、命を救うために自ら行動を起こした人々の6日間の記録。彼らがどのようにして絶望的な状況を乗り越え、道を切り開いたのか、その壮絶な闘いを振り返る。
震災直後、絶望の中で始まった闘い
地震発生からわずか35分後、東日本大震災の大津波が沿岸部を襲った。岩手県鵜住居地区では、住民の約1割が犠牲になり、住宅の7割が被災。6600人が暮らしていた町は、壊滅的な被害を受けた。町の主要道路も津波で寸断され、被災地へ向かう救助隊の到着は困難を極めていた。
特に深刻な状況に陥ったのが、日向地区だった。この地区は三方を山に囲まれ、唯一の出入り口が津波で押し寄せた瓦礫に完全にふさがれてしまった。
- 瓦礫には倒壊した家屋、流されてきた車、大量の木材や鉄くずが混じり合い、重なっていた。
- 津波が引いた後も道はぬかるみ、簡単に撤去できる状態ではなかった。
- 緊急車両も支援物資も入れず、外部との通信手段も失われ、孤立状態となった。
- 住民たちは各家庭にあったわずかな食料や飲料水で何とか生き延びようとしていたが、それも長くはもたなかった。
この状況を知ったのが、地元の建設業者である小笠原保(たもつ)さんだった。
震災当時、保さんは海から50km離れた内陸部で仕事をしていた。しかし、地震発生直後、津波警報を聞いて家族の安否を確認するため、すぐに町へ戻ろうとした。
- 保さんはすぐに車を走らせたが、道路がひび割れ、水没している場所も多く、スムーズに進めなかった。
- 途中、崩れかけた橋や横倒しになった電柱が行く手を阻み、進むルートを何度も変更せざるを得なかった。
- 何とか海岸に近づこうとしたが、沿岸部へ行くにつれ、瓦礫の量が増え、ついには車での移動が不可能な状況になった。
- 家族の無事を確かめるため、車を捨て、山を越えながら徒歩で移動することを決断した。
山道を進みながら、保さんは不安を募らせていた。町のほとんどが津波にのまれた可能性があり、家族の安否が全くわからない状況だった。しかし、町にたどり着いたとき、奇跡的に妻と娘の無事を確認することができた。
しかし、安堵する間もなく、町を見下ろすと、そこには信じられないほどの瓦礫の山が広がっていた。
- 道路や家屋が完全に押しつぶされ、町の形すら変わってしまっていた。
- 電柱はなぎ倒され、車が数十メートルも流されてビルに突き刺さっていた。
- 残った建物も、ほとんどが骨組みだけになり、泥と瓦礫に埋もれていた。
- 人影は少なく、生存者がどこにいるのかすら分からない状態だった。
この光景を目の当たりにし、保さんは直感的に思った。「このままでは誰も助からない」。
道路が寸断されている以上、救助隊が来るのを待つことすらできない状況だった。
「道を作るしかない。緊急車両が通れるルートを確保しなければ、支援物資も届かない。」
この強い思いを胸に、保さんは自ら道を切り開く決意をした。
そのためには重機と人手が必要だった。そこで、同じく建設業を営む藤原善生さん、藤原利一さんに協力を求め、共に行動を開始した。
彼らは、誰に頼まれたわけでもなく、ただ「やるしかない」という強い意志で、命をつなぐための道を開くことを決めたのだった。
瓦礫を取り除き、道をつなげる
3月12日午前5時、保さんたちはついに瓦礫を取り除く作業を開始した。目標は、県道35号線から国道45号線へとつながるルートの確保。しかし、現場に立った瞬間、彼らの前に広がっていたのは想像を絶する瓦礫の山だった。
- 屋根や車、柱、家の壁、家財道具までもが押し流され、重なり合い、道を完全に塞いでいた。
- 津波の力でねじれた鉄筋や電柱が絡み合い、瓦礫の山はまるで要塞のようにそびえ立っていた。
- ヘドロと泥水が溜まり、ぬかるんだ地面では重機の動きが鈍くなるため、慎重に進める必要があった。
この中に、まだ助かる命があるかもしれない。だからこそ、瓦礫を取り除く作業は慎重に行う必要があった。
- 一掻きするたびにエンジンを切り、大声で「誰かいませんか!」と叫びながら作業を進めた。
- 手作業で木材をどかしながら、慎重に奥を確認し、万が一、生存者がいた場合に備えた。
- 建物の残骸を移動させるときは、倒壊の危険があるため、崩れ方を確認しながら少しずつ進めた。
しかし、進める距離は1時間にわずか100m。それでも、彼らは諦めることなく、一歩ずつ前へと進んでいった。
一方、その頃、孤立した日向地区では住民たちが次第に危機的な状況に追い込まれていた。
- 食料や水は各家庭の備蓄のみで、外部からの供給は一切なし。
- 電気も水道も使えず、夜になれば真っ暗で、寒さに耐えるしかなかった。
- 携帯電話もつながらず、救助を呼ぶ手段すらなかった。
そんな中、地域の女性たちが立ち上がった。
- 自宅の備蓄を持ち寄り、集会所で炊き出しを開始。
- 瓦礫の中から使えそうな食材を探し、薪を集めて火を起こした。
- 温かいおにぎりを握り、食料が底をつきかけていた住民たちに配った。
この状況を知った保さんたちは、作業のペースを上げようとする。しかし、新たな障害が現れる。
- 道路の真ん中に家が流され、巨大な障害物となっていた。
- さらにその先の道は完全に水没し、どこまで進めるのかすら分からない状況。
このままでは進めない。そこで、保さんは考えた。
「ならば、新しい道を作るしかない。三陸道につなげるルートを開こう。」
決断は一瞬だった。道なき道を進むことを決めた保さんたちは、次なる大きな挑戦へと踏み出した。
即席のインターチェンジが完成し、救援物資が届く
3月13日、保さんたちは突貫工事で即席のインターチェンジを建設した。これにより、日向地区へ続く新たなルートが確保され、ようやく支援物資を運び込む道が開かれた。
- これまで完全に孤立していた日向地区に、初めて救援の手が届く可能性が生まれた。
- 緊急車両が通れる道を確保するため、重機を総動員し、短時間での施工を進めた。
- 泥や瓦礫が残る中、安全を確保しながら慎重に作業を進め、ついに道が完成した。
しかし、作業を続ける中で、保さんは瓦礫の中で亡くなっている人々を次々と目にすることになる。
- 津波にのまれた家屋の下や、流された車の影に、多くの犠牲者がいた。
- 重機を動かすたびに、新たな遺体が見つかり、心が締めつけられるような思いだった。
- 作業に集中しようとしても、無念のまま息を引き取った人々の姿が目に焼き付いて離れなかった。
心も体も限界に達しそうになっていたその時、保さんに声をかけたのが、消防団員の二本松誠さんだった。
- 二本松さんもまた、震災発生後から遺体の収容作業に奔走していた。
- 「やらなければならない」――その思いで、自らを奮い立たせ、休む間もなく作業を続けていた。
- 保さんもまた、その姿を見て「止まるわけにはいかない」と、再びスコップを握りしめた。
その後も作業を続け、迎えた3月16日、最後の難関が立ちはだかった。
- 道の上に、津波で流された家がいくつも重なり、行く手を阻んでいた。
- これまでの作業の中でも、最も大きな障害だった。
- 通常の撤去作業では到底間に合わないため、新たなルートを探す必要があった。
その時、地域の少年野球の監督・古川政喜さんがある場所を指し示した。
- そこは、かつて住民たちが協力して作ったグラウンドだった。
- 夏祭りや運動会など、地域の思い出が詰まった大切な場所だった。
- しかし、瓦礫の流れがネットでせき止められ、道の上よりも通りやすい状態になっていた。
保さんは決意し、グラウンドのネットを壊し、新たな道を切り開いた。
- 作業員総出で瓦礫を取り除き、徐々に道を広げていった。
- ネットを撤去することで、車が通れるほどのスペースが確保された。
- ついに、集会所までの道がつながった。
こうして、孤立していた住民たちのもとへ、ようやく救援物資が届けられた。
- おにぎりや水、毛布など、必要不可欠な物資が運び込まれた。
- 地域の人々が涙を流しながら、温かい食事を手にした。
- 絶望の中に希望の光が差し込んだ瞬間だった。
この道は、「命をつなぐ道」として、地域の人々にとって忘れられないものとなった。
震災から13年、受け継がれる思い
震災から13年が経過した今も、鵜住居の町は復興の途中にある。震災前6600人いた人口は半数以下になった。しかし、人々のつながりは失われていない。
2024年8月、保さんはリーダーとなり、地域の伝統である盆踊りのための矢倉を組む作業を行った。あの日、瓦礫に埋もれたグラウンドで、毎年恒例の盆踊りが行われている。
地域を離れた人々も、年に一度この場所に戻ってくる。それは、あの時命をかけて道をつなげた人々の想いが、今も受け継がれている証なのかもしれない。
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