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NHK【ファミリーヒストリー】岩崎宏美 思秋期が父を変えた理由と奄美大島ルーツ・佐渡島家系の真実|2025年12月9日★

ファミリーヒストリー
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歌が家族の運命を動かした夜 ― 岩崎宏美 ファミリーヒストリーの核心

このページでは『ファミリーヒストリー 岩崎宏美 〜母から継いだ声 父を変えた歌〜(2025年12月9日放送)』の内容を分かりやすくまとめています。
ファミリーヒストリーで描かれたのは、岩崎宏美という歌手の成功の裏にあった、母から受け継がれた声の記憶と、厳格な父の人生を変えた一曲の存在でした。奄美大島と佐渡島という二つの土地、戦争と疎開、夢を断たれた父と歌に導かれた娘。そのすべてが一つの物語としてつながっていきます。

奄美大島にさかのぼる母方のルーツと島唄の血筋

母方のルーツは奄美大島にありました。
戸籍を一つひとつたどる取材によって浮かび上がったのが、曽祖父の畠丑太郎と、曽祖母の畠デンマツの存在です。丑太郎は、島の暮らしに欠かせないさとうきびを育て、そこから黒糖焼酎を作りながら家族を支えていました。自然と向き合い、土地の恵みを生かして生きる、奄美らしい生活がそこにありました。

一方のデンマツは、集落で産婆の役目を担い、多くの命の誕生に立ち会ってきた人物でした。体調が悪い人がいれば呼ばれ、出産のときには真っ先に頼られる存在で、島の人々から厚い信頼を寄せられていたと伝えられています。

さらに注目されたのが、デンマツが「唄者」と呼ばれるほどの島唄の名手だったことです。奄美における唄者とは、歌が上手な人というだけではありません。集落ごとに受け継がれてきた唄を正しく覚え、次の世代へ伝えていく、大切な役割を担う存在です。

奄美の島唄は、単なる娯楽ではなく、暮らしの中で生まれ、祈りや願い、悲しみや喜びを込めて歌われてきました。畑仕事の合間、祝いの席、別れの場面など、人生の節目に寄り添うように唄がありました。唄者は、そうした集落の記憶そのものを声に乗せて残す存在だったのです。

番組では、こうした奄美の唄の文化の中に、岩崎宏美が持つ深く伸びる声の原点があったことが、初めてはっきりと示されました。本人も知らなかった曾祖母の姿と、島に根づく唄の歴史が重なったとき、宏美の歌声がどこから来たのか、その背景が静かに浮かび上がってきました。

戦争と疎開が刻んだ母の人生と東京への道

母の岩崎スエは、戦争によって人生を大きく揺さぶられました。若い時代に体験したのは、日常が突然断ち切られる現実でした。疎開先での生活は想像以上に厳しく、食べ物も仕事も十分とは言えず、住まいが安定しない日々が続きます。慣れ親しんだ土地を離れ、不安の中で毎日を生き抜くことが当たり前になっていきました。

さらに、故郷の奄美大島は戦後も米軍の占領下に置かれ、自由に行き来することができない状況が続きました。帰りたくても帰れない、家族や土地との距離が強制的に引き離される時間が、スエの心にも深く刻まれていきます。

そんな中、復員後まもなく父を亡くすという出来事が重なります。支えを失い、故郷とも切り離されたまま、スエは新たな生活を求めて東京へ向かう決断をしました。東京では、姉夫婦が営む店で働きながら、必死に暮らしを立て直していきます。慣れない都会での生活は楽なものではありませんでしたが、そこで出会ったのが、後に夫となる岩崎兼三でした。

番組では、こうした母の歩んできた道が丁寧にたどられます。岩崎宏美自身は、母から戦争や疎開の詳しい話をほとんど聞かされてこなかったと語っており、今回の取材を通して、初めて知る事実が次々と明らかになったといいます。静かに胸の内にしまわれてきた母の過去が、家族の歴史として言葉を持ち始めた瞬間でした。

佐渡島から続く父方の家系と祖父の苦難の時代

父方の家系は佐渡島にルーツを持っていました。
先祖が生まれ育ったのは、現在では世界遺産にも登録されている佐渡島の金山の麓に広がる町でした。かつて金山で栄えたこの土地も、時代の移り変わりとともに次第に衰退していきます。金山の活気が失われるにつれ、暮らしは厳しさを増し、家族もまた新たな道を探さざるを得なくなっていきました。

その流れの中で生まれたのが、祖父の岩崎容久です。容久は若くして故郷を離れ、上京という大きな決断をします。東京では製材所に勤め、木に関わる仕事を通じて生活の基盤を築き、やがて家庭を持ちました。地方から都会へ出て、腕一本で生きていこうとする姿勢には、強い覚悟がにじんでいました。

しかし、その生活は長くは続きませんでした。東京大空襲によって、勤務先も住まいも一瞬にして焼失してしまいます。長年積み重ねてきたものが失われ、再びゼロからの出発を強いられる状況でした。それでも容久は立ち止まりませんでした。

戦後、容久は製材加工機の販売会社を立ち上げ、自ら事業を興します。混乱の続く時代の中で、仕事を生み出し、家族を支える道を選びました。また、占領下で制限されていた剣道の復活にも力を注ぎ、武道を通じた人づくりや地域の再生にも関わっていきます。

数々の苦労を経験しながらも、容久は常に立身出世を誓い続けていました。その生き方は、家族の中で語り継がれ、後の世代にも強い影響を残します。厳しい時代を生き抜いた祖父の背中は、やがて息子へ、そして孫へと、無言の教えとして受け継がれていくことになりました。

動物を愛し剣道に生きた父の夢と葛藤

父の岩崎兼三は、若い頃から動物を深く愛する人物でした。家族の証言によると、伝書鳩の飼育に特に熱心で、鳩舎の世話を欠かさず行っていたといいます。ほかにも、池で泳ぐなど、多くの生き物に囲まれた生活を送っていました。その姿からは、生き物の命と真剣に向き合う気持ちが伝わってきます。

こうした背景から、兼三は将来獣医になることを志していました。動物の命を守る仕事に就きたいという思いは、本気の夢だったと語られています。しかし、家族の事情から家業を継ぐことを求められ、その夢を胸の奥にしまい込まざるを得ませんでした。自分の進みたい道を断念する決断は、簡単なものではなかったことが想像されます。

その後、兼三が人生をかけて打ち込んだのが剣道でした。厳しい稽古を重ね、高段位を目指す日々は、精神面にも大きな影響を与えます。鍛錬を重ねる姿勢は家庭にも表れ、生活全体に厳しさが求められるようになっていきました。娘に対しても妥協を許さず、規律を重んじる父親として接していたことが伝えられています。

こうした厳格さの背景には、兼三自身の経験がありました。夢を断たれた過去を持つからこそ、同じような苦しみを娘に味わわせたくないという思いが強く働いていたのです。そのため、娘が歌手を目指すと言い出したとき、強く反対する態度につながりました。

番組では、父の厳しさが単なる冷たさではなく、自分の人生を重ね合わせた葛藤から生まれていたことが浮かび上がります。動物を愛し、剣道に人生を託した父の歩みを知ることで、後に娘の歌が父の心を変えていく流れが、より深く理解できる形で描かれていました。

歌に目覚めた少女時代と父に反対されたデビュー

岩崎宏美は幼い頃から音感に優れた子どもでした。家の中で流れる音楽を自然に覚え、音程を外さずに歌う姿に、周囲の大人たちは早くから違いを感じていたといいます。学校の合唱クラブでも、その力は際立っており、指導者は「普通の子とは違う」と、はっきりと特別な才能を感じ取っていました。

中学生になると、その才能を試す場として選んだのが、オーディション番組『スター誕生!』でした。番組への挑戦をきっかけに、芸能界への道が現実のものとして開けていきます。しかし、その一方で、父の岩崎兼三の反対は想像以上に激しいものでした。歌の世界は厳しく、夢を追うことの危うさを誰よりも知っていた父は、簡単には認めようとしませんでした。

何度も話し合いを重ねた末、親子の間で交わされたのが「歌手活動は20歳まで」という約束でした。期限付きの挑戦という形で、宏美は歌の世界に進むことを許されます。
そして16歳でデビュー。若さと確かな実力を兼ね備えた歌声はすぐに注目を集め、『センチメンタル』『ロマンス』といった楽曲が次々と大ヒットを記録しました。華やかな成功の裏側で、約束の年齢が一日一日と近づいていく現実は、宏美の心に重くのしかかっていきます。

そんな中で迎えたのが、『思秋期』のレコーディングでした。歌詞に描かれた心情と、自分自身が置かれている状況が重なり、スタジオで涙が止まらなくなったというエピソードが紹介されます。歌うことへの思い、父との約束、将来への不安が一気に胸に込み上げた瞬間でした。

番組では、この出来事が単なる感情の揺れではなく、人生の岐路に立たされた若い歌手の本音だったことが丁寧に伝えられていました。成功と制限、その両方を抱えながら歌い続けた少女時代が、後に父の心を動かす大きな流れへとつながっていきます。

『思秋期』が変えた父の心と家族の絆

転機となったのが『思秋期』でした。
この曲を境に、父の岩崎兼三は、それまで口にしていた「歌手をやめろ」という言葉を、二度と発しなくなります。番組の取材によって明らかになったのは、その沈黙の裏にあった父の評価でした。兼三は後に周囲の人たちに対し、「ひと皮もふた皮も向けた歌手になった」と語っていたといいます。

それは、単に歌が上手くなったという意味ではありませんでした。歌詞の意味を背負い、自分の人生と重ねながら歌う姿に、父は一人の表現者としての成長を感じ取っていたのです。自らが夢を断たれた人生を歩んできたからこそ、その変化を誰よりも厳しい目で見つめ、そして認めた瞬間だったことが伝わってきます。

その後、岩崎宏美は『聖母たちのララバイ』を発表し、日本歌謡大賞を受賞します。歌手としての評価は確かなものとなり、NHK紅白歌合戦への出場も果たしました。少女時代に期限付きで許された歌の道は、ここで完全に職業としての重みを持つようになります。

母の岩崎スエは、同郷者が集まる場に参加し、カラオケから娘の歌が流れると、そっと祝儀を包んでいたといいます。表立って自慢することはなくとも、心の中では娘の活躍を誇りに思い、静かに喜びを表していました。

父の兼三もまた、変化を見せます。自らが理事を務める団体の会合で、娘に歌を披露してほしいと頼んだことがありました。その場で見せた柔らかな笑顔は、参加者の記憶に今も残っていると語られています。かつて厳しく反対していた父が、娘の歌を人前で求めた事実は、何よりも大きな心の変化を物語っていました。

『思秋期』は、父と娘の関係を静かに変えた一曲でした。言葉で語られることは少なくても、歌を通して伝わった思いが、家族の距離を少しずつ近づけていったことが、このエピソードからははっきりと感じられます。

まとめ

ファミリーヒストリーが描いたのは、成功の裏にある静かな家族の物語でした。奄美大島の島唄に始まる声の系譜、戦争と疎開を生き抜いた母、夢を断たれながらも娘を見守った父。そして『思秋期』という一曲が、家族の関係を少しずつ変えていきました。
岩崎宏美の歌は、個人の才能だけでなく、世代を超えて積み重なった人生そのものから生まれていたことを、この回は深く伝えていました。

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