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NHK【映像の世紀バタフライエフェクト】ヒロシマ 世界を動かした2人の少女|核廃絶の原点となった希望の物語とは?(2025年6月2日放送)

ドキュメント

ヒロシマ 世界を動かした2人の少女

2025年6月2日に放送された『映像の世紀バタフライエフェクト』では、原爆投下後の広島を舞台に、世界を動かした2人の少女、佐々木禎子さんとサーロー節子さん(旧姓:中村節子)の歩みに焦点が当てられました。原爆がもたらした過酷な現実を乗り越え、核廃絶と平和への願いを世界に届けた2人の軌跡は、多くの視聴者の心を打つ内容となっていました。

原爆投下直後の広島と2人の少女の運命

1945年8月6日午前8時15分、広島市上空で人類史上初めての原子爆弾が投下されました。爆心地からおよそ1.6キロの距離にあった自宅で、佐々木禎子さんは当時2歳。母と一緒に暮らしており、突然の爆風と熱線に包まれた広島の中で、奇跡的に命を取り留めました。爆発直後、街は一瞬で壊滅し、人々が焼けただれながら逃げ惑うなか、佐々木家も太田川沿いに避難を始めました。

・周囲は炎と瓦礫に覆われ、空は灰色の雲で閉ざされていた
・避難の途中、放射性物質を含む「黒い雨」が降り注ぎ、全身を濡らしました
・この雨には大量の放射線が含まれており、後に多くの健康被害を引き起こす原因となります

その後、禎子さんは目立った病気もなく成長し、小学校にも元気に通っていたと言われています。しかし、体内に取り込まれた放射性物質の影響は、数年後に静かに、しかし確実に彼女の体をむしばんでいくことになります。

一方、中村節子さん(のちのサーロー節子さん)は、爆心地に近い広島駅周辺にある陸軍施設で働いていました。当時、彼女は暗号解読の作業を手伝うなど、戦争の最前線での任務に関わっていたと言われています。爆風と熱線に襲われた施設では、仲間や家族を含む多くの人が命を落としました。

・原爆により、家や職場、そして親族も失った
・焼け跡に立ち尽くしながら、死者の中から家族を探す日々を送った
・自らも被爆し、放射線の影響を体に受けながら生きることになった

戦後、節子さんは広島での生活を続けましたが、被爆者としての苦難は続きました。特に若い女性にとってケロイド(やけどの痕)は深刻な社会的障壁となり、結婚や就職の際に強い偏見を受けることがありました。

・被爆者であることを隠さなければならない風潮
・ケロイドのある女性は「不幸を呼ぶ」などと偏見の目で見られた
・差別を恐れて、傷跡を隠すために夏でも長袖を着続けた女性も多かった

こうした中で、2人の少女はそれぞれの運命を背負いながら生き抜き、後に世界へ向けて平和のメッセージを発信する存在へと成長していきます。原爆がもたらしたのは、単なる一瞬の爆発ではなく、長い時間をかけて人々の体と心に傷を刻む恐怖だったことが、この2人の体験から深く伝わってきます。

被爆女性への支援と海外渡航の歩み

原爆投下後の広島では、ケロイドに苦しむ若い女性たちが大きな社会的な壁に直面していました。深いやけどの痕は、見た目の問題だけではなく、就職や結婚の機会をも奪われるなど、生活そのものを制限する大きな障害となっていたのです。そうした状況に心を痛めたのが、広島流川教会の牧師・谷本清でした。

1955年、谷本牧師は25人の被爆女性たちをアメリカに連れていく計画を立ち上げました。この活動は「原爆乙女」としても知られるようになり、アメリカ国内の医療施設で形成外科手術を受ける機会を提供する取り組みでした。

・25人の中には10代後半から20代前半の女性たちが含まれていた
・女性たちは当時としては長期にわたる海外渡航に挑み、治療とともに自分たちの被爆体験を伝える使命も背負った
・旅費や医療費は、アメリカ国内のキリスト教会や市民の寄付で賄われた

この活動に関わる中で、中村節子さん(後のサーロー節子さん)は、広島での支援活動を通じて、カナダ人のジム・サーローと出会います。ジム氏は当時、広島の教会を通じてボランティア活動を行っており、二人は共に被爆者支援の現場で協力し合うなかで親交を深めました。その後、二人は結婚し、カナダ・トロントへと移住しました。

・トロントではカナダ人としての生活を築く一方で、日本の被爆者としての記憶を語り続けた
・現地では学校や市民団体などで講演を行い、原爆の実態を伝える活動を継続
・「沈黙してはいけない」という思いが、彼女を国際的な平和活動家へと導いた

トロントに移っても、節子さんの思いは変わりませんでした。広島で見た惨状、家族を失った悲しみ、そして命を取り留めた者としての責任。彼女はその一つひとつの記憶を語り続けることで、核兵器廃絶の必要性を世界に訴える存在へと成長していったのです。それは、一人の女性の体験が、国境を越えて人々の意識を変える力になり得ることを証明する歩みでした。

禎子さんの白血病と千羽鶴の願い

原爆投下から数年後、佐々木禎子さんの体に異変が起き始めました。被爆から9年が経った11歳の冬、彼女は突然、首のリンパ節が腫れ、高熱が続くようになります。検査の結果、診断されたのは急性リンパ性白血病でした。原爆の放射線の影響によって、体の奥深くに蓄積されたダメージが、静かに発病したのです

すぐに禎子さんは広島赤十字・原爆病院に入院することになりました。そこでは多くの被爆者が、同じように放射線による病と闘っていたといいます。

・治療は輸血と薬が中心で、痛みや倦怠感との戦いが続いた
・家族や友人が見舞いに訪れ、病室での支えとなった
・日々の生活は制限され、ベッドの上で過ごす時間が長くなっていった

そんなある日、病室に名古屋の高校生たちから贈られた千羽鶴が届きます。「元気になりますように」と込められた思いに心を打たれた禎子さんは、自らも折り鶴を折ることを始めました。小さな手で一羽、また一羽と、鶴を折り続けながら、生きたいという強い願いを込めていきました。

・「千羽折れば願いが叶う」と信じて、折り紙を集めて折り続けた
・病状が悪化しても鶴を折る手を止めることはなかった
・折られた鶴の数は、最終的に1000羽を超えたという説や、亡くなるまでに届かなかったという説もある

8か月にわたる苦しい入院生活の末、禎子さんは静かに息を引き取りました。1955年10月のことでした。その死は家族や学校の友人、地域の人々に大きな衝撃を与えました。

禎子さんの死をきっかけに、原爆による健康被害の深刻さが徐々に語られるようになります。そしてその思いをさらに世界に広めたのが、ドイツのジャーナリスト・ロベルト・ユンクでした。彼は被爆者への取材を重ね、原爆の実態と人間の苦しみを綴った書籍『灰墟の光』を出版しました。

・原爆の非人道性と長期的被害を克明に記録
・禎子さんの物語を含め、多くの被爆者の声を世界に届けた
・この本は各国に翻訳され、国際的な核兵器反対運動にも影響を与えた

一人の少女が病室で折った折り鶴は、やがて世界に平和の象徴として羽ばたいていくことになります。そして禎子さんの願いは、現在も広島の地で、そして世界中の人々の心の中で生き続けています。

世界への発信と平和への願いの広がり

被爆の記憶を語り継ぎ、核兵器廃絶の思いを世界に届ける活動は、広島の人々だけでなく、海外の支援者たちの手によっても広がっていきました。その先頭に立った一人が、アメリカの平和活動家・バーバラ・レイノルズです。

バーバラは1950年代後半から、広島に移住して被爆者の声に耳を傾け続けた人物であり、言葉だけでなく行動を伴った支援を行いました。1960年代には、複数の被爆者と共に「世界平和巡礼」と呼ばれる旅に出発し、各国で核兵器廃絶を訴える署名活動を実施しました。

・訪れた国はアメリカ、イギリス、ドイツ、ソ連など多岐にわたる
・巡礼の途中で各国の市民団体や政府関係者とも対話を重ねた
・各地の学校や集会所で被爆者自らが体験を語る機会を設けた

この活動の中で、1964年にはハリー・S・トルーマン元大統領の孫であるクリフトン・トルーマン・ダニエルとの面会も実現します。原爆投下を決断した大統領の家族と、被爆者が直接対話をするという歴史的な出来事は、世界中に衝撃と希望のメッセージを届けました。

一方、平和の象徴として世界に知られるようになったのが、佐々木禎子さんの千羽鶴の物語です。このエピソードは、アメリカの児童文学作家エレノア・コアによって『サダコと千羽鶴』として書籍化されました。

・この本は英語で出版され、その後各国語に翻訳されて世界中に広まった
・多くの学校で平和学習の教材として採用され、子どもたちに核兵器の恐ろしさと平和の大切さを伝える役割を果たした
・日本国内だけでなく、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、アジアなどでも長く読み継がれている

こうして千羽鶴は「平和の象徴」として、世界各地の学校や平和記念式典、追悼イベントなどで折られるようになりました。色とりどりの折り紙に込められた祈りが、時代や国境を越えて、核なき世界への願いを伝えているのです。被爆体験を世界に届けようと行動した人々の努力は、今も静かに、しかし確実に未来へと引き継がれています。

2人が築いた未来への道筋

原爆の悲劇から長い年月が経った今でも、サーロー節子さんと佐々木禎子さんの思いは、世界の平和活動の中で確かな道筋となって生き続けています

1982年、アメリカ・ニューヨークで行われた史上最大規模の核廃絶デモには、サーロー節子さん自身も参加しました。世界中から集まった約100万人の市民が「核兵器のない未来を」と声を上げるなか、節子さんは被爆者としての体験を直接語り、行進に加わる姿を見せました。

・デモには被爆者、学生、宗教関係者など多くの立場の人々が参加
・ニューヨークの街を埋め尽くすような行進が行われた
・節子さんは「被爆者の証言は行動の原点」として登壇やスピーチも行った

そして2012年、広島の平和記念式典にハリー・S・トルーマン元大統領の孫・クリフトン・トルーマン・ダニエル氏が初めて参列しました。原爆投下を決断した大統領の血縁者が、被爆地の式典に正式に参加したことは、歴史的な和解と平和への大きな一歩として世界中で注目されました。

さらに2017年、サーロー節子さんは85歳にして国連本部を訪れ、核兵器禁止条約の採択の瞬間に立ち会いました。この条約は、初めて核兵器の使用や開発を全面的に禁止する国際法であり、節子さんの長年の活動が世界を動かした象徴的な出来事となりました。

・採択後、国連の場でサーローさんが涙を流しながら語ったスピーチは、多くの人の心を動かした
・「私は被爆者としてこの日を待ち続けてきた」という言葉がニュースで世界に報道された
・同年、核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)がノーベル平和賞を受賞し、節子さんは代表団と共に授賞式に参加

一方、佐々木禎子さんの願いも、時代と共に多くの人に引き継がれています。禎子さんの小学校時代の友人である川野登美子さんは、禎子さんが亡くなった後も、その生き方や祈りを子どもたちに語り続けています

・講演活動や学校訪問を通じて禎子さんの物語を伝えている
・「禎子は病気と闘いながらも、人を思いやる優しい心を持ち続けていた」と語る
・被爆二世・三世の世代にも、その思いを継承する動きが広がっている

2人の少女が残したものは「平和のために語り続け、行動し続けることの大切さ」です。その姿勢は、今も広島の地から、そして世界各国の平和を願う人々の心の中で灯となって輝き続けています。彼女たちの歩んだ道は、単なる記憶ではなく、未来に希望をつなぐ生きたメッセージなのです。

平和への祈りを未来へ

今回の番組は、一人ひとりの行動が世界を変える力になることを改めて伝える内容でした。2人の少女が辿った人生は、広島という町が抱えた過去と、それを乗り越えて平和を願う人々の姿を、私たちに静かに、しかし確かに教えてくれます。千羽鶴の折り紙に込められた想いが、今もなお、世界の子どもたちや大人たちの心に息づいていることが実感できる放送でした。

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