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江戸城 なぜ残った?皇居東御苑と天守台の関係を解説 一般公開とGHQから読み解く壊されなかった理由

歴史
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皇居東御苑と江戸城が残った本当の理由

東京の中心にある皇居東御苑には、かつての江戸城の姿が今も残っています。天守はないのに、なぜここまでしっかりと遺構が残っているのでしょうか。その答えは「城の強さ」ではなく、明治以降の使われ方にありました。『ブラタモリ 皇居東御苑▼皇居のおかげで江戸城は守られた!?その秘密に迫る(2026年4月11日)』でも取り上げられ注目されています。

・皇居東御苑に江戸城の面影が残る理由
・江戸城が壊されなかった意外な背景
・天守台や本丸跡が現存する本当の理由
・昭和43年の一般公開が持つ意味
・GHQと戦後史から見る皇居の役割

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皇居東御苑とはどんな場所?江戸城の面影が残る理由

東京のど真ん中にある皇居東御苑は、ただの大きな公園ではありません。ここは、もともと江戸城の本丸・二の丸・三の丸の一部だった場所です。今でも天守台本丸跡二の丸庭園百人番所などが残っていて、歩くだけで「ここが昔の城の中心だったんだ」と感じられる特別な空間になっています。皇居東御苑は、昭和35年の閣議決定を受けて整備が進められ、昭和36年に工事が始まり、昭和43年9月に完成し、同年10月1日から一般公開されました。つまり、いま私たちが見ている景色は、江戸時代そのままではなく、歴史の跡を残しながら、現代に向けて整え直された姿でもあるのです。

このテーマが注目されるのは、江戸城が「完全な復元城」ではないからです。天守そのものはもうありませんが、土台や地形や門の跡が本物のまま残っている。これは、お城好きの人だけでなく、東京の歴史を知りたい人にもとても大きな意味があります。派手に建て直された観光地ではなく、使われ方が変わりながらも、場所そのものが生き残ってきた。そこに、皇居東御苑ならではの価値があります。

今回のテーマは『ブラタモリ 皇居東御苑▼皇居のおかげで江戸城は守られた!?その秘密に迫る』でも取り上げられますが、ここで大事なのは、城が残った理由を「戦国時代の強さ」ではなく「近代以降の使われ方」から考えることです。そこが、この話をぐっと面白くしています。

なぜ江戸城は壊されなかった?皇居との意外な関係

ふつう、巨大なお城の跡地は、時代が変わると壊されたり、町や道路や役所に変わったりしやすいです。実際、日本の多くの城は明治以降に取り壊されたり、石垣や建物が別の場所へ運ばれたりしました。けれども江戸城の中心部は、明治になると皇城、のちの皇居として使われるようになりました。そのため、ここは「ただの空き地」ではなく、国の中でもとても特別な場所として扱われ続けたのです。明治6年には皇城が焼失しましたが、その後、明治15年に皇居造営事務局が置かれ、明治宮殿の建設が進められました。つまり、江戸城跡は捨てられたのではなく、新しい時代の中枢空間として再利用されたわけです。

ここがとても大事なところです。もし江戸城跡がまったく別の用途になっていたら、大規模な宅地化や道路整備で地形が大きく変わっていた可能性があります。けれども皇居になったことで、広い範囲が長くまとまって管理されました。立ち入りが限られた時代も長かったため、逆に言えば、無秩序に削られたり埋められたりしにくかったのです。これは少し不思議ですが、閉ざされていた時間が、結果として歴史の地面や遺構を守ることにつながりました。皇居東側はのちに附属庭園として整備されるまで、住まいや倉庫、作業所、馬場など実用施設が点在する場所でしたが、それでも城の中心地としての輪郭は大きく保たれていました。

つまり、**「皇居ができたから江戸城が消えた」のではなく、「皇居ができたから江戸城の芯の部分が残った」**という見方ができるのです。この逆転した関係が、多くの人にとって新鮮で、「えっ、そういうことだったの?」と感じるポイントになっています。

天守台が今も残る理由と明治以降の使われ方

江戸城でとくに目を引くのが、巨大な石垣の土台である天守台です。いま見ると「なぜ天守を再建しなかったのだろう」と思う人も多いですが、逆にいえば、天守を無理に建て直さなかったからこそ、本物の土台がそのまま歴史を語ってくれています。しかも、この天守台のまわりは、明治以降に完全な廃墟になっていたわけではありません。たとえば、本丸天守台の東側には昭和2年に宮内省図書寮庁舎が完成し、その後は書陵部の業務にも引き継がれました。つまり、この一帯は「昔の城跡」であると同時に、近代の皇室関連施設が置かれる現役の場所でもあったのです。

さらに、開園前の写真記録を見ると、天守台の近くには官舎があり、ほかの場所にも倉庫作業所などがありました。これを見ると、江戸城跡は「歴史遺産だからそのまま保存された」というより、皇居の一部として使われ続けた結果、大きく作り変えられずに残ったことが分かります。使われていたからこそ、逆に全面的な再開発の対象にならなかったのです。ここがとても面白いところです。ふつうは「使われる」と古いものが消えそうですが、この場所では「特別な用途で使われる」ことが保存につながりました。

また、二の丸庭園も、江戸時代のまま完全に残っていたわけではありません。二の丸には御殿や庭園があった時期もありましたが、火災で焼失し、明治以降は荒廃していました。現在の回遊庭園は、昭和43年の公開にあたり、18世紀半ばごろの絵図を参考に整えられたものです。つまり、ここでは遺構の保存歴史を感じさせる再整備が重なっています。何も手を入れない保存でもなければ、全部作り物でもない。その中間にあるからこそ、皇居東御苑は学ぶ価値が高いのです。

昭和43年の一般公開がもたらした大きな転機

この話の大きなカギが、昭和43年の一般公開です。皇居東御苑は、昭和43年10月1日に公開が始まりました。それ以前の東地区には、内親王方のお住まい、倉庫、作業所、馬場などがあり、いまのように歴史散策の場として広く開かれてはいませんでした。けれども公開に向けて庭園として整備されたことで、江戸城の中心部は「限られた人のための空間」から、「多くの人が歴史を実感できる空間」へと役割を変えたのです。

ここで重要なのは、公開がただのサービスではなかったことです。一般公開されると、人々はそこを「見てよい場所」「知るべき場所」として意識するようになります。すると、天守台や本丸跡や二の丸庭園は、単なる皇居の一角ではなく、東京の歴史を伝える共有財産として見られるようになります。公開とは、扉を開けるだけではありません。価値の見え方を変える出来事でもあるのです。昭和43年の公開は、江戸城跡を「守られていた場所」から「理解される場所」へ変えた大きな転機だったといえます。

このことは、今の観光や歴史教育にもつながっています。入園料不要で入れること、都心の駅から歩いて行けること、季節の植物や池、生き物も見られることによって、皇居東御苑は「歴史好きだけの場所」ではなくなりました。家族連れでも、旅行者でも、学校で習った江戸時代を思い出しながら歩ける。歴史は、教科書の中だけにあるより、実際の地面の上で感じた方がずっとわかりやすいです。そういう意味でも、一般公開はとても大きな意味を持っていました。

GHQとマッカーサー執務室から見る戦後の皇居

番組内容の中でもとくに気になるのが、GHQ本部があったビルに残るマッカーサーの執務室です。これは、江戸城や皇居の話が、ただの「昔の城めぐり」で終わらないことを示しています。太平洋戦争の終結後、日比谷の第一生命館GHQ本部として接収され、約7年にわたって使用されました。のちに接収は1952年7月に解除され、その返還60周年を記念して、保存されていたマッカーサー記念室が一般公開されたこともあります。

ここで考えたいのは、なぜ皇居東御苑の話とGHQがつながるのか、ということです。答えは、皇居や江戸城が「時代の中心」を映す場所だからです。江戸時代には将軍の城、明治以降は皇居、戦後はそのすぐ近くに占領政策の中心が置かれた。場所そのものが、日本の権力の移り変わりを静かに見てきたのです。石垣や庭園を見るだけでは、そこまで気づきにくいかもしれません。けれどもGHQの視点が入ると、この地域が「ただ古い」だけではなく、近代日本の激動が重なった舞台だと見えてきます。

つまり、皇居東御苑を歩くことは、江戸時代だけを見ることではありません。明治の皇居造営、昭和の公開整備、戦後の占領期まで、いろいろな時代が折り重なった地層を読むことでもあります。だからこそこのテーマは、歴史ファンだけでなく、「東京ってどうやって今の形になったの?」と感じる人にも強く刺さります。

ブラタモリが解き明かす「守られた城」の本当の意味

このテーマが多くの人の心をつかむのは、「守る」とは何かを考えさせるからです。城を守ると聞くと、敵から守ることを思い浮かべがちです。でも江戸城がここまで形を残した理由は、戦いに勝ち続けたからではありません。時代が変わるたびに、別の役割を与えられながら場所として生き延びたからです。皇居になったこと、宮内省や宮内庁の施設が置かれたこと、長く管理されたこと、一般公開で価値が見えるようになったこと。その積み重ねが、いまの皇居東御苑につながっています。

比べてみると、この場所の特別さがよく分かります。建物が復元されて目立つ城もありますが、皇居東御苑の魅力は、本物の地形や石垣や配置が持つ説得力です。派手さよりも、静かな重みがある。しかも東京の中心にありながら、広い空や木々、池の風景まで残っていて、都市と歴史が同じ場所に重なっています。これが「ただの史跡」とは違う魅力です。

そして、ここから学べることはとてもシンプルです。歴史的なものは、しまっておくだけでは守れません。かといって、何でも新しくすればいいわけでもありません。どう使い、どう見せ、どう伝えるかで、残り方は大きく変わります。皇居東御苑は、そのお手本のような場所です。江戸城が残ったのは偶然ではなく、明治以降の政治、皇室、都市計画、戦後、公開政策がつながった結果でした。そう考えると、この場所は「昔の城跡」ではなく、日本の歴史が形を変えながら続いてきた証拠そのものだといえます。

だからこそ、このテーマはただの番組ネタで終わりません。皇居東御苑を知ることは、江戸城を知ることでもあり、東京を知ることでもあり、日本がどうやって時代をまたいできたかを知ることでもあります。そう思って見ると、天守台の石の一つひとつまで、ぐっと意味深く見えてきます。


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