京都を変えた男・角倉了以の挑戦 商人が動かした“水の都”の物語
あなたは「人生の後半で、まったく新しい挑戦をしたい」と思ったことはありませんか?でも実際には、年齢や環境を理由に一歩を踏み出せない人が多いものです。そんな中、江戸時代の初めに角倉了以(すみのくら りょうい)という男は、50代から信じられないような挑戦をしました。生まれながらの大金持ち、いわゆる“ボンボン”だった彼が、ある日「人のために生きたい」と決心。自分の財産をすべて投じ、川を開き、町を変え、京都の歴史そのものを動かしたのです。この記事では、彼がなぜその大仕事を思い立ち、どのようにして不可能を可能にしたのか――時代背景からその知恵、現代に通じる学びまでをたっぷり紹介します。
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大金持ちの家に生まれながら、贅沢より「世の中の役に立つ道」へ
角倉了以は1554年、京都・嵯峨の裕福な商家に生まれました。本姓は吉田家。家業は医業とともに土倉業(質屋や金融業)で、町人層の中でも特に財力があり、京の町では“京の三長者”と呼ばれるほどでした。子どものころから何不自由なく育ち、学問や文化にも恵まれた環境にいました。若いころは海外貿易にも関心を持ち、朱印船の商いに参加。安南(今のベトナム)やシャム(今のタイ)との交易で巨万の富を築き上げ、財力も人脈も手に入れました。
しかし、そんな彼にある時から心の変化が訪れます。「金を増やすだけの人生でいいのか?」「この富を誰かのために使うことはできないのか?」。50代に差しかかった了以は、自らの力で世の中をよくする決意を固めます。そして「人の役に立つ事業をしたい」という思いが、のちに京都の姿を変える一大プロジェクトへと発展していくのです。
最初の大事業「保津川開削」――暴れ川を舟が通る川へ
当時の京都では、丹波地方(現在の亀岡)で産出される木材や米、炭などを都へ運ぶのはたいへん困難でした。山あいを流れる保津川(大堰川)は岩が多く、流れが速い“暴れ川”で、人々は川の利用をあきらめていました。
しかし了以は、そこに大きな可能性を見つけます。「この川を船が通れるようにすれば、丹波からの物資が安全に京まで届く。人々の暮らしも商いも変わる」――その壮大な構想のもと、彼は私財を投じて川の改修に乗り出しました。
工事は険しい山あいでの難作業。岩を砕き、川底を整え、流れを変えるという危険と隣り合わせの作業でした。了以は現場に何度も足を運び、職人たちと寝食を共にしながら作業を進めたといわれています。現代のような重機はなく、すべて人力。失敗すれば莫大な損失を抱えるリスクがありましたが、了以は「自分がやらなければ誰もやらない」と信念を貫きました。
数年の歳月をかけ、ついに保津川舟運が開通。木材、薪、米、酒、紙などの物資が船で大量に運ばれるようになり、京都の商業に大きな変化をもたらしました。山の恵みが京の町に届くその川は、のちに“物流の命綱”と呼ばれます。今では観光名物「保津川下り」としてその流れが受け継がれ、了以の功績を今に伝えています。
第二の偉業「高瀬川開削」――町の中を舟が行き交う夢の水路
保津川を成功させた了以は、そこで満足しませんでした。次に目を向けたのは、京都と伏見を結ぶ物流のルートです。当時、都の中心から大阪方面に物資を運ぶには陸路しかなく、馬車や人力による輸送は非効率。時間も人手もかかるため、商人たちは頭を抱えていました。
そんな中、了以は「都の中に舟が通る川をつくる」という壮大な発想をします。それが、高瀬川の開削でした。場所は現在の木屋町通り付近。鴨川と平行する形で新しい水路を掘り、京の中心部から伏見港までをつなぐという構想です。
しかし、ここでも壁が立ちはだかります。川沿いに住む町人たちは「自分たちの土地が削られる」「水害が起きる」と猛反発。工事は容易に進みませんでした。了以は人々の家を一軒ずつ訪ね、誠実に説明し、工事後の暮らしの利点を説いて回りました。その粘り強い説得が功を奏し、やがて地域の理解が広がります。
1614年、高瀬川がついに完成。細長い舟「高瀬舟」が町をゆったりと進み、木材、米、酒、反物などあらゆる物資が京の町を行き交いました。舟運によって物価が安定し、商人の活動範囲も広がり、京都の経済は新しい時代を迎えたのです。この高瀬川は、その後大正時代まで京都の物流の大動脈として活躍し続けました。
一介の商人が国家レベルの事業を成し遂げた理由
では、なぜ角倉了以のような一商人が、政府でも不可能と思われた事業を成功させられたのでしょうか?その理由は3つの力に集約されます。
① 商人としての圧倒的な資本力と仕組みづくり
彼は自分の資産を惜しみなく投じただけでなく、「通行料」という仕組みを考案しました。川を利用する舟から一定の料金を取り、それを維持費や再投資に回すという、いまの公共インフラ事業の先駆けともいえる発想です。
② 現場主義と人を動かすリーダーシップ
多くの資産家が人任せにする中で、了以は自ら現場に立ち、職人たちと苦労を分かち合いました。その姿が人々の信頼を呼び、「この人のために働こう」と思わせたのです。実際、彼の指示には無駄がなく、地形・水流・土質まで理解していたと伝えられます。
③ 時代の変化を読む先見性
江戸幕府の成立後、京都は政治の中心から商業都市へと変化しつつありました。了以はこの流れを見抜き、物流の整備こそが町を支える鍵になると考えました。幕府からも信頼され、官と民の橋渡し役としての立場を築いたのも成功の理由のひとつです。
了以の事業がもたらした京都の未来
角倉了以が掘った川は、単に物を運ぶための水路ではありませんでした。
それは、人と人、地域と地域をつなぐ「命の流れ」だったのです。
保津川の整備によって山の産物が都に届き、高瀬川によって町の中を舟が走るようになり、京都は“水の都”へと変貌しました。町に活気が生まれ、人々の暮らしが潤い、文化も発展。特に木屋町通りは商人や旅人が集う繁華街として賑わい、料亭や宿、酒蔵が次々に誕生しました。今でもその面影を残しています。
現代に生きる“角倉了以の教え”
角倉了以の生き方は、単なる歴史上の偉人の話ではありません。
彼の行動には、現代のビジネスや地域づくりにも通じる普遍的な知恵が詰まっています。
・「できない」と言われたことに挑む勇気
・利益よりも“誰かの役に立つ”ことを最優先にする発想
・人を動かすには、まず自分が汗をかく姿を見せること
・持続可能な仕組みを設計し、社会に還元する仕掛けづくり
角倉了以が50代で挑戦したように、私たちもいくつになっても新しいことに挑めます。大切なのは、時代や環境に流されず、「自分が信じること」を貫く勇気です。
記事のまとめ
・角倉了以は京都の豪商でありながら、川の開削という前例のない公共事業を自ら成し遂げた
・保津川と高瀬川の整備により、京都は物流と経済の中心都市へと発展した
・現場で働く姿勢と、時代を読む力、そして人を動かす誠意が成功のカギだった
・彼の思想は、今のまちづくりや社会起業にも通じる普遍的な理念である
50代から人生を変えた男・角倉了以。
その生き方は、「遅すぎる挑戦などない」という言葉を体現しています。
彼が掘った川の流れは、今も京都の町の中で静かに語りかけています――「志は時代を超えて流れるのだ」と。
番組の内容と異なる場合があります。
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