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NHK【時をかけるテレビ】たったひとりの医師として〜えりも・辺地医療の11年|42歳で夢を叶えた鈴木陽子の生き方|2025年11月21日

時をかけるテレビ
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生き方を変えた女性医師の決断──えりも岬で灯し続けた命の光

吹雪のような風が町を叩く北海道えりも。
その最果ての地で、たったひとりの医師が11年ものあいだ、人々の命を背負い続けました。

2001年に大きな話題となった『NHKスペシャル たったひとりの医師として』。
その映像が24年の時を超え、『時をかけるテレビ』で再び呼び起こされました。

診療所に来られない高齢者の家へ雪をかき分けて向かう姿。
視力を失い生きる気力をなくした患者を、もう一度笑顔に戻そうとする必死の往診。
設備不足の中で、命の境界線に立ち続ける緊張感。

ひとりの医師の奮闘は、決して特別なヒロインの物語ではなく、日本の“見えないところで続く医療の現実”です。

この記事では、北海道えりも町で医師として生き抜いた鈴木陽子さんの11年を追っていきます。

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北海道えりも町に飛び込んだ医師の決意と最初の困難

鈴木さんがえりも町へ赴任したのは42歳の時。
それまで専業主婦として家庭を支えていましたが、33歳のときにテレビで辺地医療を知り心を動かされます。その後、猛勉強の末36歳で大阪市立大学医学部に合格し、42歳で医師免許を取得しました。

えりも町は人口約6400人。多くが昆布漁で生計を立てる漁業の町です。
町にある医師常駐の施設は、えりも町立診療所ただひとつ。当時は医師の離職が続き、住民の不信感も強く、鈴木さんが着任した当初の環境は決して明るいものではありませんでした。

診療所には1日に150人もの患者が集まり、診察だけでなく往診も必要でした。
忙しさは都会とは比べものにならず、当時の日記には「前任の医師のように逃げ出してしまうのでは」「辛く思うのは私の認識の甘さか」と書き残しています。

それでも、町に寄り添いながら地域医療を続け、10年以上診療所を守ったのは鈴木さんだけでした。

続けることの重さ 設備不足が命を飲み込んだ痛み

番組内で語られた2001年3月の出来事は、辺地医療の厳しさを象徴しています。

79歳の男性が診療所に運び込まれましたが、設備が不十分で専門的な処置ができず、40km離れた病院へ転送。
転送先にも専門医が不在で、さらに45km離れた病院へと向かわざるを得ませんでした。

結果、男性は帰らぬ人となります。

医療の「距離」が命の行方を左右する現実。
特に北海道には医師が1人しかいない町が30近くあると言われ、全国平均「医師1人=600人」に対し、えりも町では「1人=6400人〜2人」の状況です。

鈴木さんは、その現実と11年以上向き続けてきました。

淡路さんへの往診に宿る「医療者としての姿」

えりも町での診療は、ただ病気を見るためだけではありません。
地域の暮らしそのものと向き合う営みでもありました。

90歳の淡路さんのエピソードは特に心に残ります。
淡路さんは視力を失ってから気力をなくし、かつて好きだった歌を歌うこともなくなり、「死にたい」と言うこともあったといいます。

外出もできない淡路さんのために、鈴木さんは何度も往診を重ね、心と体の回復を目指して治療を続けました。

町を離れる2週間前、最後の往診の日。
鈴木さんが手渡したのは1本のカセットテープ。
その音を聞いた淡路さんは、かつてのように踊り始め、涙を流しました。

医療行為を超えた、人としてのつながりがそこにありました。

もうひとりの医師との出会いが町を変えた

鈴木さんがえりも町に残り続けた理由のひとつが、もうひとりの医師、藤戸さんの存在です。

藤戸さんは東京の大病院で働いていましたが、細分化された医療システムに疑問を持ち、地域医療を志してえりも町へとやってきました。

2人の医師がそろったことで診療体制が安定し、鈴木さん自身の心にも大きな変化が生まれました。
忙しさを分かち合える仲間がいることは、辺地医療を続けるための大きな支えとなっていきます。

その後、退任を決めた鈴木さんが最後に訪れたのは、長年診てきた村中さん。
脳梗塞後の精神的な落ち込みから慢性疾患を抱えていましたが、自宅に戻ることを提案し、往診でサポートしてきた患者です。

最終訪問の日、村中さんは自分で食事が取れるほどに回復していました。
別れを告げる鈴木さんに手を振って応える村中さんの姿には、長年の信頼関係がにじんでいました。

家族の病気を経て、それでも町に残った選択

契約満了前、離れて暮らす夫と子どもに病気が見つかったこともありました。
幸い重大な病ではありませんでしたが、家に戻るか悩んだ末に「えりも町に残る」決断を下しています。

医師としての責任や町との関係性を、家族と同じように大切にしていたことがわかります。

スタジオで語られた“今”の地方医療

番組スタジオには、医師であり作家でもある南杏子さんが登場。
自身も38歳で医師になった経験を持ち、鈴木さんの人生に深い敬意を示しました。

南さんが勤務する青梅慶友病院では患者の平均年齢が90歳。
患者の生きがいづくりを支えるために、日々さまざまな取り組みを行っていると話します。

現代でも東北・北海道の医師不足は続いており、オンライン診療の導入や多様な働き方など、全国の医療現場で変化が進んでいることも紹介されました。

その後の鈴木陽子さん――淡路島での新たな挑戦

2001年の番組から7年後、2008年。
鈴木さんは夫とともに淡路島でクリニックを開業し、79歳まで地域医療に尽くしました。

現在、辺地医療を志す若者も増えており、医師不足地域を支えるために設立された自治医科大学では、多くの学生が将来の地域医療を担うために学んでいます。

11年の軌跡は、いまも確かに受け継がれています。

まとめ

えりも町での鈴木陽子さんの11年は、ひとりの医師が背負うにはあまりに重い現実の連続でした。
それでも続けたのは、「町の人を支えたい」という強い意志と、人間としての温かさでした。

設備が足りなくても、医師が不足していても、目の前の人のためにできることを続けた鈴木さんの姿は、地域医療の価値を深く考えさせてくれます。

そして藤戸さんや南杏子さん、自治医科大学の学生たちなど、“志を持つ医療者”の存在が、地方医療の未来を支えていることも番組から伝わってきました。

鈴木さんが残した足跡は、2025年の今も、地方医療の大切さを静かに語り続けています。


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