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【日本最強の城スペシャル】あなたも絶対行きたくなる!大特集「豊臣兄弟」の城|地下に眠る大阪城と秀長の戦略がわかる回|2026年1月1日

歴史
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豊臣兄弟の城を知ると日本史の見え方が変わる

このページでは『日本最強の城スペシャル(2026年1月1日放送)』の内容を分かりやすくまとめています。
今回の特集は大河ドラマ 豊臣兄弟!と重なる視点で、豊臣秀吉と豊臣秀長という兄弟が、どのように城を築き、国を動かしていったのかを「現存する城跡」から読み解いていく内容でした。
城はただの観光地ではなく、政治、経済、戦、そして人の心までも映す存在です。番組で紹介された城を順にたどることで、豊臣兄弟という存在の大きさと、秀長という人物の役割がはっきり見えてきます。

地下に眠るなにわの夢 大阪城が語る豊臣と徳川

大阪城豊臣秀吉の城として広く知られていますが、私たちが今、目にしている天守や高くそびえる石垣の多くは、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡したあと、徳川将軍家によって築かれたものです。番組ではこの歴史的な前提をしっかり押さえたうえで、「地上の大阪城」とは別に存在する地下に眠る豊臣の城に焦点が当てられていました。

2025年に公開された大阪城 豊臣石垣館では、徳川の時代に積み直された石垣の、さらに下に埋められていた豊臣時代の石垣を、実際に地下空間で見ることができます。石の積み方は荒々しく、自然石を巧みに組み合わせた豊臣らしい造りで、表面には戦火の跡がはっきり残っています。番組では、これらの石垣を大阪夏の陣図屏風と重ねて紹介し、絵の中の戦いが、目の前の石と確かにつながっていることを実感させていました。石垣は単なる構造物ではなく、戦の記憶そのものとして存在していることが伝わってきます。

現在の天守は昭和6年に復興されたものですが、その外観にも時代の違いが反映されています。白く塗られた壁は徳川期の城を意識した姿である一方、黒壁は豊臣時代をイメージした表現とされています。スタジオでは、秀吉時代の天守再現図も紹介され、当時の大阪城がいかに人々の目を圧倒する存在だったのかが具体的に語られました。五層構造で高さは約40メートル、黒漆の板張りに金の装飾が施され、屋根には金箔瓦が使われていたとされます。敵を威圧し、権力を誇示するための「見せる城」であったことが、視覚的にも強く印象づけられました。

さらに番組では、建築の痕跡が大阪城の外にも残っていることが紹介されました。大阪城にかつて存在した極楽橋は、屋根に覆われた特別な橋で、その原型が琵琶湖に浮かぶ竹生島宝厳寺に残る国宝「唐門」であることが明らかになっています。豊臣大阪城の建築が、別の土地で形を変えて受け継がれている事実は、秀吉の城づくりが一代限りではなかったことを物語っています。

また、西の丸庭園周辺には、豊臣秀長が暮らしていたとされる場所も残っています。大阪城は秀吉一人の城ではなく、政権を支えた兄弟二人の拠点でもありました。地下に眠る石垣、豪華な天守の姿、各地に残る建築の名残、そして秀長の存在。これらを重ねて見ていくことで、大阪城が単なる観光名所ではなく、豊臣兄弟の権力と戦略が凝縮された場所であることが、よりはっきりと見えてきます。

秀長の力が積み上がった郡山城の石垣

奈良県大和郡山市にある郡山城は、豊臣秀吉の弟であり、豊臣政権を内側から支え続けた豊臣秀長の居城です。この城でまず目を引くのが、ほかの城とは明らかに雰囲気の違う石垣です。
自然のままの石が積まれる中に、明らかに四角く整えられた石が混じっており、番組ではそれらが墓石などを再利用した転用石であることが紹介されました。城の石垣としては異例ともいえる光景ですが、当時の現実的な城づくりの姿がそのまま残されています。

天守台の石垣には、なんとお地蔵さんまで組み込まれています。これは、城が単なる戦いのための施設ではなく、地域にある石材や信仰の対象まで含めて築かれたことを物語っています。寺や墓地の石を含め、使えるものを無駄にせず集めて城を完成させた姿からは、秀長の合理性と、人々の協力を引き出す力が感じられます。
また、堀に架かる橋の名前が極楽橋である点も印象的です。この名称は大阪城にも共通しており、兄・秀吉の城とのつながり、そして豊臣兄弟の一体感を象徴する存在として紹介されていました。

郡山城の天守は、のちに二条城へ移築されたため、現在は天守台のみが残っています。しかし、その天守台に立つと、眼下には広大な奈良盆地が広がります。この眺めは、秀長がこの地をどのように見渡し、どのように治めようとしていたのかを自然と想像させます。交通や農地、集落を一望できる場所に城を構えた意味が、実際に立つことで実感できます。

番組ではさらに、豊臣秀長の人物像にも触れられていました。秀長の葬儀には20万人もの人々が集まったとされ、それだけ多くの人に慕われていたことが分かります。派手さでは兄の秀吉に及ばないものの、堅実な政治と安定した統治によって信頼を積み重ねてきた人物だったことが、郡山城の石垣一つひとつからも伝わってきます。
荒々しくも実直な石の積み方、転用石やお地蔵さんを含む石垣の姿は、秀長の善政と現実的な城づくりそのものを映し出しているようでした。

山を城として使いこなす出石城と有子山城

兵庫県豊岡市の出石地区を支えてきたのが出石城で、その背後にそびえる山の上に残るのが有子山城跡です。この二つの城は別々の存在に見えますが、番組では一体のものとして紹介され、豊臣の城づくりの考え方を理解する重要な手がかりとして描かれていました。
有子山城はもともと毛利輝元側の城でしたが、織田信長の命を受けた豊臣秀長がこれを攻め落とします。単に奪い取るだけでなく、その後の改造にこそ、秀長の城づくりの本質がありました。

秀長は山の上に本格的な石垣を築き、有子山城を大きく作り替えます。険しい山城でありながら、石垣によって防御力と象徴性を高め、城としての格を一段引き上げました。本丸跡に立つと、眼下には出石の町並みが広がり、城下町全体を見渡すことができます。この視界の広さから、城が単なる避難場所ではなく、町を管理し、支配するための拠点だったことがはっきり分かります。
山の上の有子山城と、麓の出石城が役割を分担しながら機能していたことで、軍事と政治、そして日常の暮らしが密接につながっていました。

番組では、山城は守るためだけの城ではなく、支配を示す存在でもあるという視点が示されていました。山の上にそびえる石垣の城は、遠くからでも目に入り、領主の力を視覚的に伝える役割を果たします。これは敵に対する威圧であると同時に、城下に暮らす人々にとっても「この地を治める者」を実感させる装置でした。
出石城有子山城をセットで見ることで、豊臣流の城づくりが、平地の城だけ、山城だけで完結するものではなく、平地と山を組み合わせた立体的な戦略であったことがよく分かります。秀長は地形そのものを味方につけ、町と城を一体として動かすことで、安定した支配を築いていったのです。

鳥取城と太閤ヶ平に見る包囲戦の知恵

鳥取県鳥取市にある鳥取城は、豊臣秀吉豊臣秀長という兄弟の城攻めを象徴する舞台として紹介されました。この城で特徴的なのは、力任せに正面突破を狙うのではなく、城そのものを丸ごと包み込む戦い方が取られた点です。番組では、この発想こそが豊臣流の城攻めの核心であるとして、鳥取城を例に詳しく描かれていました。

鳥取城の外には、太閤ヶ平と呼ばれる陣地が築かれました。これは単なる本陣ではなく、周囲の高台や要所に配置された陣城ネットワークの一部です。豊臣兄弟は鳥取城を取り囲むように70以上もの陣城を築き、城内の動きを常に監視しました。同時に、城へ入る食料や援軍の道を断ち、兵糧攻めを徹底します。この包囲戦は100日に及ぶ籠城戦となり、最終的に鳥取城は落城しました。
番組では、城を攻めるという行為が、剣や鉄砲だけではなく、土地の使い方や物資の流れを読み切る戦いであることが強調されていました。

スタジオ解説では、鳥取城だけでなく、豊臣家の陣城戦術がどのように進化してきたのかも整理されました。1582年の備中高松城では、城を囲む陣城を築いたうえで堤防を造り、川の水を引き入れる水攻めを実行します。これは戦う前に地形を変えてしまうという、発想の転換を象徴する作戦でした。
さらに1590年の小田原城攻めでは、城を完全に包囲しながら、わずか80日で石垣山城を築き上げます。敵の目の前で巨大な城を完成させることで、軍事力だけでなく心理的な圧力を加え、降伏へと追い込みました。

これらの事例を踏まえると、鳥取城で行われた包囲戦は、偶然の成功ではありません。城を攻めるとは、土木を制し、兵站を制すること。この考え方が、鳥取城では陣城の配置や太閤ヶ平の存在として、はっきり形になっていました。
剣を振るう前に、地形を読み、人と物の流れを止める。鳥取城は、豊臣兄弟の戦略思考が最も分かりやすく表れた城として、番組全体の中でも強い印象を残していました。

和歌山城から広がる豊臣兄弟の城ネットワーク

和歌山城徳川御三家の城として知られていますが、番組で改めて強調されたのは、築城の始まりが1585年の豊臣秀長であるという点でした。城内には現在も、秀長の時代に築かれたとされる石垣西之丸庭園が残っており、後の徳川時代に大きく整えられた城の中に、豊臣の時代が静かに重なっています。天守に上ると、遠くに淡路島を望み、足元には紀の川が流れる景色が広がり、この場所が軍事的にも交通の面でも重要な地点であったことが実感できます。

番組では、和歌山城が単なる居城ではなく、四国攻めの前線基地として機能していた点にも注目していました。瀬戸内海と紀伊水道をにらむ位置にあり、船による移動や物資輸送を考えるうえで欠かせない拠点だったのです。さらに、周辺は良質な木材資源の産地でもあり、城を押さえることは経済基盤を掌握することにも直結していました。この点から、秀長は戦の勝ち負けだけでなく、その後の支配や国の運営まで見据えて城を築いていた人物であることが強調されました。軍事と経済を切り離さずに考える姿勢が、和歌山城の立地そのものに表れているといえます。

番組の後半では、和歌山城だけでなく、豊臣兄弟の城が広い範囲で連動していたことも紹介されました。長浜城琵琶湖の水運を活かすために築かれ、物資と人の流れを掌握する役割を果たしました。姫路城は中国地方への進出を支える重要な拠点となり、軍事行動の中核を担います。山の上に築かれた竹田城跡は、雲海に浮かぶ姿で知られますが、交通の要衝を押さえる戦略的な城でした。
さらに、竹田城から約20キロ先にある生野銀山は、豊臣政権の財源を支えた重要な場所です。銀の産出によって得られた富が、軍事行動や城の築城を可能にしていました。

これらの城と資源を並べて見ると、豊臣の城づくりが単発の計画ではなく、城と城が線で結ばれた巨大なネットワークだったことがはっきり分かります。和歌山城はその中でも、海と山、軍事と経済をつなぐ要となる存在でした。秀長が築いた城を辿っていくと、豊臣政権がどのように国を動かそうとしていたのか、その全体像が自然と浮かび上がってきます。

城から浮かび上がる豊臣秀長という人物

番組の締めくくりでは、城を通して浮かび上がってきた豊臣秀長の人物像が丁寧に重ねられていきました。
語られたのは、究極の人たらしであり、現実を見据えた地に足のついた政治家であり、さらに軍事と経済を同時に考えられる存在だったという評価です。派手さや強烈な個性で知られる兄・豊臣秀吉とは対照的に、秀長は支える側に徹しながらも、政権の土台を確実に固めていった人物として描かれていました。

城は石や土で築かれた構造物ですが、その積み方配置には、築いた人の考え方や価値観がはっきり表れます。秀長の城に共通していたのは、無理のない設計と、土地の特性を活かした造りでした。転用石を使った石垣や、城下町と一体となった配置は、力で押さえつけるのではなく、地域の人々を巻き込みながら力を集める姿勢を感じさせます。城づくりそのものが、秀長の政治のあり方を映しているようでした。

番組で紹介された大阪城、郡山城、有子山城、鳥取城、和歌山城、そして各地の豊臣ゆかりの城々を振り返ると、秀長が関わった城には一貫した考え方が見えてきます。それは、戦うためだけの城ではなく、治め、支え、長く使い続けるための城でした。軍事だけに偏らず、経済や人の動きまで含めて考える姿勢が、城の立地や構造に自然と表れていたのです。

大河ドラマ 豊臣兄弟!を見る前に、あるいは見た後に、今回紹介された城を思い出してみると、兄の陰に隠れがちな弟の存在が、日本史の中でより立体的に感じられるはずです。
城を知ることは、人を知ること。石垣や堀の向こうに、どんな人物がいて、どんな思いで国を動かそうとしていたのか。その想像をかき立ててくれる点にこそ、今回の特集の一番の面白さがありました。

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