核の80年(1)核拡散 恐怖と不信の連鎖
2025年5月26日放送のNHK『映像の世紀バタフライエフェクト』では、「核の80年(1)核拡散 恐怖と不信の連鎖」がテーマとして取り上げられました。今回は、1945年の原爆投下から始まる核の歴史をたどり、国家間の不信と緊張、そして核技術の広がりがいかに世界に影響を与えてきたかを映像で振り返りました。戦争、冷戦、宇宙開発、原子力発電、そして現在の核リスクまで、複雑な時代の変遷が一つの流れとして描かれました。
第二次世界大戦後の「勝利」と原爆の製造
1945年8月、アメリカは日本への勝利によって大きな喜びに包まれていました。しかしその陰で、日本の広島と長崎に2発の原子爆弾が投下され、多くの命が失われました。この攻撃の背景には、極秘で進められていた「マンハッタン計画」がありました。この計画は核兵器を開発するための巨大プロジェクトで、軍や科学者だけでなく、アメリカの大企業も深く関わっていました。
中でも化学メーカーのデュポン社は、政府の要請により参加することになります。デュポンは名目上わずか1ドルの報酬しか受け取らなかったとされますが、実際には数億ドル規模の研究・建設費が支払われていたことが明らかになっています。つまり、リスクは最小限に抑えながら、国家予算によって大規模な施設整備が進められたのです。
・参加した企業にはデュポンのほか、自動車メーカーのクライスラー社なども含まれていました
・部品の加工、施設の建設、資材の提供など多くの産業が協力していました
・軍と企業が一体となって進めた国家規模の事業でした
マンハッタン計画によりアメリカ国内では多数の雇用が生まれ、戦時中にもかかわらず高収入が得られる仕事として注目されていました。特に工場では、戦地に赴く男性の代わりに女性が大量に雇用されました。制服を着て機械の操作に当たる女性たちの姿は、当時のニュース映像でも紹介されました。
・工場労働の主力となったのは若い女性たち
・秘密保持のため、作業内容は細かく分割され、全体像を知らされないまま働いていました
・多くの女性が戦争の裏で「知らないうちに核兵器の部品を作っていた」という事実もありました
こうして開発された原爆は、広島と長崎に投下され、世界に衝撃を与える結果となりました。しかしアメリカ国内ではそれが戦争を終わらせた「決定打」として賞賛される空気が広がり、核技術の開発に関わった人々の多くは、自分たちの成果を「勝利の象徴」として受け止めていたといいます。
原爆投下とその背景には、軍事・経済・雇用・科学といったさまざまな要素が絡み合っており、単なる兵器の開発にとどまらない、巨大な国家プロジェクトの構図が見えてきます。戦争の終結と同時に始まったのは、核をめぐる新たな時代の幕開けでした。
戦後初の原爆実験とビキニ環礁の悲劇
1946年、アメリカは戦後初となる原子爆弾の実験を太平洋のビキニ環礁で実施しました。この実験は「クロスロード作戦」と呼ばれ、核兵器の威力や影響を測定するための大規模な実験でした。標的には廃艦となった戦艦や潜水艦などが使われ、空中爆発と水中爆発の2種類が行われました。
実験にあたっては、ビキニ環礁に住む人々に事前説明の場が設けられたとされていますが、彼らには選択の余地がなく、事実上の強制移住が行われました。住民は他の島へ移されましたが、そこには十分な生活環境が整っておらず、長期間にわたって苦しい避難生活を強いられることになります。
・ビキニ環礁には当時約160人の島民が暮らしていました
・アメリカは「人類のための実験」として説明を行いました
・しかし移住先では食料や水が不足し、生活は困窮しました
さらに深刻だったのは、放射性降下物による健康被害でした。島を離れた後も、放射線によって健康を害する人が続出し、甲状腺の病気やがんの発症例も報告されています。島の環境も汚染されたままで、元の島に戻れない人々が今も多く存在しています。
・実験によって周辺の海と土地が広く汚染されました
・住民の健康調査で、放射線による内部被ばくの疑いが浮上
・一部の住民は後年、アメリカ政府に補償を求めました
この原爆実験から3年後の1949年、ソ連が原子爆弾の開発に成功します。これによって、アメリカが一国で核を独占する時代は終わり、核の多国間時代が始まりました。ソ連の開発成功には、アメリカからの情報漏洩が関与していたとされ、クラウス・フックスやセオドア・ホールといった科学者のスパイ活動が明らかになっています。
・アメリカ国内にいた科学者がソ連に機密情報を提供していた
・ソ連の原爆開発はアメリカの進展をなぞる形で急速に進行
・この情報漏洩は冷戦構造を加速させる大きな要因となりました
こうして、ビキニ環礁での実験とソ連の核成功は、核兵器をめぐる国際的な競争と不信の始まりとなり、やがて世界は「核の時代」へと突入していくことになります。平和の名のもとに行われた実験の裏で、多くの人々が犠牲となった事実は、今もなお重く受け止められるべき歴史の一部です。
朝鮮戦争と核による威圧
1950年、朝鮮半島で北朝鮮が南に侵攻したことから朝鮮戦争が勃発しました。この戦争をきっかけに、アメリカとソ連の対立はさらに深まり、冷戦が実際の軍事衝突を伴う段階へと突入しました。アメリカは韓国を支援し、ソ連や中国は北朝鮮を支援する構図が形成され、朝鮮半島は代理戦争の場となっていきました。
1953年、ドワイト・アイゼンハワーがアメリカ大統領に就任すると、状況は大きく動きます。彼は、戦争を終わらせるために中国に対して核兵器使用の可能性を示唆したとされており、これが休戦交渉を進展させる大きな圧力となったと伝えられています。核の存在そのものが、戦局を左右する「言葉なき力」として使われたのです。
・アメリカ政府は公式には核使用を明言していないが、関係国には強い警告が伝えられていた
・この威圧によって、1953年7月に休戦協定が結ばれた
・核は「使用せずして戦争を動かす道具」として新たな価値を持った
この頃、アメリカは水素爆弾(通称:水爆)の開発にも成功し、核技術の進化は加速していきました。水爆は原爆よりも何百倍もの破壊力を持つとされ、核兵器の恐怖はさらに増すことになります。同時に、こうした技術は軍事利用だけでなく「平和利用」へと転換される流れも出てきました。
アメリカは「アトムズ・フォー・ピース(Atoms for Peace)」という政策を掲げ、原子力の平和利用を世界に広めるキャンペーンを展開します。これにより、各国に対して原子力発電の導入が奨励されました。
・原子力発電所の建設が各国で始まり、日本もその対象に含まれた
・アメリカの企業「ゼネラル・エレクトリック」などが技術支援を実施
・「平和のための原子力」として、世界各地に原子炉が広がっていった
日本では、新聞記者出身の政治家・正力松太郎が中心となり、原子力の導入が進められました。彼は日本テレビの創設者でもあり、メディアを活用して原子力の安全性や有用性を国民に広く伝えました。この活動により、東京電力をはじめとする電力会社が原発の建設に踏み切るきっかけが生まれました。
・1957年、日本で初めての商用原子力発電所(東海発電所)の建設が始まる
・その後、大飯発電所や女川原子力発電所、玄海原子力発電所なども建設
・福島第一原発もこの流れの中で誕生した重要施設のひとつ
こうして朝鮮戦争で生まれた核の威圧は、単なる軍事戦略にとどまらず、世界中に原子力という新たなエネルギー像を押し広げる契機となりました。表向きは「平和利用」とされながらも、核兵器と原子力発電は、同じ技術の裏表であるという現実が、ここで浮かび上がってきます。
核と宇宙の時代へ
1958年、アメリカはNASA(アメリカ航空宇宙局)を設立し、本格的な宇宙開発競争の幕が開けました。これは単に宇宙をめざす技術競争ではなく、冷戦下における核開発と軍事戦略の延長線上にある動きでもありました。宇宙におけるロケット技術や人工衛星の打ち上げは、同時に核ミサイルの開発と運用にも密接に関わる技術だったのです。
・ロケットの推進力と弾道ミサイルの技術は共通点が多く、両者は並行して進化しました
・人工衛星の軌道技術は、戦略核兵器の精度向上にも利用されました
・宇宙は「次なる戦場」と見なされるようになり、宇宙開発は核戦略の一部となりました
こうした動きはアメリカだけでなく、西側諸国の核政策にも影響を与えました。イギリスはアメリカと緊密な関係を築き、核技術の一部を共有することで核保有国としての立場を確保します。核兵器とその運用能力を持つことで、世界の戦略バランスにおいて存在感を保とうとしたのです。
一方、フランスはアメリカの支援を受けることなく独自路線を選択し、シャルル・ド・ゴール政権のもとで核開発を推進。1960年に自国での原爆実験を成功させ、正式に核保有国となりました。この動きは、アメリカ主導の秩序に対するヨーロッパの一部の独立性を象徴するものでした。
・フランスの原爆実験はアルジェリアのサハラ砂漠で行われました
・ド・ゴール大統領は「核はフランスの主権の象徴」と位置づけていました
・これにより、アメリカ・イギリス・フランスの3カ国が核クラブを形成しました
さらに、核の拡散はアジアや中東にも広がっていきます。1964年には中国が原爆実験に成功し、その後、インドやパキスタンも核兵器の保有に至りました。これらの国々は、それぞれの安全保障や国際的な地位向上を目的に核開発を進めたとされています。
・中国はソ連との関係が悪化したのち、独自に核武装を推進
・インドは1974年に「平和的核実験」と称して核実験を実施
・それに対抗してパキスタンも核開発を加速し、1998年に核実験を成功させました
こうして核兵器は特定の大国の専有物ではなくなり、国際社会に広く拡散する時代へと突入しました。各国が独自に核技術を持つことで、「核による抑止力」が世界中に広がる一方で、危機の連鎖も複雑化していきました。宇宙と核の融合は、冷戦後も形を変えて続いていくことになるのです。
冷戦の終結と新たな核の脅威
1991年、長く続いた冷戦がソ連の崩壊によって終結を迎えました。世界は一見、緊張から解き放たれたように見えましたが、すぐに新たな不安が広がり始めます。崩壊したソ連が保有していた大量の核兵器や核物質の管理が不安定になり、流出の危険性が高まったのです。これにより、テロ組織や他国への拡散が現実味を帯びるようになり、国際社会の懸念は一層深まりました。
・旧ソ連領の国々に点在していた核施設は管理体制が弱体化
・一部の核技術者は職を失い、国外への流出が危惧されました
・ウクライナやカザフスタンなどに残された核兵器も問題化
そのような中、北朝鮮が独自に核兵器の開発を始めるようになります。北朝鮮は早くから核の技術に興味を示しており、冷戦時代にはソ連との技術協力も存在していましたが、1990年代に入ると本格的に核実験を視野に入れた活動が始まります。
アメリカは、北朝鮮が急速に核技術を習得した背景に、パキスタンの核科学者アブドゥル・カディル・カーンの関与があったと名指ししました。カーンは、パキスタンの核兵器開発に大きく貢献した人物でありながら、自国の核技術を他国に密かに提供していたとされる中心人物です。
・カーンは「カーン・ネットワーク」と呼ばれる非公式な取引網を持ち、北朝鮮やイラン、リビアなどに核関連技術を提供したとされます
・2004年にパキスタン政府が公式に彼の関与を認め、世界に衝撃が走りました
・この問題により、非国家的・個人による核拡散リスクが強く意識されるようになりました
冷戦時代のように国家同士の対立だけでなく、国家の管理外で核が動くという新しい脅威が現れたのです。特に北朝鮮は、技術を手に入れたのち、2006年に初の核実験を行い、国際社会との緊張を決定的なものにしました。
こうして、冷戦の終わりは単なる「平和の訪れ」ではなく、核の脅威が新たな形で広がる時代の入り口でもありました。管理の目が届きにくくなった核技術が、これまで以上に複雑な安全保障上の課題として、世界に突きつけられたのです。
現代の核開発と未来の懸念
現代においては、ロシアが宇宙を舞台とした新たな核開発を進めている可能性があるとされ、これまでとは異なる次元での核リスクが浮上しています。軍事、経済、宇宙、民間利用と、核は常に私たちの社会と隣り合わせに存在してきました。番組の最後では、こうした核の80年を振り返りながら、「恐怖と不信」がもたらす影響の深刻さを静かに問いかけていました。
おわりに
今回の放送では、原爆投下から現代の宇宙開発まで、核を巡る80年の歴史が時系列に沿って丁寧に描かれました。科学技術の進歩の裏にある政治的思惑や経済的利益、そして人々の苦しみや選択の記録は、今後の私たちの行動にも大きな示唆を与えてくれます。次回はこの「核の80年」シリーズの続編が放送される予定です。今後も見逃せません。
コメント