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NHK【大追跡グローバルヒストリー】幕末イギリス密航!謎のサムライチームを追う|1月6日放送

ドキュメント

幕末イギリス密航!謎のサムライチームを追う

今回の『大追跡グローバルヒストリー』では、幕末の日本からイギリスへ密航した「謎のサムライチーム」の知られざる冒険に迫ります。ロンドン大学に残された学籍簿を手がかりに、命がけの挑戦と新たな国づくりに挑んだ若きサムライたちの真実を追います。壮大なスケールで描かれる歴史ミステリーは、驚きと感動に満ちた物語となっています。放送後、さらに詳しい情報が入り次第、この記事も随時更新予定です。

密航のきっかけは薩英戦争だった

幕末の日本では、外国への渡航は禁じられており、発覚すれば死罪という重い罰が待っていました。そんな中、1865年から66年にかけて、ロンドン大学に14人の日本人学生が名前を偽って登録されていました。「アサクラ」「ウエノ」「マツムラ」などの名前が残されており、彼らは薩摩藩の若者たちでした。彼らは「薩摩スチューデント」と呼ばれ、命をかけてイギリスに密航していたのです。

この大胆な計画の背景には、1863年に起こった薩英戦争がありました。薩摩藩はイギリス艦隊に大敗を喫し、その和平交渉の場で、逆にイギリスに学びたいと秘密裏に留学を申し出たのです。薩摩藩の指導者たちは、敗北を単なる恥とせず、敵からでも学び取ろうとする精神を持っていたのです。この決断が、後に日本の近代化に大きな影響を与えることになりました。

サムライたちのイギリスでの生活とミッション

若きサムライたちは、2か月もの過酷な船旅を経てイギリスに到着しました。彼らが目にしたのは、産業革命の真っただ中にあるイギリスの光景。鉄道が張り巡らされ、工業都市が次々と発展していく姿は、江戸時代の日本とはまったく異なるものでした。

1865年10月、彼らはロンドン大学に入学します。しかし全員が学生生活を送っていたわけではありませんでした。リーダーである新納久脩は、スコットランド・グラスゴーにある造船会社で秘密裏に軍艦の設計図を入手するという重大な任務を帯びていました。これは、薩摩藩が近代化する上で欠かせない極秘ミッションだったのです。

また、生活の中ではちょっとした交流もありました。クイズコーナーでは「SATSUMAとは何でしょう?」という問題が出され、正解は温州みかん。薩英戦争の和平交渉の際に薩摩藩がイギリスに贈ったことがきっかけで、イギリス国内に広まったと紹介されました。

薩摩と長州、犬猿の仲を超えて結ばれた友情

この時期、イギリスには薩摩藩だけでなく、長州藩からも若者たちが留学していました。「長州ファイブ」と呼ばれるグループで、井上勝、井上馨、伊藤博文、山尾庸三、遠藤謹助といった、後の日本を支える重要人物たちが名を連ねています。

本来なら犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩。しかし、異国の地ロンドンでは、彼らは運命的な出会いを果たします。薩摩スチューデントたちのもとに長州ファイブが訪れ、5時間にわたって語り合ったという記録が畠山義成の日記に残されています。さらに、困窮する長州藩の山尾庸三を支援するために、薩摩の若者たちが生活費から1人1ポンドずつ寄付したエピソードも紹介されました。

この友情は後に、国内で結ばれる薩長同盟の原型となり、日本の歴史を動かす大きな力となりました。海外での出会いが、やがて一国の未来を変える原動力になったのです。

また、ロンドン大学で彼らを支えたのがアレキサンダー・ウィリアムソン教授でした。ウィリアムソン教授は、日本人学生のために特別授業を開いたり、自宅に宿泊させたりと、惜しみない支援を続けました。彼が教えていたのは分析化学であり、サムライたちは世界最先端の科学技術を直接学ぶことができたのです。

最年少のサムライ・長沢鼎の挑戦と成功

薩摩スチューデントの中で最年少だったのが長沢鼎、わずか13歳でした。大学に入れない年齢だったため、スコットランドのアバディーンにある中学校に通いました。町の図書館には、当時の成績優秀者として長沢の名前が地理・ラテン語・英文法でトップに記録されていました。

しかし、1867年、薩摩藩が幕府との戦いに備えるため、留学生への仕送りが途絶えてしまいます。留学2年目にして資金援助を失った長沢たちは、生きるためにアメリカへ渡ることを決意しました。アメリカでは農園で働きながら学び続け、次第にワイン造りに夢中になっていきます。

長沢は、ぶどうの病気フィロキセラから木を守るための接ぎ木技術を開発し、カリフォルニアワインの品質向上に大きく貢献しました。1882年、30歳になった長沢はワイン販売会社を設立。アメリカ国内だけでなく海外にも販売網を広げ、ついには「ワイン王」と呼ばれる存在にまで成長したのです。

長沢は82歳で亡くなりますが、その功績は高く評価され、半世紀後、アメリカ大統領ロナルド・レーガンが来日した際にも紹介されました。長沢のワイン造りへの情熱は、現在のカリフォルニアワイン産業の礎となっています。

サンタローザにあった長沢のワイナリー跡地は、2017年の山火事で大きな被害を受けましたが、奇跡的に長沢が愛用していた日本刀だけは焼け残り、子孫の手によって今も大切に守られています。

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