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NHK【映像の世紀バタフライエフェクト】九龍城塞と一国二制度の真実〜ジミー・ライと香港の百年史|2025年6月16日放送

映像の世紀バタフライエフェクト

香港百年のカオス 借り物の場所借り物の時間

2025年6月16日放送のNHK総合「映像の世紀バタフライエフェクト」では、香港という特別な都市の百年の歴史をたどる特集が放送されました。タイトルにある「借り物の場所、借り物の時間」は、作家ハン・スーインの言葉です。中国の一部でありながら、長年イギリスの植民地として独自の文化と経済を築いてきた香港。その複雑な背景と激動の歴史を、貴重な映像と証言でたどりました。経済の急成長、映画文化の栄光、そして政治的な緊張の中で生きてきた人々の姿が描かれました。

香港統治の始まりと急増する人口

物語は、20世紀初頭のペニンシュラホテルの映像から始まります。イギリスによる香港支配はアヘン戦争の結果として始まり、大部分の土地は中国からの「租借地」という形式で管理されていました。その契約期限は1997年までと決まっており、最初から「いつか返さなければならない土地」だったのです。

中華人民共和国の建国以降、中国本土の混乱から逃れて香港へ移り住む人が増え、人口は短期間で約4倍に増加。住宅やインフラが追いつかない中で、人々は厳しい環境でも生活を成り立たせていきました。

このころ香港映画の世界で活躍していたのがブルース・リー。彼は幼いころから子役として知られ、後にイップ・マンに武術を学び、アクションスターとして成長していきます。そんな時代に、多くの難民の中の一人だったジミー・ライも香港にたどり着きました。彼らが暮らしたのは九龍城塞と呼ばれる地域で、警察の手も届かない混沌とした「魔窟」のような場所でした。

社会の揺れとブルース・リーの躍進

1967年、香港では中国の文化大革命の影響を受けた六七暴動が発生します。毛沢東の肖像画が街にあふれ、共産主義に呼応する運動が高まりました。社会が不安定になる中、ブルース・リーはアメリカに渡り、「ロングストリート」などのテレビドラマに出演。その後、香港へ戻って映画界に本格的に参入し、「ドラゴン危機一発」「燃えよドラゴン」などを大ヒットさせました。

ブルース・リーは一気に世界的スターとなりますが、その栄光は長くは続かず、32歳の若さで急死。彼の突然の死は、香港にとっても象徴的な出来事でした。一方で、経済面では香港は加速度的に発展を遂げ、エリザベス女王が訪問するほどの国際都市へと変わっていきました。しかし、急成長の裏では犯罪の増加や警察の腐敗も問題となり、社会の二面性が浮き彫りになります。

返還交渉と民主化への希望と不安

1982年、イギリスのマーガレット・サッチャー首相が中国のトウ小平と会談し、香港返還について話し合いが始まります。そこで出された方針が「一国二制度」で、2047年まで香港の自由と自治を維持するというものでした。

この時期、香港では中国系起業家が台頭。少年時代に難民として来港したジミー・ライは衣料ブランド「GIORDANO(ジョルダーノ)」を成功させ、香港で存在感を高めていきます。しかしその後、1989年の天安門事件が起こり、中国政府による学生への弾圧により300人以上の命が奪われます。この事件は香港の人々に大きな衝撃を与え、多くの市民が将来を不安視して国外へ移住する動きが加速しました。

ジミー・ライの決意と自由を求める戦い

天安門事件の後、ジミー・ライは香港に残る道を選びます。彼は実業家からメディア業へと転身し、新聞「アップル・デイリー」を立ち上げます。香港の民主化を訴え、中国政府の姿勢に異を唱える姿勢を鮮明にしていきました。

1997年、香港は中国へ返還されました。当初の約束通り「一国二制度」が掲げられましたが、次第にその仕組みは形だけのものになっていきます。中国政府は民主化の動きを警戒し、次々と排除していきました。

そして2020年、ジミー・ライは国家安全維持法違反の容疑で逮捕されます。彼は現在も裁判の場で闘い続けており、その姿は香港の自由を求める象徴として多くの人に記憶されています。

番組は、香港が歩んできた100年の歴史を「バタフライエフェクト」の視点から描き、一人ひとりの行動がどのように歴史の流れを変えていったのかを伝えました。小さな動きが大きな社会の変化につながるというメッセージが、映像とナレーションによって深く心に残る内容となっていました。香港という特別な場所が見せてきた希望、葛藤、そして戦いの記録が、今も多くの人の胸を打ちます。

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