松岡修造のファミリーヒストリーとは?
2025年8月18日放送のNHK「ファミリーヒストリー」では、元プロテニス選手であり今も熱血キャラとして知られる松岡修造さんの家系が紹介されました。修造さんのルーツには、日本を動かしてきた大実業家や芸能文化を支えた人々が登場し、その壮大な歴史が明らかになりました。この記事では、父方・母方の両家系、そして修造さん自身の歩みまでをわかりやすくまとめています。「松岡修造の一族ってどんな人?」という疑問に答えられる内容になっています。
父方のルーツ 小林一三の挑戦と成功
修造さんの父方の曽祖父は、阪急電鉄や宝塚歌劇団を作り上げた小林一三です。一三の実家は山梨の布屋で、若い頃に両親を亡くすという苦労を経験しました。明治時代に慶應義塾に入学し、若干17歳で新聞に小説を連載するほど文才を発揮しました。
その後、銀行に勤めながらも夢を諦めきれず、やがて大阪の鉄道会社に入社。箕面有馬電気軌道を開業し、日本初の住宅ローンや沿線開発を進めました。温泉施設や動物園を作り、さらに宝塚少女歌劇団(のちの宝塚歌劇団)を生み出します。昭和4年には阪急百貨店を開業し、日本の暮らしを大きく変えました。
父方もう一つのルーツ 松岡家の実業と海運
父方の松岡家は、初代松岡修造が米の取り引きで財を築き、その後は海運業へ進出しました。大正期には船会社を興し、修造さんの曽祖父潤吉が跡を継ぎました。スポーツにも熱心で、実業団の運営も行っていました。しかし太平洋戦争では、船や船員を多く失い大きな犠牲を払いました。それでも松岡家は再起し、次世代へとつながっていきます。
母方 山本家と宝塚のつながり
修造さんの母静子さんは、宝塚歌劇団で男役スターだった千波静として活躍しました。母方の山本家は農家のまとめ役で、祖父喜之輔は人柄の良さで周囲に慕われました。妻のフサ子と駆け落ち同然で上京し、工場を経営しましたが、戦争の空襲で家も工場も失いました。それでも再建を果たし、子どもたちをバレエ教室に通わせるなど教育熱心でした。静子さんはその中で育ち、スターの道を歩んだのです。
父 松岡功と母 静子の出会い
修造さんの父松岡功は、元テニス選手であり、のちに東宝の社長を務めた人物です。功さんはデビスカップの代表に選ばれるほどの実力を持ちながら、父から経営の道を託されラケットを置きました。昭和32年に東宝に入社し、やがて宝塚出身の静子さんと結婚します。昭和42年、修造さんは4代前の高祖父にちなんで「修造」と名付けられました。
修造のテニス人生 父の言葉と挑戦
修造さんは学生時代にテニスへ没頭しましたが、父から「中途半端ならやめたほうがいい」と言われます。その言葉を胸に柳川高校へ編入し、インターハイで三冠を達成。さらにアメリカに渡り、プロテニス選手として挑戦を続けました。世界ランキングは46位に到達し、1995年のウィンブルドンでは日本男子62年ぶりのベスト8進出を果たします。その姿を父母が客席から見守っていました。
引退後の活動と受け継がれる思い
度重なる怪我に苦しみながらも、修造さんは「やるからには全てをかけろ」という家訓を胸に現役を全うしました。引退後はスポーツキャスターとして活動しつつ、錦織圭や西岡良仁などの後進を指導しました。父功さんも「修造はよくやっている」と語ったといいます。家族の歴史に共通していたのは、どの世代も挑戦を恐れず、全てをかけて取り組む姿勢でした。
まとめ
今回のファミリーヒストリーでは、松岡修造さんの背景に、小林一三や松岡家の海運業、母の宝塚のスターといった多彩な家系の物語があることが紹介されました。修造さん自身もその精神を受け継ぎ、テニスやスポーツ文化の発展に貢献してきました。「やるからには全てをかける」というメッセージは、今も多くの人の心に響いています。
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この記事では、松岡修造のファミリーヒストリーを振り返りながら、華麗なる一族の歴史と修造さん自身の挑戦の軌跡を解説しました。
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