岩手・東和町の挑戦 減反政策に立ち向かった町長の信念とは?
農業の未来について、こんな疑問を持ったことはありませんか?「なぜ日本では米を作りすぎてはいけないの?」「減反政策って本当に必要なの?」そんな素朴な疑問に答えるヒントが、今回放送された『時をかけるテレビ』(2025年10月24日放送・NHK総合)にありました。番組では、1997年に放送されたドキュメンタリー『米はドンドン作ればいい ~岩手・東和町長の挑戦~』を再放送。減反政策に異を唱えたひとりの町長・小原秀夫さんの姿を通して、地方が国に挑んだ「農業改革の物語」が描かれました。
東和町という小さな町から始まった大きな改革
舞台は岩手県南部の東和町。豊かな自然に囲まれた山あいの町で、町民の約7割が農業に従事しています。主な作物は米。しかし1990年代当時、国は「米が余っている」として生産を抑える減反政策を推進していました。これに従うことで、町には年間2億円以上もの補助金が入ります。
けれども、小原町長(当時70歳)は違和感を抱いていました。「国の指示で米を作る量を減らすことが、果たして本当に農家のためになるのか」。彼は元農家であり、土の上で生きる人たちの苦労を誰よりも知っていました。「地方行政は国や県の末端ではない」という強い信念を持ち、町独自の道を歩む決意を固めます。
こうして東和町は、全国で初めて「減反には協力しない」と宣言。代わりに、米を自由に作る『自主転作』の方針を掲げました。この決断は、全国の自治体や農協に衝撃を与えます。「補助金を捨ててまで理想を追うのか?」という声が上がる一方で、「農家の誇りを取り戻す勇気ある行動だ」と評価する声もありました。
農家の葛藤と現実 “理想”と“生活”のはざまで
改革の道は、当然ながら平坦ではありませんでした。東和町では高齢化が進み、農家の3分の2は60歳以上。若者が後を継がず、放棄田は10年で4倍に増加。米価の下落により、生活に直結する補助金を失うのは死活問題です。
町長が提案した「自主転作」に対し、「補助金の穴埋めがなければやっていけない」と反発する声が相次ぎました。なかでも、集落で26年間も減反の取りまとめをしてきた多田さんは、「サラリーマンは楽。農業は切ない」と語ります。彼は「米を作りたい」という気持ちと「家族を守らなければならない現実」の間で苦しみ続けていました。
一方、町役場では小原町長の指示のもと、新たな組織改革が進みます。自主転作を実現するために「プロジェクトチーム」を設置。補助金に頼らず、農家が自由に米を作り、それを町として販売する仕組みを構築しようと動き出しました。
議会の壁と「信念」の試練 初の否決という重み
しかし、町の議会では反対の声が強まります。小原町長は、自主転作を進める農家への助成金制度を提案しましたが、議会で「それでは国に逆らうことになる」との批判が噴出。審議の結果、賛成8・反対10で否決されます。町長就任以来、一度も否決されたことのなかった彼にとって、これは痛恨の結果でした。
農林課の菅原課長は、議会用の予算案に「自主転作」という言葉が明記されていないことを指摘。町長は「全部私が責任を取る」と言い切り、書き直しを命じます。この一言に、小原町長の覚悟と信念が凝縮されていました。
彼の政治哲学は常に一貫しており、「理念を掲げ一歩を踏み出せば、現実は必ずついてくる」というものでした。
銀座で米を売る!地方からの逆転戦略
小原町長の戦略は、単に「米を作る」ことにとどまりませんでした。彼は「作る」だけでなく「売る」ことに注力します。町が出資し、東京・銀座に居酒屋をオープン。ここを東和町産米の販売拠点としました。さらに首都圏に**『東和町産直センター』を設立。農協よりも1割高く買い取ることで、農家が減反に頼らずに収益を得られる仕組みを整えました。
説明会では、「転作をやめて米を作り、町が運営するセンターで売れば国の補助金に頼らずともやっていける」と説得。最終的に町内農家の53%がこの方針に賛成しました。地方の小さな町が、国の政策に真正面から挑むという歴史的な瞬間でした。
成功と挫折の狭間で “改革”の現実を見つめる
自主転作の宣言から100日。首都圏では東和町産の『ひとめぼれ』が人気を集め、産直センターの売れ行きは好調でした。ところが、国の減反政策は依然として続き、補助金をめぐる構造は変わりません。小原町長は農林水産省を訪れ、政策の見直しを直訴しますが、壁は厚く、改革は容易には進みませんでした。
スタジオでは中垣内祐一さんが、「小原町長の政策は素晴らしかったが、時期が早すぎた」と語ります。
「当時、減反に疑問を持っていた農家はたくさんいた。しかし、田んぼは農家にとって資本であり、簡単に減反をやめることはできなかった」と冷静に分析。さらに、「今の米価格は農家にとっても高く、消費者との価格感覚にズレがある」とも指摘しました。改革の難しさは、理想と現実の間で揺れる日本社会そのものを映しているようでした。
28年後の東和町 「自立した農業」の新しい形
番組のラストでは、現在の東和町の姿が紹介されました。かつて農協職員だった薄衣忠孝さんは、小規模農家を集めた農業法人を設立。米粉パンを作り、独自の販売ルートを開拓しています。
また、小田康弘さんは5年前にUターンし、父とともに無農薬米を栽培。その米を原料とした日本酒が、海外でも高く評価されています。小原町長が掲げた「補助金に頼らない自立した農業」の理念は、形を変えながら確実に受け継がれていました。
東和町の挑戦は終わっていません。かつての反対派も今では「やっぱりあの時の町長は先を見ていた」と語る人が増えています。地方が自らの力で未来を切り拓こうとする意志――それは、現代の地方創生にも通じる原点の物語です。
まとめ
この記事のポイントは以下の3つです。
・岩手県東和町の小原秀夫町長は、減反政策に反対し「自主転作」を宣言した先駆者だった。
・補助金に頼らない農業のため、東京・銀座に居酒屋を出し、東和町産直センターを設立するなど販路を開拓。
・28年後の現在も、その理念は東和町の若い農家たちに受け継がれている。
小原町長の言葉「地方行政は国の末端ではない」は、今の時代にも強い響きを持ちます。
『米はドンドン作ればいい』というメッセージは、単なる農業の話ではなく、「自らの力で未来を切り拓け」という生き方そのものの象徴。
地方から変革を起こした男の物語は、令和の今も、私たち一人ひとりに問いを投げかけています。
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