アウシュビッツの生還者たち
2025年4月14日(月)22:00〜22:45に放送されたNHK「映像の世紀バタフライエフェクト」では、アウシュビッツ強制収容所を生き延びた人々の証言と記録に焦点が当てられました。ホロコーストの象徴とも言えるこの収容所では、110万人もの命が奪われ、そのうち生き残ったのはわずか8000人余り。今回はその生還者たちが極限の中で見出した“希望”と“人間性”に迫る内容でした。
プリーモ・レーヴィ|ダンテの言葉にすがり生きた作家
プリーモ・レーヴィは、ユダヤ人であることを理由にアウシュビッツへ送られ、過酷な強制労働と飢え、暴力の中で日々を生き延びました。そこで彼が心の支えにしたのが、イタリア文学の巨匠ダンテ・アリギエーリの『神曲』でした。とくに「きみたちは自分の生の根源を思え…」という一節が、生きる理由を失いかけた彼の魂を何度も引き戻したのです。
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レーヴィは『神曲』の一節を何度も暗唱し、自分の中の「人間性」を保ち続けていました
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同じ囚人仲間にその詩を語って聞かせたこともあり、言葉を通して心のつながりを感じることができたといいます
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彼にとってその詩は、ただの文学ではなく、「生きることを選び続ける意志」そのものでした
1982年、彼は再びアウシュビッツを訪れ、当時の記憶と向き合いました。かつてそこで苦しんだ自分と、多くの犠牲者の姿を胸に刻み、「記憶することは生きること」と信じて記録を続けました。
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戦後に執筆した『これが人間か』は、自らの体験を赤裸々に描いた記録であり、ホロコーストを知るうえで最も重要な証言のひとつとされています
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彼の文体は簡潔でありながら重みがあり、読者に「人間とは何か」「尊厳とは何か」 を問いかけてきます
しかし晩年、レーヴィは戦争と人間の本質について深く悩み、次第に精神的な苦しみを抱えるようになります。そして1987年、彼は自宅の階段から身を投げて命を絶ちました。彼の死は、自らが記憶してきた「地獄」が一生癒えない傷だったことを物語っているともいわれています。
それでも彼の著作は今も世界中で読み継がれ、過去の過ちを繰り返さないための“証し”として人々の心に刻まれています。ダンテの言葉とともに、レーヴィの記録は未来に向けて語り継がれていくべき大切な遺産です。
ディタ・クラウス|花の絵に託した少女の祈り
ディタ・クラウスは15歳のとき、家族と共にナチス・ドイツによってテレージエンシュタット収容所に送られました。この収容所では、芸術家で教育者でもあったフリードル・ディッカー=ブランダイスの指導を受ける機会に恵まれました。彼女は子どもたちに絵を描く時間を与え、紙と色鉛筆が“心の逃げ場”となるよう導いてくれました。
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絵を描く時間はほんのわずかでも、そこで描かれたのは食べ物や監視兵ではなく、希望の象徴としての“花”や“空の下の教会”でした
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ディタは寒さと飢えの中でも、赤や黄色、青など明るい色を選び、目に見えない“あたたかさ”を絵に込めていたとされています
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描かれた花は、周囲の子どもたちの間でも人気があり、貼られた絵の前で笑顔がこぼれる瞬間があったとも記録されています
その後、ディタはアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に移送され、より過酷な環境の中に置かれることになります。しかし彼女はそこでの記憶も含め、戦後は沈黙することなく“語り手”として生きる道を選びました。
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1992年にはインタビューを受け、テレージエンシュタットでの絵の授業やアウシュビッツでの体験を、静かに、しかし確かな言葉で語っている映像が残されています
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その表情は落ち着いていながらも、一つひとつの言葉に「記憶の重み」と「命の力強さ」がにじんでいました
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「描くことで恐怖を超えられる」というフリードル先生の教えは、彼女の中で今も生き続けていると感じられます
現在もディタ・クラウスはプラハで暮らしています。あの時の少女が描いた小さな花は、ただの絵ではなく、心が押しつぶされそうな収容所の中で“人間らしくあること”を守った証です。彼女の絵と証言は、次の世代に向けて語られ続けるべき希望のしるしです。
カレル・アンチェル|オーケストラが灯した希望の旋律
カレル・アンチェルは、ナチスによって家族と共にテレジン(テレージエンシュタット)収容所に送られたチェコの音楽家です。この収容所には多くの芸術家が集められており、アンチェルはその中でオーケストラの指揮者として音楽活動を始めました。囚人のひとりとして、生きる希望を失いかけた中でも、彼は指揮棒を手に取りました。
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楽譜は限られていたため、記憶に頼って編曲を行い、曲を再現するという困難な作業を続けました
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メンバーはほぼ全員が素人ではなく、音楽家や学生など優れた技術を持つ人々が集まり、本格的な練習が行われました
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彼らは夜遅くまで音楽を合わせ、「いつか自由になったときのために」と信じて演奏を続けたのです
この活動はナチスによって一部プロパガンダに利用され、外部向けの映像にも収められました。収容所にも文化があると偽るための道具として演奏会が利用される一方で、アンチェルたちはその舞台を“心の避難所”としていたのです。
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音楽が鳴る瞬間だけは、看守の目も、空腹も、寒さも忘れられた
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音楽は命令ではなく、自分たちが自ら選んで奏でる「自由なもの」だった
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その数分間だけ、彼らは囚人ではなく、ひとりの人間でいられた
その後アンチェルはアウシュビッツに移送され、妻子を亡くします。しかし彼自身は生還し、戦後はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の首席指揮者として活躍しました。彼が指揮した「わが祖国」などの演奏は、祖国への誇りと平和への願いを込めた象徴的なものとされています。
アンチェルにとって音楽は、過去の記憶と向き合う手段であり、未来を信じる力でもありました。強制収容所という地獄の中で指揮棒を握り続けた男の旋律は、今も人々の心に響き続けています。音楽は人間の尊厳を守る最後の手段であると、彼の生涯は語りかけています。
エヴァ・コー|人体実験を耐え抜き「許し」を選んだ女性
エヴァ・コーは1934年にルーマニアで生まれ、10歳のときに双子の妹ミリアムとともにアウシュビッツ強制収容所へ送られました。彼女たちは、ナチスの医師ヨーゼフ・メンゲレによる双子を対象とした非人道的な人体実験の対象とされました。エヴァにとって収容所での生活は、命を奪われる恐怖と、実験による苦痛の連続でした。
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体に注射される薬の内容は知らされず、副作用で高熱を出し、何日も寝たきりになることもあった
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実験の記録や採血は毎日のように行われ、「病気になること」が死と直結する環境で、姉妹は互いを励まし合って生き延びました
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エヴァはミリアムの存在があったからこそ耐え抜くことができたと後年語っています
終戦とともにアウシュビッツは解放されましたが、エヴァの苦しみはそこで終わりませんでした。戦後も健康への影響が残り、ミリアムも腎臓障害に苦しみました。エヴァはアメリカに移住し、後にホロコーストの教育活動を始めます。そこで彼女が選んだのが「許し」という行動でした。
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1995年、かつてのアウシュビッツ看守を自らの意思で「許す」と発表し、多くの反響と批判を呼びました
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しかし彼女は「これは加害者のためではなく、自分自身を過去の苦しみから解放するための行動」だと主張しました
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「許しによって私は自由になった」という彼女の言葉は、世界中で広まり、多くの人に希望と考える力を与えました
さらに彼女は、ホロコーストの実態を伝えるために「CANDLESホロコースト博物館」を設立。自らの体験を語ることで、次の世代へ命の尊さと人権の大切さを伝え続けました。
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博物館には実験に関する資料、子どもたち向けの展示、当時の記録映像などが並び、訪れる人々に強い印象を与えています
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教育活動は死後も継承され、今なお「エヴァの言葉」は世界中の講演や展示で紹介されています
エヴァ・コーの人生は、極限の苦しみを経験しながらも、それを“未来に生かす力”へと変えた歩みでした。過去と向き合いながら、未来を信じることの意味を、彼女の生き方が私たちに教えてくれます。
生還者たちが語る“地獄”の記憶と未来への願い
アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所では、到着するや否や行われた「選別(セレクション)」が生死を分ける最大の瞬間でした。健康で労働力があると見なされた者は強制労働に、そうでないと判断された者はガス室へと送られました。年齢や体力、わずかな外見の違いが、命の運命を決めていたのです。
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選別の現場では、何百人もの人が列を成し、数秒で「左か右か」の判断が下されました
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子どもや高齢者、病人などはほとんどが処刑対象となり、家族がその場で引き裂かれる光景が日常のように繰り返されました
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生還者たちの証言は、当時の悲惨さを生々しく伝え、その記憶を次の世代に残すことの重要性を語っていました
今回の放送では、ポーランド大統領アンジェイ・ドゥダやウクライナ大統領ヴォロディミル・ゼレンスキーが収容所を訪れる様子も映されました。彼らはホロコーストの記憶を国として受け継ぐ姿勢を示しており、今もなお歴史を学び直す動きが国際的に続いていることが伝わります。
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厳寒の中、石畳を一歩一歩踏みしめながら収容所跡を歩く姿が印象的に映されました
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各国首脳の訪問は、記憶の風化を防ぐための大きなメッセージとして世界に届けられました
また、生還者のひとりであるマリアン・トゥルスキ氏の証言も紹介されました。彼はユダヤ人としてアウシュビッツを経験し、戦後は歴史教育の発信者として活動を続けてきました。
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トゥルスキ氏は、「一歩一歩積み重なる差別や偏見が、やがて大量虐殺に繋がる」という言葉を強調しました
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自らの体験をもとに、「ある日突然ではなく、“少しずつ”人権が奪われていった」と語る姿は、現代に生きる私たちへの強い警鐘でもありました
彼らの言葉は、単なる歴史ではなく、今この瞬間にも世界のどこかで繰り返されかねない現実を私たちに突きつけています。生還者の証言は、過去を記憶するための記録ではなく、未来を守るための“意思”として語り継がれています。
番組を見終えて
「映像の世紀バタフライエフェクト」は、アウシュビッツという“人間の闇”に対して、“希望をつなぐ証言”という光を当てた45分間でした。収容所という地獄を生き抜いた人々の声は、現代を生きる私たちにも深い問いを投げかけます。
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