佐野史郎さんの“150年続く医者の家”に受け継がれた想いと家族の記憶
島根県松江市で150年以上にわたり地域医療を支えてきた佐野家。俳優として知られる佐野史郎さんが、その長い家系の過去をたどると、幕末の行き倒れた侍との出会い、町医者としての宿命、戦争の影、そして役者の道へ進んだ長男への本音が浮かび上がりました。
この記事では、『ファミリーヒストリー』(2025年11月24日放送)で明らかになった佐野家の深い歴史と、家族の歩みを紐解いていきます。
NHK【ファミリーヒストリー】松岡修造の祖先に小林一三!宝塚・東宝・海運業までつながる華麗なる一族 2025年8月18日放送
行き倒れの侍との出会いが家の運命を変えた
物語は松江市の閑静な町並みから始まります。史郎さんの実家は幕末に建てられた風情ある建物で、母の佐野禮子さんが長年守り続けてきました。
もともと佐野家は「春日」家と呼ばれ、医家としてのルーツは春日文修に遡ります。若き日の文修は、道端で倒れていた一人の侍――佐野蔵大輔――を介抱しました。この出会いをきっかけに文修は「佐野」の姓を名乗り、その侍が倒れていた場所に診療所を開きました。
春日家の本家は熊野神社とのつながりが深く、江戸時代中期には神社で楽を奏する役を務めていた家柄。調査中には、春日家と佐野家が古くから姻戚関係にあったことを示す記録が松江歴史館で見つかりました。侍との縁は単なる偶然ではなく、家系に流れる“必然”のようにも感じられる発見でした。
スタジオで映像を見た佐野史郎さんは、驚きと感動が混じった表情で「はぁ~っとしか言いようがない」と語っていました。
町医者として地域を支えた150年の重み
診療所を開いた文修の意思を継いだのは二代目の佐野珠悦です。珠悦は戦時中、軍医として戦地に赴き、伝染病の予防や治療に力を尽くしました。地域の人々を守る医者としての使命感に満ちた生涯でした。
続く三代目佐野文泰は、医学専門学校を卒業後、校医として子どもたちの健康を守りながら、往診にも奔走していました。町医者は患者の生活に寄り添い、頼られる存在。文泰もしっかりとその役目を果たし、地域の信頼を集めていました。
文泰の息子が四代目、のちに診療所を継ぐことになる佐野義和です。
戦争の影が残した深い傷
義和の青春時代は、戦争の激動に翻弄されました。昭和16年(1941)12月8日の太平洋戦争開戦後、義和は中学生ながら学徒勤労動員で鉄工所に動員されます。そこで出会った親友は「戦闘機の設計士になりたい」と夢を語り合った仲でした。
しかし昭和20年(1945)の敗戦直後、彼の親友は深く落ち込み、ついには命を絶つ決断をしてしまいます。
同級生で親戚でもあった古瀬力雄さんは、「自分の一生は終わるんだと思い詰めてしまった」と当時の様子を語り、亡くなる前の2日間、親友が佐野家と古瀬さんの家に泊まっていたことを明かしました。
その際、佐野家の薬剤室から青酸カリを持ち出し、服毒自殺を図ったという衝撃的な事実も語られました。古瀬さんは「佐野さんは責任を感じていたと思う」と義和の心の痛みに寄り添っています。
医者になる意味を追いかけた学生時代
昭和22年(1947)、義和は東京医科大学(当時は東京医科専門学校)に進学します。
同級生で、今も新潟で現役の医師として働く百々猛さんは、義和について「講義が始まると一番前に座って、一生懸命ノートをとっていた」と回想しました。戦争で友人を失い、自分が生き残った理由を考えた世代だからこそ、「亡くなった仲間の分まで努力する」という強い思いで勉学に励んでいたのです。
その後義和は故郷の松江に戻り、赤十字病院で働きます。
出雲大社に連なる名家に生まれた母・禮子
義和は病院で出会った看護師、佐野禮子と結婚しました。禮子は明るく、患者からの人気が高く、周囲を前向きにする存在だったといいます。
禮子の父は出雲を代表する名家、北島家の出身。出雲大社の祭祀を司る“国造(こくぞう)”として知られる家柄で、明治維新前までは人前に出ることも許されない特別な家でした。
北島家の北島建孝さんは、家に生まれるだけで大きなプレッシャーを背負わされたと語っていました。
禮子は幼いころから音楽と演劇が大好きで、小学校の同級生糸賀景子さんは「演技が真に迫っていた」と語り、後の史郎さんの芸術的感性につながる背景を感じさせます。
嫁ぎ先の重責に直面しながら、家族を支えた母
禮子は20歳で義和と結婚し、昭和29年(1954)に佐野家の4代目の嫁となります。翌年、長男の史郎さんが誕生しました。
昭和39年(1964)には新しい佐野医院が建てられ、禮子の生活は一変します。
毎日30食以上の食事を用意し、往診の車を運転し、家事も看護もこなす日々。屋上で風に当たるひとときだけが心を落ち着けられる時間だったと語られています。
住み込みで働いていた田川洋子さんは、姑から厳しく叱られていた思い出を語り、「禮子さんがかわいそうで、自分は絶対あのような環境に嫁ぎたくないと思った」と振り返りました。
長男への期待と葛藤、そして役者への道
代々医者を継いできた佐野家にとって、長男である史郎さんへの期待は大きいものでした。しかし、史郎さんはロックバンドに没頭し、成績は伸びず、医者の道に進むことも望んでいませんでした。
本人も「陰口をいっぱい叩かれた」と振り返るように、家業のプレッシャーや地域の視線は重くのしかかっていました。それでも史郎さんは東京の美術学校へ進み、演劇に目覚めます。
禮子は密かに仕送りを続け、舞台があると聞けば友人に観に行ってほしいと伝えるなど、母としてそっと背中を押し続けました。
一方、義和は二男の和也さんも診療所ではなく勤務医を志したことで不安を抱えていました。妹の優子さんは「辞める勇気がなかったんだと思う。町医者としての責任を感じていた」と語っています。
俳優としての飛躍と、父が残した言葉
史郎さんは映画『夢みるように眠りたい』で主演を務め、さらに『ずっとあなたが好きだった』で演じた主人公のマザコン役が大ヒット。注目を集め、名前が広く知られるようになりました。
住み込みで働いていた田川洋子さんは、義和が「気持ち悪いって言われたけど、それが大成功だわや」と喜んでいたと証言。息子の成功を誇りに思う気持ちが伝わります。
平成12年(2000)、義和は胃がんで倒れます。昏睡状態の中、禮子が枕元で言葉をかけると、義和が涙を流した場面が家族の胸に深く刻まれています。同年11月8日、義和は亡くなりました。
亡くなる半年前、診療所は弟の和也さんが継ぐことになっていました。
義和の同級生百々猛さんは、義和が「跡を継いでなくても応援してやってくれ」と語った言葉を忘れられず、新潟で史郎さんの芝居があると聞くと切符を買ったと明かしていました。
母が語った本音と、家族への深い愛
晩年、禮子さんは「胎教が悪かったねと言っていた」「医者ではなく芸術の道に進む子どもがほしかった」と、初めて心の内を語りました。
史郎さんが『ずっとあなたが好きだった』でマザコン役を演じ、大成功したことについても、「やっぱり佐野史郎はそういう人だったんだと思われたかもしれない」と笑いながら話しています。
スタジオで史郎さんは、父の「大成功やわ」という言葉を受け、「それはうれしい。嫌いじゃなかったんじゃないかな、父親も」と語り、多くの視聴者の胸を打ちました。
まとめ
150年という長い年月をかけて築かれてきた佐野家の歴史には、医者として生きる責任、家族を支え続ける覚悟、そして子どもたちの人生を尊重する愛が詰まっていました。
幕末の侍との偶然の出会いから始まり、戦争、家業の継承、葛藤、成功。
そのすべてが重なり合い、今の佐野史郎さんへとつながっています。
『ファミリーヒストリー』が示したのは、家族の過去を知ることが現在の自分を理解する道になるということ。その確かな重みを感じる回でした。
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