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NHK【時をかけるテレビ】たったひとりの医師として〜えりも・辺地医療の11年|42歳で夢を叶えた鈴木陽子の生き方|2025年11月7日★

時をかけるテレビ

生き方を変えた女性医師の決断──えりも岬で灯し続けた命の光

「いくつになっても、人生をやり直すことはできる」。そんな言葉を、現実の行動で示した女性がいました。鈴木陽子さん、北海道・えりも町の診療所をたったひとりで支え続けた医師です。
彼女が医師になったのは42歳。しかも、2人の子どもを育てながらでした。多くの人が家庭や年齢を理由に夢を諦める中、鈴木さんは“もう一度学びたい、誰かの役に立ちたい”という気持ちを胸に歩き出しました。この記事では、その挑戦と地域に寄り添った11年間の軌跡を詳しくたどります。

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徳島の少女が選んだ「薬」と「人の命」の道

1940年(昭和15年)徳島県生まれ。幼いころから人の世話を焼くのが好きで、近所の人に頼られる存在でした。高校卒業後、徳島大学薬学部に進学し、卒業後は厚生省(現・厚生労働省)に入省。麻薬取締官として勤務し、薬物の管理や調査に携わるという責任ある仕事を任されていました。
しかし、社会の現場でさまざまな人に接するうちに、「もっと直接、人の健康に関わりたい」という思いが強くなります。地方で医師が不足している現実を知り、「薬を渡すだけではなく、命を預かる立場になりたい」との願いが芽生えました。これが、人生の大きな転機になります。

34歳、受験勉強の再スタート

その決意を胸に、34歳で医学部受験の勉強を始めます。当時は2人の子どもを育てながら、家事と仕事の合間に夜遅くまで勉強を続ける日々。周囲からは「今さら無理」「そんな年で医者になれるのか」と冷たい視線もあったといいます。それでも鈴木さんは、「何歳でも遅すぎることはない」と自分を信じて努力を続けました。

36歳で大阪市立大学医学部に合格

努力の末、36歳で大阪市立大学医学部に合格。クラスメートの多くは二十歳前後の若者たちでしたが、年齢の差を気にせず、学ぶことへの情熱を燃やし続けました。子育てや生活のやりくりをしながら授業に出席し、夜は受験生時代のように教科書と向き合う。体力的にも精神的にも限界ぎりぎりの挑戦でしたが、家族の理解と支えが大きな支えになったといわれます。

42歳、念願の医師免許を取得

そして42歳のとき、ついに医師国家試験に合格。このときの喜びを鈴木さんは、後に「子どもを産んだときと同じくらいうれしかった」と語っています。医師として最初に勤務したのは大阪市内の総合病院。内科や高齢者医療を中心に経験を重ね、医療現場の厳しさを肌で感じながらも、人との関わりの中にやりがいを見いだしました。

49歳、北海道えりも町への赴任

鈴木さんの真の挑戦はここからでした。1990年5月、49歳のとき、北海道えりも町国民健康保険診療所に単身赴任。えりも岬は強風地帯として知られ、冬は吹雪と凍結で車の運転も危険な地域。最寄りの大病院まで車で2時間以上という、医師が敬遠しがちな“辺地”でした。
しかし鈴木さんは、「人がいない場所こそ、自分が行く意味がある」と考えました。町の人口は当時約6000人。高齢者が多く、独居の人も多かったため、診療だけでなく“地域の見守り”も彼女の大切な仕事になりました。

一人で担う診療所の日々

診療所には看護師が数人いるだけ。往診も夜間対応もすべて鈴木さんがこなしました。雪の中を歩いて患者の家に向かったり、夜中に呼び出されて救急処置をしたり。時には悪天候でヘリが飛べず、患者を町外へ搬送できないこともありました。そんなとき、鈴木さんは自分の判断で治療を続け、命を守る決断を下してきました。
地域の人々からは「えりもの母さん先生」と呼ばれ、頼られる存在に。患者の中には、診察よりも「先生と話すのが楽しみ」と言って来る高齢者もいたそうです。医療だけでなく、人の心を癒やす時間を何より大切にしていたのです。

受賞と評価、そして「えりも岬の母さん医師」

1990年、鈴木さんは「過疎地の医療に貢献したい」という志と実践が認められ、シチズン・オブ・ザ・イヤーを受賞しました。
その後も活動を続け、地域医療の象徴として全国から注目されます。著書『えりも岬の母さん医師』(集英社)では、えりもでの厳しくも温かい日々を記し、医療関係者だけでなく多くの読者の心を動かしました。NHKでも複数回特集され、彼女の生き方は「自分らしく働く女性像」として時代を超えて語り継がれています。

NHKが11年にわたり追い続けた“最果ての医師”

NHKは鈴木さんの活動を11年にわたり密着取材し、2001年に『たったひとりの医師として〜えりも・辺地医療の11年〜』を放送しました。
番組では、彼女が診療所を去る“最後の数か月”を中心に描かれています。体力の限界を感じながらも、「まだ自分を待っている人がいる」と笑顔で診療に立ち続ける姿。別れの場面では、患者が涙ながらに「先生、今までありがとう」と声をかけるシーンも印象的でした。
その姿からは、医師としてだけでなく“人としてどう生きるか”という問いが浮かび上がります。

現代へのメッセージ

鈴木陽子さんの生き方は、今の日本が直面する「地方の医師不足」「高齢化」「医療の人手不足」といった問題にも通じます。AIやテクノロジーが進んでも、最後に人を支えるのは“心を寄せる力”。鈴木さんが残したのは、技術ではなく「人を信じ、向き合う勇気」そのものです。
今後放送される『時をかけるテレビ』では、彼女の言葉や表情が、改めて現代に生きる私たちへのヒントを与えてくれるでしょう。

この記事のポイント

・40代で医師を志し、42歳で国家試験に合格
・49歳で北海道えりも町に赴任し、11年間たったひとりで地域医療を支える
・著書『えりも岬の母さん医師』にその歩みを記録
・NHKが11年密着し、最期の診療の日々を放送で紹介

放送後追記予定

2025年11月7日放送『時をかけるテレビ』では、えりも町の人々との再会や、鈴木さんの残した教えを受け継ぐ医師たちの姿も紹介される予定です。放送後には新たな証言や地域の声を追記し、さらに詳しく更新します。


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