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NHK【歴史探偵】父・信玄を超えようとした若き名将 武田勝頼の「第二次高天神城攻防戦」なぜ援軍を送れなかったのか|2025年11月5日★

歴史探偵

若き名将・武田勝頼――父を超えられなかった男の真実

戦国の名将として名高い武田信玄。その跡を継いだのが、四男でありながら家督を継ぐことになった武田勝頼です。2025年の今年は『長篠の戦い』からちょうど450年という節目。NHK「歴史探偵」では、信玄亡き後に家を背負った勝頼の生涯を、最新研究と現地検証を交えて掘り下げます。
父を超えようとあがいた若き当主は、なぜ悲劇の結末を迎えたのか。その生涯は、戦国時代の光と影を映す鏡のようです。

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「嫡男ではない跡継ぎ」――生まれながらの矛盾

勝頼は、信玄の側室の子として生まれました。正妻の子である武田義信が本来の後継者でしたが、義信は信玄との確執の末に自害。家中のバランスを保つため、急きょ勝頼が跡を継ぐこととなったのです。
しかし、信玄の死後に家督を継いだ勝頼を待っていたのは、信玄時代の老臣たちの視線でした。彼らは「信玄公のようにはいかぬ」と内心で感じつつも、若き当主を支えなければならないという板挟みの状態にあったのです。
勝頼自身も、自分が“正統な後継者ではない”という出自を強く意識していました。彼の決断の多くは、この「父に劣らぬ武功を立てたい」という焦りと、「自分こそが正統であると証明したい」という決意から生まれたと考えられています。

父を超える戦果――高天神城攻略

父・信玄が攻めあぐねた難攻不落の高天神城(静岡県掛川市)。この城は、遠江国を支配するうえでの要衝であり、戦略的にも象徴的な存在でした。1574年(天正2年)、勝頼はこの高天神城を包囲し、壮絶な攻防の末に落城させます。
城主小笠原長忠が降伏し、城は武田の支配下に。これにより武田家の勢力は一時的に遠江全域へと拡大します。信玄が果たせなかった「高天神の制圧」を成し遂げた勝頼は、家中にその名を響かせ、「父を超えた」と称えられました。
しかしその一方で、この勝利は“重い勝利”でもありました。城の維持には多大な兵糧と金が必要であり、補給線は長く、遠征軍を支えるための負担が膨れ上がりました。武田家の財政はこの頃から徐々に限界を迎え、後の戦局に影響を与えることになります。

長篠の戦い――名将の野心と破滅の岐路

1575年(天正3年)5月。勝頼は三河国長篠城を攻めました。織田・徳川連合に対しても怯まず、攻勢を仕掛けた勝頼。これは信玄時代から続く「西進政策」を継承するものでもありました。
しかし、連合軍はすでに鉄砲を大量配備し、守りを固めていました。約3,000挺ともいわれる鉄砲の三段撃ちが武田軍を壊滅へと追い込みます。名将山県昌景内藤昌豊といった重臣が討ち死にし、兵力は半減。勝頼は命からがら脱出します。
この戦いは、日本戦史の中でも屈指の転換点となりました。信玄の時代に誇った騎馬軍団の威光が完全に崩れ、武田軍は「敗北の象徴」として語られるようになります。

絶望の中の決断――長篠後の脱出行

敗北後の撤退戦は壮絶を極めました。追撃する織田・徳川軍をかわしながら、勝頼は信州方面へと退きます。
しかしこの敗走は、家中の信頼を大きく揺るがせました。かつての家臣たちは「なぜ決戦を選んだのか」「なぜ援軍を送らなかったのか」と勝頼を批判。戦死者の遺族が領地返還を求めるなど、家中の統制は乱れます。
それでも勝頼は諦めず、再起を図りました。彼の中には、「父ならばこの程度で挫けなかったはずだ」という思いが強くあったのです。

第二次高天神城攻防戦――援軍を送れなかった理由

長篠の敗北後、武田家は再び守勢に立たされます。1580年〜1581年(天正8〜9年)、再び高天神城が織田・徳川連合軍に包囲されました。
このとき、城を守る武田方の将岡部元信は、勝頼に援軍を求めました。だが勝頼は動けませんでした。すでに兵力は減り、財政も限界。さらに東方では北条氏政の動きもあり、軽挙妄動すれば後背を突かれる恐れもありました。
結果として高天神城は落城し、守将たちは全員が討ち死に。武田家の威信は地に堕ちました。この決断は「勝頼の冷酷さ」として批判される一方、「戦略的にはやむを得ない判断」とする研究者の見方もあります。いずれにせよ、ここで武田家は完全に衰退の道を歩み始めます。

甲州征伐――若き名将の最期

1582年(天正10年)。織田信長徳川家康は甲斐へ侵攻。これが『甲州征伐』です。
圧倒的な兵力差の前に、武田家の家臣団は次々と離反。小山田信茂までもが裏切り、勝頼は孤立無援となります。
最期の地となったのは天目山(山梨県甲州市)。勝頼は妻子とともに自刃し、武田家は滅亡しました。享年38歳。父・信玄が築いた“最強の武田軍団”は、わずか10年で消滅したのです。

最新研究が描く「もう一人の勝頼像」

近年の研究では、勝頼を単なる“敗者”と見る見方は改められつつあります。
平山優教授らの分析によれば、勝頼は合理的な判断を下した現実主義者でもありました。武田家の存続のため、外交・婚姻・城郭整備などを通じて必死に再建を試みていたのです。
また、彼が築いた新府城(山梨県韮崎市)は、当時の最新技術を取り入れた堅城であり、信玄の遺訓「人は城、人は堀」を継ぐ形でもありました。敗北を重ねてもなお、彼の中には「もう一度武田を立て直す」という意志が確かに息づいていたのです。

番組での見どころ

NHK「歴史探偵」では、司会の佐藤二朗片山千恵子アナが、実際の長篠古戦場や高天神城跡を訪問。最新の考古学調査や発掘成果をもとに、武田勝頼の“真の決断”に迫ります。
出演する歴史学者平山優氏は、「信玄を超えようとした若き名将」「時代の波に呑まれた悲劇のリーダー」として勝頼を新たな視点で紹介。鉄砲戦術の実像や、脱出ルートに関する最新の仮説も明かされる予定です。

放送後に追記予定の内容

放送後には、番組で公開された現地映像、発掘資料、高天神城跡の最新測量データなどを追記し、武田家滅亡のプロセスをさらに詳しく解説する予定です。また、平山氏のコメントや佐藤二朗の現地リポート内容も後日加筆予定です。

まとめ

この記事のポイントは次の3つです。
武田勝頼は“父を超える”という使命を背負った後継者だった。
・『高天神城攻略』の成功と『長篠の戦い』の敗北が、彼の栄光と悲劇を象徴している。
・『第二次高天神城攻防戦』での援軍不派遣が、武田家滅亡の引き金となった。

信玄を超えるために挑み続けた勝頼。彼の人生は、戦国の覇者たちが背負った「時代の重さ」を映し出しています。450年を経た今、敗者として語られてきた男の生き様に、新しい評価が生まれようとしています。

(※放送後、現地調査・発掘成果の新情報を追記予定)


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