H3ロケット宇宙への激闘〜革命エンジンに挑んだ技術者たち〜
2025年5月3日、NHK総合『新プロジェクトX〜挑戦者たち〜』では、「H3ロケット宇宙への激闘〜革命エンジンに挑んだ技術者たち〜」が放送されました。宇宙開発の未来をかけた日本の挑戦、世界初の燃焼方式に挑む技術者たちの執念、そして数々の失敗と成功の物語が描かれました。ロケットが担うのはGPSや災害監視、そして未来の宇宙インフラです。この番組では、H3ロケットの打ち上げ成功までの約10年間の苦闘に迫りました。
遅れて始まった日本のロケット開発
日本のロケット開発は、他の宇宙大国に比べてかなり遅れてスタートしました。戦後、日本は「平和利用」という原則を掲げ、軍事目的ではなく科学技術の発展のためにロケット開発を進めてきました。その第一歩は、小型ロケットによる実験的な打ち上げから始まり、やがて人工衛星を運ぶ本格的なロケット開発へとつながっていきます。
・日本がロケット開発に乗り出したのは今から約70年前
・はじめは糸川英夫らが中心となり、紙と鉛筆だけで設計を行っていた
・初期は世界のロケット技術から大きく遅れており、実験レベルにとどまっていた
その後、JAXAの前身である宇宙開発事業団などの取り組みにより、1980年代から90年代にかけて技術が急速に進歩し、1994年にはついに純国産のH2ロケットの打ち上げに成功します。これは日本の技術者にとって大きな達成でした。H2ロケットは高性能で、国際的にも評価される設計でしたが、問題もありました。
・H2ロケットの打ち上げコストは1回あたりおよそ100億円
・海外の商業ロケットは50億円以下という価格帯も多く、コスト面で太刀打ちできなかった
・運用中にも故障があり、信頼性を再構築する必要があった
こうした背景の中、日本はより信頼性が高く、コストを抑えた次世代ロケットの開発を模索し始めます。国際市場ではアメリカのスペースXが急速に勢力を拡大し、ファルコン9による打ち上げで一気にコストを下げ、商業市場を席巻していました。このままでは日本が置いていかれる危機感が広がります。
・スペースXは打ち上げ価格を約半分の50億円程度にまで引き下げ
・ファルコン9はH2Aロケットと同等以上の性能を持ち、しかも再使用も視野に入れていた
・日本は国際的な衛星打ち上げ市場から淘汰される危険性があった
この状況に危機感を抱いた日本政府とJAXAは、新たな国家プロジェクトとしてH3ロケットの開発を決定します。開発が始まったのは2013年。性能と安全性はそのままに、コストは半分に抑えるという極めて高い目標が掲げられました。プロジェクトマネージャーに選ばれたのは、過去にNASAへも派遣された実績を持つ岡田匡史さんでした。
・H3ロケットは「高性能・低コスト・短期間打ち上げ」を目指す国家プロジェクト
・開発スタートは2013年、目標打ち上げは2020年度
・JAXAを中心に、三菱重工業やIHIなど150社以上の日本企業が結集
このように、H3ロケットの開発は、日本の宇宙技術が国際市場で生き残るために、避けて通れない挑戦でした。遅れて始まった日本のロケット開発は、ここで大きな転機を迎えることになったのです。
岡田匡史の原点と覚悟
H3ロケット開発の指揮をとった岡田匡史さんには、少年時代からの強い原点がありました。彼が宇宙を志すきっかけとなったのは、1969年のアポロ11号の打ち上げです。人類が初めて月に降り立ったその瞬間、テレビの映像に夢中になった岡田少年は、「自分もいつかロケットを作る人になりたい」と心に決めたのです。
高校を経て、東京大学航空学科へ進学。しかし、そこで思いもよらぬ試練が訪れます。ハンググライダーの事故で大けがを負い、長期間の入院生活を余儀なくされました。このリハビリ期間中に出会ったのが、看護主任の柳井操さんです。彼女の励ましに支えられ、再び歩けるようになった岡田さんは、この経験を「命をもう一度与えられた」と受け止め、ロケット開発に生きる決意を固めました。
・アポロ11号との出会いが人生を変えた
・事故による入院とリハビリが覚悟を強くした
・再出発を見守った看護師との絆が心の支えに
退院後、宇宙開発事業団(現在のJAXA)に入社。やがて、NASAへの派遣も経験します。岡田さんの派遣の背景には、日本の宇宙開発に対する危機感がありました。特にH2ロケットではエンジンの不具合が複数回発生し、信頼を失っていたのです。
・H2ロケットは5号機・8号機で相次いで故障
・国民の信頼も揺らぎ、運用はわずか5年で終了
・組織は「技術力の再構築」が急務と判断
アメリカでマネジメントを学んだ岡田さんは、技術だけでなくチーム全体を見渡す力を身につけます。開発とは単に物を作ることではなく、「人を動かし、力を結集させること」だと実感したのです。
2013年、新型ロケットH3のプロジェクトが始動すると、岡田さんはその初代プロジェクトマネージャーに指名されました。彼が目指したのは、これまでのロケット開発とは違う、新しい開発のあり方でした。
・「性能×コスト」の両立を実現するロケット
・従来の複雑な設計を見直し、構造をシンプルに
・安全性を高めながらも予算と納期を守る体制を整備
ここで鍵となったのが、「エキスパンダーブリードサイクル」という革新的な燃焼方式です。燃料を加熱して膨張させ、その力でタービンを動かすこの方式は、安全性が高く、構造が比較的簡素なため、大幅なコスト削減が期待されていました。
そして、この方式を採用して生まれたのが、LE-9エンジンです。しかし、それは同時に、これまでのロケット技術を根底から覆すほどの挑戦でもありました。前例のない設計に加え、未知の問題が次々と発生し、H3開発は過酷な試練の連続となるのです。
岡田さんの信念はただ一つ。「ロケットは、絶対にあきらめずに仕上げるもの」。少年時代に抱いた夢と、事故を乗り越えた覚悟が、どんな困難にも負けない原動力となっていました。
革命エンジン「LE-9」と振動問題
H3ロケットの心臓部とも言えるLE-9エンジンは、これまでのロケットエンジンとは大きく異なる、革新的な設計が採用されました。「エキスパンダーブリードサイクル」という方式を用い、燃料を2段階に分けて燃焼させることで、高効率かつ高出力を実現しようというものでした。この方式は安全性とコスト削減を両立させる理想的な設計とされていましたが、実際の開発は困難の連続でした。
もっとも大きな課題となったのが、タービン部分での振動問題でした。エンジンが作動するとタービンは非常に高速で回転しますが、その振動が制御不能なほど大きくなり、深刻なトラブルを引き起こしていたのです。
・タービンの羽根に微細な亀裂が発生し、最悪の場合は破損につながる
・金属疲労が進み、試験のたびに構造に異常が見つかる状態
・複雑な振動モードが重なり、原因の特定が非常に難しい問題だった
当初は設計通りに動くはずだったエンジンも、実際の試験で予想外の振動が発生。開発チームは、スパコンを使ったシミュレーションや試作品の再設計を何度も繰り返し、原因の特定と対策に奔走しました。
三菱重工ではエンジン本体の改良が進められ、IHIではターボポンプ部分の構造強化が実施されました。JAXAはこれらの調整を統括し、試験データを詳細に分析。現場では燃焼試験のたびに新たな不具合が浮かび上がるという、まさに終わりの見えない戦いが続いていました。
・設計変更は10回以上に及び、それぞれに新素材や製造法が導入された
・振動の発生パターンは複数あり、一つを解決しても別の振動が現れる難しさ
・59回もの燃焼試験が実施され、そのたびに微調整を繰り返した
開発メンバーの中には、経験豊富な技術者も多く参加していましたが、今回の問題は世界中の文献や先例を探しても、答えが見つからない領域だったのです。試験の記録は膨大で、1つの燃焼試験だけでも数千項目のデータを確認する必要がありました。
その中でもチームの士気を保ち、前を向き続けたのは、「どんな問題でも必ず解決できる」という信念でした。設計陣、解析チーム、試験担当、製造現場がそれぞれの役割を全うし、ひとつひとつの振動の原因を丁寧につぶしていく姿勢が最終的に成果をもたらします。
このLE-9エンジンの振動問題は、単なる機械トラブルではなく、人の技術と想いが試される試練でもありました。数え切れない失敗と修正を経て、LE-9はようやく完成形に近づいていったのです。
試行錯誤の末にたどりついた「4本の矢」
LE-9エンジンの開発は、想定以上に過酷なものでした。最大の難所であったタービンの振動問題は、改良を重ねても完全には解決できず、関係者たちはついに「このままでは打ち上げに間に合わないかもしれない」という限界に直面します。そこで登場したのが、黒須明英・田村貴史・本村泰一らが導き出した**「4本の矢」**という最後の戦略でした。
この「4本の矢」とは、文字どおり4つの異なる対策案を立て、リスクを分散しながら成功への糸口を探るという作戦です。これまでの試行錯誤の集大成とも言えるもので、それぞれ次のような特徴がありました。
・0の矢:現行モデルに最小限の改良を加えた案。時間がない中で最も実現性が高いが、振動抑制の効果は限定的
・1の矢:本命とされた改良案。現実的かつ振動の抑制に期待がかかる中庸的な戦略
・2の矢:設計を大きく変更する案で、リスクは高いが抜本的解決が期待できる
・3の矢:2の矢とは異なる方向からの設計変更案で、いずれも開発には数カ月〜1年以上かかる大規模な見直しが必要
すでにプロジェクトには限られた時間しか残されておらず、2の矢や3の矢にかける余裕はありませんでした。現場では、0と1の矢に望みを託しながらも、それぞれに工夫を凝らしたハイブリッド案を生み出す努力が進められました。
・工場では無理なスケジュールでの設計変更依頼が出され、現場は騒然
・設計者たちは「これが最後の試験になるかもしれない」との覚悟で臨んだ
・試験に向けてわずかな数値の調整まで繰り返され、緊張が高まっていた
そして迎えた59回目の燃焼試験。この試験では、0と1の矢をもとに新たな工夫を盛り込んだ改良案が実施されました。結果は、開発チームが待ち望んだ「安定した燃焼」。ついに、これまで幾度も失敗してきた燃焼試験で振動を抑えた状態を維持しながらの成功が確認されたのです。
この成功は、単に試験がうまくいったというだけでなく、H3ロケットの打ち上げに向けた実質的なゴーサインを意味するものでした。これによって、機体とエンジンを結合した最終段階へと移行することが可能となり、数年来にわたる苦闘に一筋の光が差し込みます。
「4本の矢」は、最後の賭けであり、技術者たちの執念の結晶でした。選択肢を絞るのではなく、あらゆる可能性を同時に追い、確実な成果をつかみ取るという判断力と行動力が、H3ロケットの未来を切り拓いたのです。
初号機の失敗と再挑戦
2023年3月7日、日本が誇る次世代ロケット・H3初号機は、世界中が注目する中で発射の瞬間を迎えました。打ち上げ直後の上昇、1段目の燃焼、分離など、すべてが順調に進んでいるように見えました。しかし、最後の重要な工程である第2エンジンの着火が行われず、人工衛星の軌道投入に失敗するという結果に終わってしまいました。
この出来事は、プロジェクトに関わるすべての技術者にとって大きな衝撃でした。特にプロジェクトマネージャーである岡田匡史さんにとっては、何年にもわたる努力と仲間たちとの挑戦が一瞬で霧散したかのような重みがあったといえます。
そんな岡田さんを支えたのは、かつて入院時に自らを支えてくれた看護師・柳井操さんからの心のこもったメッセージでした。40年前のリハビリ中、絶望の中で励まし続けてくれた人物からの再びのエール。そして、全国の人々からも手紙や寄せ書き、応援の言葉が届きました。岡田さんはそのすべてに自筆で返事を書き、再挑戦に向けての覚悟を固めていきました。
技術チームもすぐに再検証を開始しました。失敗の原因はすぐには特定されませんでしたが、徹底した検証と試験の繰り返しが進められました。問題の核心は、点火装置に潜んでいた極めて特殊な条件でのみ発生する不具合であることがわかってきました。
・点火器が高温・高圧・低酸素など特異な条件で反応を起こさない可能性
・試験室では再現が難しく、1000回以上の検証試験が必要だった
・些細な構造や材質の違いが、実機と試験装置で異なる挙動を生む難しさ
それでも開発陣はあきらめませんでした。新たに16回の追加燃焼試験を実施し、点火装置の材質、配置、制御プログラムまですべてを見直しました。それはまさに、一つのパーツに対してここまで徹底して取り組むのかというほどの緻密な作業の連続でした。
その間にも、失われた衛星「だいち3号」の開発関係者が、「お役に立てれば」と調査協力に名乗り出てくれました。失敗を責めるのではなく、次の成功のために共に立ち上がるという姿勢が、プロジェクト全体に新たな力を与えたのです。
そしてついに、再挑戦の日がやってきます。2024年2月17日、H3ロケット2号機は打ち上げに成功し、人工衛星の軌道投入も完全に達成されました。この成功は、技術的な進歩だけでなく、人々の心がひとつになった成果でもありました。
失敗を恐れず、正面から向き合い、知恵と根気で課題を乗り越えたチームの姿勢は、今後の宇宙開発においても大きな教訓となるはずです。打ち上げ成功という結果は、あの挫折があったからこそ生まれた真の勝利でした。
ついに打ち上げ成功!日本の誇りH3ロケット
2024年2月、日本の宇宙開発にとって歴史的な瞬間が訪れました。H3ロケット2号機の打ち上げがついに成功し、軌道への投入も見事に完了。初号機の失敗を乗り越えた再挑戦は、技術者たちの執念と努力が結実した瞬間でした。この成功をもって、H3ロケットはすでに4機連続での打ち上げ成功を記録し、今や世界の商業衛星市場でも注目される存在となっています。
この快挙の背景には、10年以上にわたる開発の苦闘と、関係者一人ひとりの想いがありました。プロジェクトの中心に立ち続けた岡田匡史さんは、2号機の打ち上げ成功を見届け、プロジェクトマネージャーの役目を終えることを決意します。その後、彼はかつて命を救ってくれた看護師たちと再会し、成功の喜びを静かに報告しました。40年前、事故による長期入院を支えてくれた人々の存在が、今の自分をつくっているという思いは深く刻まれていました。
また、メインエンジン「LE-9」を開発した黒須明英さんも、この成功の重みをかみしめていました。彼が今も大切にしているのは、開発中にある子どもから届いた応援の手紙です。その一通の言葉が、数々の困難に立ち向かう力を与えてくれたのです。黒須さんにとって、それは技術者としての誇りと同時に、人と人のつながりを象徴する宝物でした。
さらに、ターボポンプ開発を担った本村泰一さんは、指導してくれた恩師・水野勉さんのお墓の前で、打ち上げ成功の報告動画を再生したといいます。水野さんの遺志を引き継いだ本村さんの報告は、技術の伝承とともに、師弟の深い絆を物語っています。
H3ロケットの成功は、単なる技術成果ではありません。それは、日本の宇宙開発がいかにして困難を乗り越え、人々の夢と努力が結びついて一つの結果を生み出せるかを示した物語です。
・開発期間は10年以上、150社以上の協力による総力戦
・新技術への挑戦と失敗の克服を繰り返す中で培ったチームワーク
・一人ひとりの情熱と覚悟が支えた打ち上げ成功
このプロジェクトを通じて、日本の宇宙産業は次のステージへと進みました。今後、H3ロケットは商業衛星の打ち上げや地球観測、災害対応、通信網の構築などさまざまな分野での活躍が期待されています。
そして何より、この10年にわたる記録は、技術者たちの魂の物語として、多くの人に勇気と希望を与えました。H3ロケットの成功は、日本の誇りであり、未来への大きな一歩なのです。
この物語は、一つのロケットにすべてをかけた人たちの挑戦です。日本の誇り「H3ロケット」は、技術の結晶であり、人間の絆と信念が生んだ奇跡でもあります。今後の活躍にも注目です。放送を見逃した方も、ぜひ再放送やNHKオンデマンドでご覧ください。
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