「極北ラジオ 樺太・豊原放送局」
2025年8月31日にNHK総合で放送された北海道スペシャル「極北ラジオ 樺太・豊原放送局」は、かつて日本の領土だった樺太(サハリン南部)に存在したラジオ局の歴史を掘り下げた番組です。この記事にたどり着いた方の多くは「なぜ樺太にラジオ局が設立されたのか」「どんな放送をしていたのか」「終戦でどうなったのか」を知りたいのではないでしょうか。番組では、ラジオ局の誕生からソ連による接収、そして職員たちの数奇な運命までを資料や証言でたどりました。本記事では、その内容を整理し、背景も含めて詳しく紹介します。
樺太の歴史と放送局設立の背景
樺太は19世紀以降、ロシアと日本の間で国境線が何度も引き直されてきました。南樺太が日本領となったのは日露戦争後のポーツマス条約(1905年)。その後、内地(本州や北海道)からの移住が進み、1940年には人口約40万人にまで増加しました。
当時の樺太では新聞が唯一の情報源でしたが、戦争が近づく中で政府は国民への情報統制を強めていきます。その中心となったのがラジオ放送です。政府は「国論の統一」と「戦意高揚」を目的に放送網を拡大し、日本放送協会(NHK)が急ピッチで新局設立を進めました。その一環として作られたのが、南樺太の州都・豊原(現在のユジノサハリンスク)に建てられた豊原放送局でした。
開局と住民に親しまれた放送
豊原放送局は、駅から約2km離れた公園の一角に建設されました。建物は演奏室や応接室を備え、当時としては最新鋭の放送施設でした。職員は25名程度で、ほとんどが北海道からの配属者でした。
1941年12月8日、太平洋戦争開戦のニュースが豊原でも伝えられ、局は慌ただしい船出を迎えます。そのわずか18日後に正式開局し、式典も行われました。放送内容はニュースに限らず、音楽・落語・ドラマなどの娯楽番組も充実。電波を通じて島民に親しまれ、「都会と同じ文化が楽しめる」と喜ばれました。戦争の影がまだ薄かったこの時期、ラジオは生活を彩る大切な存在でした。
戦況悪化と放送の変質
しかし、戦況が悪化するにつれ、放送内容は徐々に変化します。日々のニュースは大本営発表ばかりとなり、戦果を強調する報道が増えていきました。1944年には新入局員の多くが女性となり、人員不足の中でも放送を続けていました。
一方、政府内では敗戦の兆しを感じ始め、天皇制維持を目的にソ連を仲介とした和平工作が模索されていました。南樺太を譲渡する案も検討されていたといいます。ところが1945年2月、ヤルタ会談でソ連が対日参戦を決定。日本の和平工作は失敗に終わりました。
ソ連侵攻と玉音放送
1945年8月8日、ソ連は中立条約を破棄して宣戦布告。樺太にも攻撃が始まり、住民は不安の中で暮らしました。豊原放送局の職員たちは、警報や空襲情報を繰り返し放送し続けました。
そして8月15日、昭和天皇による玉音放送が全国に流れ、日本の敗戦が伝えられました。樺太でも敗戦を受け、子どもや女性を中心とした疎開が始まりましたが、移動中にソ連軍の攻撃を受けて犠牲になる事例も多発しました。
占領と放送局の接収
終戦後も日本軍は「樺太死守」の命令で戦闘を続行し、結果として約5000人の犠牲者が出たとされています。1945年8月23日、ソ連軍の戦車隊が豊原市内に突入し、放送局も接収されました。職員らは拘束され、放送局はソ連軍の管理下に置かれます。
最後の放送はソ連の命令で行われた「駅前にラジオを持参せよ」という呼びかけでした。これは住民の情報を完全に掌握するためのものでした。局長の松山清は、占領の様子を克明に記録に残しています。
職員たちの戦後
戦後の南樺太には約30万人の日本人が残されました。住居不足からソ連移民との強制的な同居が始まり、生活は困窮します。日本兵はシベリア抑留へ送られ、住民も労働を課せられました。
局長の松山は権力者とみなされて引き揚げを許されず、長く抑留生活を送りました。一方、アナウンサーの石坂幸子は帰国せず、ハバロフスクで日本向けの対敵放送を担当。捕虜からの手紙を読み上げる任務に就きました。1949年に帰国できましたが、米国当局からスパイ容疑で厳しい尋問を受けました。その後は製紙会社に勤務し、1982年に病没しました。
豊原放送局の消滅とその後
1951年、日本はサンフランシスコ平和条約で南樺太の権利を全面放棄。豊原放送局はソ連のラジオ局として利用されましたが、その後は放置され廃墟となっています。局員が再び集うこともなく、当時の建物は風雪にさらされ続けています。現在もユジノサハリンスクに跡地は残るものの、かつての活気を知る人は少なくなりました。
まとめ:ラジオ局が語る戦争の記憶
北海道スペシャル「極北ラジオ 樺太・豊原放送局」は、戦時下の情報統制と、戦争が人々の生活と運命をどう変えたのかを示す貴重なドキュメントでした。豊原放送局は単なる地方局ではなく、戦争と政治に翻弄された象徴的な存在です。
国策放送の舞台となった建物、ソ連侵攻での混乱、そして局員一人ひとりの運命。これらは今を生きる私たちに、平和と情報の自由の大切さを強く訴えかけています。
この記事を読んで興味を持った方は、NHK放送博物館や関連史料を訪ねると、さらに深い歴史を知ることができます。
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