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写真家・齋藤陽道とは何者か 手話と音声言語の違いから見ることばを広げる意味とろうの親と聞こえる子どものコミュニケーションの本質

社会
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ことばの本当の意味に気づく物語

ことばは「声」だけでできているのでしょうか。ろうの写真家・齋藤陽道の生き方を通して、私たちが当たり前に思っているコミュニケーションの形が大きく揺さぶられます。手話や表情、沈黙までもが伝える力を持つという視点は、誰にとっても新しい気づきです。『ETV特集 世界はことばで満ちている(2026年4月4日)』でも取り上げられ注目されています。読むことで、ことばの広がりと人とのつながり方が見えてきます。

・齋藤陽道とはどんな人物で何がすごいのか
・手話と音声言語の違いと家族のリアル
・なぜ「ことばを広げる」という考えが注目されたのか
・写真表現が伝える新しいコミュニケーションの形
・ろう者の視点から見える人とのつながりの本質

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齋藤陽道とは何者か ろうの写真家の歩み

齋藤陽道は1983年東京都生まれの写真家で、都立石神井ろう学校を卒業後、写真表現を軸に活動を広げ、2010年に写真新世紀優秀賞、2014年に日本写真協会新人賞を受けています。写真集『感動』『感動、』、著書『異なり記念日』『声めぐり』『育児まんが日記 せかいはことば』などでも知られ、写真だけでなく文章やまんがでも、自分の見ている世界を伝えてきました。

齋藤さんが多くの人に注目される理由は、単に「耳が聞こえない写真家」だからではありません。大きいのは、聞こえないことを欠けたものとしてだけ扱わず、そこから見える豊かな世界を表現してきたことです。東京都人権プラザのインタビューでは、生まれつきほぼ耳が聞こえず、補聴器をつけても会話が難しかったため、子ども時代に強い孤独を抱えた一方、高校で手話に出会って人と通じ合う喜びを知ったことが語られています。つまり齋藤さんの表現の土台には、苦しさと解放の両方があるのです。

ここがとても大事です。齋藤さんの作品は、きれいな写真を見せるだけではなく、「ことばは声だけではないのではないか」という問いを、写真そのもので投げかけています。朝日新聞系の記事でも、齋藤さんは手話を目で見てわかる「声」として捉え、子どもとのふれあいもまた大きな「声」だと感じていることが紹介されています。だからこそ、ETV特集「世界はことばで満ちている」が注目されたのは、ひとりの作家の密着番組としてだけでなく、ことばそのものの見方を揺さぶる内容だったからです。

手話と家族 聞こえる子どもとのコミュニケーションの現実

齋藤さんのテーマを理解するうえで欠かせないのが、家族の中で使われることばの違いです。齋藤さんと妻はろう者で、家庭では手話を中心に暮らしています。一方で、紹介記事や本人の著作紹介からは、子どもたちは聞こえ、成長の中で音声言語も自然に増えていく様子が描かれていることがわかります。これは特別な例に見えて、実はろうの親と聞こえる子どもの家庭ではとても大きなテーマです。

聞こえる親子なら、同じ音のことばを共有しやすい場面が多くあります。けれど、ろうの親と聞こえる子どもの家庭では、親は視覚で受け取る手話、子どもは視覚の手話と聴覚の音声の両方を行き来しながら育つことがあります。このとき起きるのは、「通じない」ではなく、通じ方がひとつではないという現実です。家の中では手話が自然でも、外では音声日本語が中心になります。この二つの世界をまたぐことは、豊かさでもあり、時にむずかしさでもあります。

聞こえない親を持つ聞こえる子どもは、一般にCODA(Children of Deaf Adults)と呼ばれます。日本でも、家では手話、外では声という二つの文化やルールのあいだで育つ子どもたちの経験が知られるようになってきました。J-CODAの紹介では、手話の中では自然なふるまいが聞こえる世界では誤解されたり、親の書いた日本語を子どもが支えたりすることがあると説明されています。つまり、ただ「親子で仲良く話せるか」だけではなく、家庭・学校・社会の3つの場でことばの役割が変わるのです。

だから齋藤さんの家族の物語が多くの人の心を打つのは、特殊だからではありません。むしろ、どの家庭にもある「親と子は同じではない」という当たり前の事実が、手話と音声言語の違いによって、よりはっきり見えるからです。親子は仲が良くても、見ている世界も得意な伝え方も同じではない。そのズレを隠さず、悩みも喜びもそのまま見つめているところに、読者や視聴者が強く引き寄せられます。

音声言語と手話のはざまで生まれる葛藤とは

齋藤さんの歩みをたどると、いちばん深いところにあるのは、音声言語に合わせようとして苦しんだ経験です。withnewsのインタビューでは、子どものころ、聞こえる世界にあこがれ、音声言語に強くこだわったこと、聞こえて話せるふりをして過ごしたこと、そのことがかえって孤独を深めたことが語られています。これは、ただの個人的なつらさではありません。社会の側が「ことば=音声」と考えやすいことの表れでもあります。

ここで誤解したくないのは、音声言語が悪い、手話が正しいという単純な話ではないことです。問題なのは、どちらか一つだけを正解にしてしまうことです。齋藤さん自身の文章でも、かつて自分が音声言語を選ばされたように感じた経験がある一方で、自分が今度は子どもに手話を押しつけてしまうのではないかと迷う気持ちが書かれています。これはとても正直な葛藤で、だからこそ多くの人に届きます。

手話と音声には、単に入力方法が違うだけでなく、リズム、文法、表情、空間の使い方まで違いがあります。齋藤さんは2024年の寄稿で、子どもたちの成長の中に、手話の語彙と音声の語彙のあいだで迷う瞬間があること、二つのリズムが絡まり合うと沈黙が生まれることを書いています。この「沈黙」は、ことばがない時間ではありません。むしろ、ことばがひとつに決まらない時間です。そこに切なさもあれば、新しい理解の入り口もあります。

この背景には、日本社会で手話が長く「補助的なもの」と見られてきた歴史もあります。全日本ろうあ連盟は、手話言語が独自の文法体系をもつ、音声言語と対等な言語だと説明しています。つまり、手話は「声がない人の代用品」ではなく、それ自体でひとつの言語です。ここを理解すると、齋藤さんの葛藤は「便利な手段を選ぶかどうか」ではなく、自分の生きることばをどう守り、どう開いていくかという問題だとわかります。

「ことばを広げる」とは何か 写真家としての挑戦

齋藤さんが繰り返し向き合っているのは、「ことば」の意味を広げることです。これは、辞書の言葉を増やすという意味ではありません。人が何で通じ合うのか、その範囲を広げるという意味です。東京人権プラザのインタビューでは、齋藤さんが写真を通して探しているのは、聞こえなくても伝わる「何か」もまたではないか、という発想だと紹介されています。ここでいう声は、喉から出る音だけを指していません。表情、まなざし、動き、気配、沈黙、そうしたものも含めて捉えています。

この見方は、写真という表現ととても相性がいいです。写真は音を出しません。でも、見る人に強く何かを伝えることがあります。怒っている顔、安心している背中、少し離れた親子の距離、走り出す子どもの体。そうしたものは、音がなくても十分に意味を持ちます。齋藤さんが写真家として特別なのは、音のない世界から写真を見つめるのではなく、世界そのものがすでに豊かなことばで満ちていると信じている点です。

また、齋藤さんは日本手話について、単に手を動かすものではなく、表情や視線などの非手指動作もふくめて意味をつくるものだと語っています。これはとても重要です。聞こえる人は、ことばを口から出る音として考えやすいですが、手話では身体そのものが文法の一部になります。顔つき、間、動き、空間の取り方までが意味をつくる。すると、「ことばを広げる」とは、身体の表現までことばとして受け取ることにもつながります。

この考え方が広がると、ろう者の話だけにとどまりません。たとえば、泣きそうな顔を見て「つらいのかな」と気づくこと、言葉にできない緊張を空気から感じること、何も言わなくても隣にいることで支えになること。こうした経験は、聞こえる人にもあります。つまり齋藤さんの挑戦は、ろう文化の理解を深めるだけでなく、私たち自身がふだん見落としているコミュニケーションの広さを思い出させてくれるのです。

写真展までの道のり 齋藤陽道の世界観

齋藤さんの世界観を知るには、作品の背景を見ることが欠かせません。2025年に紹介された写真展「神話7年目 —— 人間が始まる」では、「7つまでは神のうち」という言葉をもとに、7歳までの子どもたちを、世界と対等にふるまう存在として撮り続けたシリーズが集大成を迎えました。2011年の東日本大震災と福島第一原発事故をきっかけに、失われかねない自然への感覚や、長い時間への抵抗として写真を考えたことが説明されています。

ここでも、齋藤さんの関心は単なる家族写真ではありません。子ども、自然、時間、希望、喪失といった大きなテーマを、生活の近くから見つめています。しかもそれを、難しい理屈だけで押し切るのではなく、身体の近さや目の高さで撮る。だから作品が「わからない現代アート」になりにくく、見る人が自分の生活に引き寄せて受け止めやすいのです。写真展までの日々が注目されるのは、完成品だけでなく、何をどう見つめ続けたかが作品の中身そのものだからです。

さらに齋藤さんの活動は、写真だけで閉じていません。文章、対談、エッセイ、まんが、そして講演など、表現の形を横に広げながら、ずっと同じ問いを深めています。それは、異なる人どうしがどう出会うかという問いです。『異なり記念日』をめぐる対談でも、「異なることがうれしい」という言葉が紹介されています。これはきれいごとではなく、同じになれないからこそ、相手を理解しようとする関係が生まれる、という考え方です。

つまり、写真展までの道のりで見えてくるのは、成功したアーティストの華やかな歩みではありません。むしろ、伝わらなさ、ずれ、孤独、でもそれでもつながりたいという願いを、何年もかけて作品にしてきた過程です。そこに多くの人が引かれるのは、写真の技術だけでなく、作品の奥にある生き方が見えるからです。

ろう者の視点から見るコミュニケーションの本質

齋藤さんのテーマを深く理解するには、ろう者の視点を個人の感動話として消費しないことが大切です。全日本ろうあ連盟は、手話言語を独自の文法体系をもつ対等な言語だと説明し、日本では2011年改正の障害者基本法で「言語(手話を含む。)」と明記されたとしています。その後、日本は2014年に障害者権利条約を批准し、手話を言語として尊重する流れが強まりました。これは、手話が「かわいそうな人への配慮」ではなく、言語権の問題だということを示しています。

また、ろう児の言語権をめぐる国際的な考え方では、早い時期から手話言語と多言語使用に触れることが、将来の社会参加にとってよい準備になるとされています。これは、「手話か音声か、どちらか一方だけでいい」という発想とは違います。大事なのは、その子やその家族にとって、安心して育つことのできることばの環境があるかどうかです。齋藤さんの家族の葛藤は、まさにこの問題を日常の中で引き受けている姿として読むことができます。

ここから見えてくるコミュニケーションの本質は、意外なほどシンプルです。相手に合わせて一方的に変えさせることではなく、どうすればお互いが生きやすい形で出会えるかを考え続けることです。聞こえる人の社会では、話せること、すぐ返事できること、同じルールで会話できることが重視されがちです。でも実際には、だれだって、すぐ言葉にできない気持ちがあります。沈黙もあるし、表情で伝わることもあるし、言い直してやっと届くこともある。その意味で、ろう者の視点は特別なのではなく、人間のコミュニケーションの本当の姿を見えやすくしてくれる視点なのです。

だから、齋藤陽道という存在が注目されるのは、写真がすごいからだけでも、ろう者だからだけでもありません。ことばの外に追いやられてきたものを、ことばの中へ連れ戻しているからです。手話、まなざし、沈黙、子どものしぐさ、親子のずれ、異なりそのもの。そうしたものを「ここにもことばがある」と示してくれるから、多くの人が自分の生き方まで重ねて考えたくなるのです。これはろう文化の理解を深める記事であると同時に、私たちは相手とどう生きるのかを考える記事でもあります。


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