山手線を一周すると東京の正体が見えてくる
このページでは『首都圏いちオシ! 選 中川家礼二の沿線いちオシ!JR山手線スペシャル山手編(2025年12月27日放送)』の内容を分かりやすくまとめています。
山手線は、ただ電車が走っているだけの路線ではありません。140年の歴史、駅ごとに積み重なった暮らし、老舗の味、文学や信仰、そして再開発で生まれ変わる街。そのすべてが一つの円の中に詰まっています。番組は高輪ゲートウェイ駅から出発し、東京駅を起点に一周しながら、山手線沿線がなぜ東京の背骨と呼ばれるのかを掘り下げていきました。
山手線のはじまりと都市を支えた鉄道の歴史
山手線の原点は、今のように円を描いて走る環状運転ではありませんでした。
その出発点は、品川と東京を結ぶ、海沿いを通る一本の鉄道でした。
当時の東京湾沿岸は、すでに市街地化が進み、内陸側には線路を通すための十分な土地が残っていませんでした。そこで選ばれたのが、海の上に線路を通すという発想です。埋め立てや桟橋を使い、海岸線ぎりぎりを走るルートが敷かれました。
この決断は、単なる交通整備ではなく、国の近代化を急ぐための国家的事業でもありました。
現在の高輪ゲートウェイ駅周辺には、そうした時代の名残として日本最古級の線路跡が残されています。
それは、鉄道がまだ「便利な移動手段」ではなく、国づくりそのものを担っていた時代の生きた証です。山手線の始まりは、街に合わせて線路を敷いたのではなく、未来の都市像を見据えて線路が先に引かれた場所でもありました。
一方、東京駅は、日本の鉄道史の中でも特別な存在です。
山手線と京浜東北線を除き、基本的に下り列車しか存在しない始発駅として設計され、日本各地へ向かう鉄道網の起点となってきました。
正面に広がる赤レンガ造りの駅舎は、日本最大級のレンガ建築であり、現在は重要文化財に指定されています。東京の顔として、時代が変わってもその姿を守り続けています。
また、山手線が支えてきたのは地上の移動だけではありません。
神田駅の地下には、140年以上前に造られた神田下水が今も現役で使われています。レンガ造りのこの下水道は、コレラなどの伝染病から都市を守るために整備されたもので、近代東京の衛生環境を大きく変えました。
鉄道と下水が同じ時代に整備されたことは、都市を機能させるための総合的なインフラ整備が行われていたことを示しています。
こうして見ていくと、山手線は単なる移動のための路線ではありません。
鉄道、建築、衛生、都市計画が一体となり、東京という巨大都市を内側から支える骨格として作られてきました。
列車が今日も当たり前のように走るその下には、近代日本の挑戦と覚悟が、今も静かに息づいています。
駅ナカ・駅前に息づく老舗と定番グルメ
駅ナカグルメや老舗グルメは、山手線の魅力を語るうえで欠かせない存在です。
毎日何百万人もの人が行き交う路線だからこそ、食は単なる楽しみではなく、生活を支える役割を担ってきました。
品川駅では、鉄道の起点を示す0キロポストとともに、100年以上続く立ち食いそば店が紹介されました。
この店の特徴は、ホームごとにつゆの濃さを変えていることです。通勤客、長距離移動の乗客、作業の合間に立ち寄る人など、利用する人の流れや滞在時間を考え抜いた結果、生まれた工夫です。
名物の『品川丼』は、短い時間でもしっかり満足できる一杯として、駅員や旅人の胃袋を長年支えてきました。ここには、効率だけでは語れない、駅と人が一緒に歩んできた歴史があります。
新橋駅西口にあるニュー新橋ビルは、50年以上にわたり親しまれてきた、いわゆる“おやじビル”です。
再開発が進む都心の中で、この建物は働く人の日常を守り続けてきました。中でも圧倒的な人気を誇るのが、1日に200食も出るオムライスです。
味の決め手は、ケチャップでも具材でもなく、仕上げに使われる溶かしバター。派手さはありませんが、何度食べても飽きない味が、長年の支持につながっています。
有楽町駅の東京交通会館では、北海道や沖縄など全国各地のアンテナショップが集まり、地方の味と文化を発信しています。
近年注目を集めているのが、世界初出店となった高級チョコレートメーカーのベーカリーです。日本独自の「具材を生地で包み込む」製法を、チョコレートの技術で再構築し、20種類以上のパンを展開しています。
中でも評判なのが、ビターチョコの香りが立つ『カレーパン』で、甘さとスパイスのバランスが新鮮な驚きを生んでいます。
こうした山手線沿線グルメの共通点は、流行を追いかけることではありません。
通勤、出張、買い物、観光といった日々の暮らしの延長線上で選ばれ続けてきたことにあります。
駅とともに育ち、人とともに続いてきた味こそが、山手線のグルメ文化の強さを物語っています。
寺社・文学・下町文化に残る山手線沿線の記憶
山手線の北側や東側を歩くと、東京の中でもとくに下町文化と文学の記憶が濃く残っていることに気づきます。
高層ビルが並ぶ都心とは違い、信仰や言葉、暮らしの積み重ねが、今も街の空気として息づいています。
高輪ゲートウェイ駅の近くにある泉岳寺は、徳川家康によって創建された由緒ある寺院です。
ここには、大石内蔵助をはじめとする赤穂義士四十七士が眠っており、今も多くの参拝者が訪れます。
境内に残る首洗い井戸は、討ち入りを果たした義士たちが、吉良上野介の首を洗ったと伝えられる場所です。史実と伝承が重なり合い、江戸という時代の記憶を、静かに現代へ伝え続けています。
鶯谷駅にある子規庵は、正岡子規が亡くなる直前まで暮らした家の跡です。
ここで子規と仲間たちは、俳句・短歌の革新を目指し、雑誌『ホトトギス』を作り続けました。病床に伏しながらも言葉を生み出し続けたこの場所は、日本近代文学の出発点のひとつです。
子規の死後、この雑誌に夏目漱石が『吾輩は猫である』を発表し、日本文学は一気に新しい時代へと動き出しました。一軒の家から始まった文学の流れが、今も語り継がれています。
日暮里駅周辺の谷根千は、谷中・根津・千駄木の頭文字を取った呼び名です。
この地域が注目されるようになったきっかけは、地元で生まれ育った女性たちが作った地域雑誌でした。大手メディアが見向きもしなかった商店や寺、再開発の動きなどを丁寧に記録し続けたことで、街の価値が外に伝わっていきました。
その結果、昔ながらの商店、寺の佇まい、細い路地の風景が守られ、今では東京を代表する下町エリアとして親しまれています。
御徒町駅のアメヤ横丁では、戦後の闇市から始まった商いの文化が、形を変えながら続いています。
近年とくに注目されているのが、国産ジーンズの復活です。品質の高さと種類の豊富さから、外国人観光客にも人気が広がり、売り上げの約4割を占めるまでになりました。
食、衣料、雑貨が入り混じるアメ横は、変化を受け入れながらも、下町らしい活気を失っていません。
これらの街に共通しているのは、派手な演出ではなく、人が守り、語り、受け継いできた記憶が今も残っていることです。
山手線の線路沿いには、東京の別の顔が、確かに存在しています。
再開発と復活が生む新しい東京の魅力
山手線は、過去の遺産をそのまま保存するだけの路線ではありません。
時代の変化に合わせて姿を変えながら、常に更新され続けてきた鉄道でもあります。
その象徴が、高輪ゲートウェイ駅です。
この駅は単なる新駅ではなく、駅を核にした大規模な再開発によって、これからの東京を試す実験的な街として整備が進められています。
かつて鉄道発祥の地とされたエリアに、最新の都市機能を重ねていく姿は、山手線が「歴史と未来を同時に走る路線」であることを強く印象づけます。
田町駅近くにある東京港醸造も、更新される東京を象徴する存在です。
この酒蔵は、東京23区で唯一の酒蔵として、約200年にわたり酒造りを続けてきました。
時代の流れの中で一度は廃業しましたが、約10年前に復活し、再び東京の地で酒を仕込んでいます。
最大の特徴は、水道水を使った酒造りです。山の湧き水ではなく、都市の水を活かすという発想は、現代の都市型酒蔵ならではの挑戦であり、東京で酒を造る意味そのものを問い直しています。
浜松町駅では、東京の象徴である東京タワーが新たな価値を生み出しています。
『東京ダイヤモンドツアー』は、完全予約制で、専任のアテンダントが同行し、地上250メートルのトップデッキまで案内してくれる特別な体験です。
展望台に上るという行為に、時間と物語を加えることで、見慣れた景色がまったく違うものとして立ち上がります。
こうした事例から伝わってくるのは、再開発という言葉の本当の意味です。
それは、古いものを一度壊して新しくすることではありません。
積み重ねてきた価値を見つめ直し、今の時代に合った形へと更新し続けること。
山手線は、その考え方を街全体で実践しながら、今日も東京を一周しています。
山手線とともに刻まれた人々の思い出と街の物語
番組では、駅が単なる通過点ではなく、人の人生と深く結びつく場所であることも丁寧に描かれていました。
山手線の各駅には、時代や立場の違う人たちの記憶が重なり合い、街の表情をつくっています。
田町駅は、AKB48の最終オーディションや初期の活動と重なる場所です。
スタジオゲストの高橋みなみにとって、田町周辺はリハーサルや移動を繰り返した日々の記憶が詰まった街でした。まだ何者でもなかった時代に立っていた場所が、今も変わらず電車を迎え入れていることに、時間の重なりが感じられます。
有楽町駅は、オールナイトニッポンの記憶とともに語られました。
深夜の放送、スタジオへ向かう足取り、番組が終わったあとの街の空気。電車の音とともに刻まれた記憶は、その時代を生きた人にとって、今も鮮明に残っています。駅は、仕事や挑戦の舞台への入口でもありました。
秋葉原駅は、電気街としての顔だけでなく、より個人的な思い出が重なります。
劇場の裏手にあった中華料理店で、短い休憩時間に食事をし、また次の公演へ向かう。観光地としての秋葉原とは別に、日常としての秋葉原が確かに存在していました。
安い電気製品を買いに行く街だったという印象と、若者文化が流れ込む前の姿。その両方が、この駅には残っています。
礼二のいちオシとして紹介された旧万世橋駅は、かつて中央本線のターミナル駅でした。
1912年に開業し、多くの人と物を運んできましたが、1943年に役目を終えます。それでも駅は消えず、現在は商業施設として再生されました。
高架や構造物を活かした空間は、かつての鉄道の記憶をそのまま残し、訪れる人に静かに語りかけています。
こうしたエピソードが示しているのは、山手線がただ人を運ぶ路線ではないということです。
それぞれの駅が、挑戦の始まりであり、日常の積み重ねであり、振り返る場所でもあります。
無数の人生の断片を乗せながら、山手線は今日も変わらず東京を一周し続けています。
まとめ
山手線を一周すると、鉄道の歴史、老舗の味、寺社や文学、再開発、そして人の記憶が一本の線でつながっていることが分かります。この路線が特別なのは、すべてが今も現役で動き続けているからです。円を描く列車の中に、東京という都市の過去と現在、そしてこれからが詰まっています。
NHK【首都圏いちオシ!】中川家礼二の沿線いちオシ!JR山手線スペシャル下町編|山手線下町スポット・品川田端全駅・140年の歴史|2025年12月20日
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