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NHK【映像の世紀バタフライエフェクト】ナチを支えた女性たち―マクダ・ゲッペルスとゲルトルート・ショルツ=クリンクの最期|2025年9月29日

映像の世紀バタフライエフェクト

ヒトラーのそばにいた女性たちを知っていますか?

アドルフ・ヒトラーと聞くと、多くの人は独裁者としての姿を思い浮かべるでしょう。しかし、その陰で彼を支えた女性たちの存在については、意外と知られていません。彼女たちはなぜヒトラーを信じ、時には自らの人生を賭けてまで支え続けたのでしょうか?この記事では、2025年9月29日に放送されたNHK総合『映像の世紀バタフライエフェクト』「ナチを支えた女性たち」をもとに、歴史の裏側に隠れた女性たちの物語をひも解きます。彼女たちの姿を知ることで、歴史をより立体的に理解できるはずです。

上流階級の女性が支えたナチ党のはじまり

第一次世界大戦で敗北した後のドイツは、政治も経済も大きな混乱に陥っていました。敗戦による莫大な賠償金、インフレ、失業の増加などで人々の生活は不安定になり、社会全体に不満が渦巻いていたのです。そんな不安定な時代に登場したのがアドルフ・ヒトラー国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)でした。

まだ小さな存在でしかなかったナチ党を支えたのは、意外にも上流階級の女性たちでした。新聞には「ヒトラーのために金を集めている女性たちがいる」という記事が載り、話題になったほどです。特にピアノ製造で知られるベヒシュタイン家の娘であるヘレーネ・ベヒシュタインは、ヒトラーに資金を提供し、社交界でのつながりを利用して影響力を広げました。

同じく重要な存在だったのが、ワーグナー家に嫁いだヴィニフレート・ワーグナーです。彼女は作曲家リヒャルト・ワーグナーの子孫であり、芸術界や文化人脈を通じてヒトラーを支援しました。ヒトラー自身がワーグナーの音楽を深く愛していたこともあり、ヴィニフレートの存在は単なる資金援助にとどまらず、精神的な支えにもなっていたといわれます。

さらに、後にリナ・ハイドリヒとなる女性も大きな役割を果たしました。彼女は若き軍人だったラインハルト・ハイドリヒと結婚し、夫に熱心にナチ思想を語り続けました。その影響でハイドリヒはナチ党に傾倒し、やがて党内で急速に頭角を現すことになります。彼は後に「第三帝国の黒い心臓」と呼ばれるほど残虐な政策を主導する人物となりましたが、その出発点にはリナの影響があったのです。

こうした女性たちの資金や人脈、さらには思想的な後押しが、無名に近かったヒトラーとナチ党を一気に押し上げる原動力となっていきました。

ヒトラーが描いた「女性の役割」

1933年にアドルフ・ヒトラーが首相に就任すると、女性の社会的な役割は大きく制限されました。女性の政治参加は排除され、国の意思決定に加わることは認められなくなります。しかしその一方で、ヒトラーは女性の献身を高く評価し、「民族の母」というスローガンを掲げることで、女性たちを国の重要な支え手として位置づけました。母として子どもを産み育て、家庭を守ることこそが女性の使命であると強調されたのです。

この政策の象徴となったのがゲルトルート・ショルツ=クリンクでした。彼女はナチ党の女性組織を率い、全国の女性に向けて「理想の母」「献身的な妻」として生きることを説きました。ショルツ=クリンクは大規模な集会で演説を繰り返し、ナチ政権の掲げる価値観を浸透させる役割を果たしました。その姿は多くの女性にとって「国が求める生き方」を具体的に示すものでした。

さらに、マクダ・ゲッペルスもプロパガンダにおける重要な存在となりました。彼女は宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルスの妻として、常に理想的な母親であり妻である姿を国民に示しました。子どもたちと並んで映る彼女の姿は新聞や雑誌に大きく取り上げられ、「ナチが理想とする女性像」として国民に印象づけられました。マクダは華やかでありながら質素さも演出し、女性たちが憧れる存在として巧みに利用されたのです。

このように、ヒトラー政権下では女性が直接政治に関わることは許されなかったものの、ゲルトルート・ショルツ=クリンクマクダ・ゲッペルスといった人物を通じて、「女性は家庭で国家を支える存在」という思想が広められていきました。これにより多くの女性が国家の枠組みに組み込まれ、政権の基盤を支える大きな力となっていったのです。

戦争が女性を外に押し出した

1936年になると、ナチ政権は明確に戦争へ向けた準備を進めていきました。徴兵制が復活し、軍需産業は急速に拡大します。これにより深刻な労働力不足が生じ、家庭にいることが理想とされてきた女性たちにも、工場や公共の場で働くことが求められるようになりました。従来は「家庭の守り手」と位置づけられていた女性が、国家の存続を支える労働力として外に出ていったのです。

1939年に第二次世界大戦が始まると、その流れはさらに加速しました。女性たちは軍需工場で兵器や弾薬を作るだけでなく、国防軍の補助任務や防空作業といった危険な仕事にも従事しました。爆撃の恐怖と隣り合わせの生活の中で、多くの女性が戦争の最前線を支えていたのです。

一方で、国民には倹約が強く求められていました。衣服や食料は配給制となり、多くの家庭が我慢を強いられる日々を送っていました。そんな中、元女優でヘルマン・ゲーリングの妻であったエミー・ゲーリングは贅沢な暮らしを続けており、その姿は国民との大きな対比として映像で紹介されました。庶民が物資不足に苦しむ中で、権力者の妻が華やかな生活を送る姿は、ナチ体制の矛盾を象徴するものでした。

それでも、プロパガンダの世界では「理想の女性像」が守られ続けました。マクダ・ゲッペルスは戦況が悪化していく中でも、常に国民の前で毅然とした母親像を演じ、子どもたちとともにカメラの前に立ちました。彼女の姿は「母として祖国を支える女性」の象徴とされ、厳しい戦争下でも国民に模範を示す役割を果たしました。

このように1936年以降、女性たちは国家のために新たな役割を担わされました。表舞台での「理想の母」という宣伝と、現実に工場や軍務に動員される労働力としての姿。その二つの矛盾が、戦時ドイツの女性たちの生き方を大きく縛っていたのです。

終戦と女性たちの選択

1945年、戦局はすでに絶望的な状況にあり、ソ連軍が首都ベルリンに迫ると、ドイツの敗北はもはや避けられないものとなっていました。その混乱と恐怖の中でも、マクダ・ゲッペルスは最後までアドルフ・ヒトラーの傍らを離れず、彼への忠誠を貫きました。ヒトラーが地下壕で自ら命を絶った翌日、マクダも夫ヨーゼフ・ゲッペルスとともに命を絶ち、さらに6人の子どもたちも巻き添えとなりました。その悲劇的な最期は、狂信的な忠誠心と家族をも犠牲にした選択として、戦後も多くの議論を呼びました。

戦後、多くのナチ幹部の妻たちは直接的な戦争犯罪に問われることはなく、比較的軽い処罰や社会的制裁で済んだケースが多くありました。しかし例外的に、女性組織のリーダーとして知られるゲルトルート・ショルツ=クリンクは「女性をナチ体制に組み込み、戦争を支えた主犯格」と見なされ、責任を追及されました。彼女は収監されるなど厳しい立場に置かれましたが、それでも思想を捨てることはありませんでした。

そして晩年になっても信念を変えず、1978年には著書『第三帝国の女』を発表しました。この本の中で彼女はナチ時代を正当化するような主張を続け、最後まで体制を信じ抜いたのです。ショルツ=クリンクの姿勢は、戦後の民主主義社会から強く批判されましたが、同時に「ナチの理念が人をどれほど深く縛り続けたか」を示す生き証人とも言えました。

敗戦の絶望の中で命を絶ったマクダ・ゲッペルスと、戦後も信念を曲げなかったゲルトルート・ショルツ=クリンク。二人の生き方は異なりながらも、どちらもナチ体制の影を象徴する存在として、歴史の闇に深く刻まれています。

記事のまとめ

この記事で紹介したポイントは以下の通りです。

  • 上流階級の女性がナチ党を経済的・思想的に支えた

  • 「民族の母」という理想像で女性の役割が固定された

  • 戦争が進む中で女性は労働や軍事にも動員されていった

  • マクダ・ゲッペルスゲルトルート・ショルツ=クリンクの最期が象徴的な意味を持った

歴史の舞台裏で女性たちが果たした役割を知ることは、単なる過去の出来事ではなく、現代の社会やジェンダーを考える上でも大きな示唆を与えてくれます。今後もこの番組で扱われるテーマを通して、私たちは「歴史の陰の声」に耳を傾ける必要があるでしょう。


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