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NHK 【歴史探偵】戦国の海を制した九鬼水軍と鉄甲船の真実!伊勢湾の海賊城に迫る|2025年6月4日放送

歴史

海の戦国 九鬼水軍

2025年6月4日放送のNHK総合『歴史探偵』では、戦国時代に伊勢湾を拠点に活躍した九鬼水軍の実態に迫りました。織田信長や豊臣秀吉に仕え、天下統一の過程で重要な役割を果たした彼らの実力と背景が、最新の研究とともに明らかにされました。

九鬼水軍とはどんな存在だったのか?

今回の放送で特集された九鬼水軍は、現在の三重県鳥羽市を拠点に活躍していた戦国時代の武装海軍集団です。彼らはただの漁師集団ではなく、織田信長の天下統一を陰で支えるほどの実力を持つ戦闘集団として歴史に名を残しています。戦国時代、陸での戦いだけでなく、海上での戦いも重要でした。そんな中で、九鬼水軍は高い統率力と技術力を誇り、織田信長や豊臣秀吉といった天下人からも信頼を得ていました。

番組では、鳥羽市にある鳥羽城跡を現地取材。海や川、池が複雑に入り組んだ地形を利用し、敵の侵入をいち早く察知できるようになっていました。そして、城の中心である天守には敵船を迎撃するための大砲が設置されていたと紹介されました。このような設備からも、海上戦への備えがいかに重視されていたかが伝わります。

当時の伊勢湾では、戦闘だけでなく漁業も盛んに行われていました。特に注目されたのが捕鯨です。頭領の九鬼嘉隆は、捕らえた鯨の肉を朝廷に献上していたという記録が残されています。捕鯨の場面では、多くの船が同時に動き、指揮官が岬から声を張り上げて的確に指示を出すという高度な連携が求められていました。

  • 捕鯨には数十隻規模の船団が必要で、連携の精度が結果を左右した

  • 岬に立った指揮官が、海上の状況を見極めて船団に命令を出していた

  • 仕留めた鯨は、地域の誇りとして朝廷に贈るほど貴重な存在だった

このような日常の漁業活動そのものが、戦の訓練のような役割を果たしていたと考えられています。船同士が連携し、瞬時に動きを合わせる能力は、敵との戦闘時にも大いに役立ちました。つまり、九鬼水軍の強さは、日々の生活の中にすでに育まれていたということです。

また、捕鯨だけでなくボラ漁でも同じように船団の連携が必要でした。戦における整然とした動きは、こうした日々の漁によって自然と身についたものだったのです。彼らの戦い方は、偶然の産物ではなく、日々の暮らしの中で積み重ねられた技術と経験によって支えられていました。九鬼水軍は、まさに「漁から生まれた海の戦士」といえる存在だったのです。

長島一向一揆と九鬼水軍の活躍

九鬼水軍がその実力を大きく発揮した戦として知られているのが、織田信長が直面した長島一向一揆の鎮圧戦です。この戦いでは、信長率いる織田軍が一向宗勢力の強固な抵抗に苦しみましたが、九鬼水軍の海上からの支援によって状況が大きく動いたとされています。

九鬼水軍は、ただの武装集団ではなく、日頃の漁業経験で培われた高度な連携能力を持つ、組織力のある戦闘集団でした。河合敦氏の解説によれば、例えばボラ漁では複数の船が一体となって動き、魚の群れを囲みながら漁を行う必要がありました。そのため、各船が正確なタイミングで動き、合図を聞いて即座に反応する体制が日常的にできあがっていたのです。

  • ボラ漁は、数隻の船が編隊を組んで行動するため、即応力と統率力が必須だった

  • 船の動きは指示に従って緻密に連携され、戦場での行動とほぼ同じ構造だった

  • 日々の漁がそのまま戦の訓練にもなっていた

こうした日常の中で磨かれた連携力が、長島一向一揆の戦いでも大きな威力を発揮しました。九鬼水軍は海上から物資の補給路を遮断したり、敵の背後を突いたりといった機動的かつ的確な行動を展開し、信長軍の劣勢を覆す要となったのです。

さらに、九鬼水軍の特筆すべき技術が「鉄甲船(てっこうせん)」の建造能力です。これは船体を鉄板で覆った巨大な戦船で、火矢や大砲に対する耐性を持っていたとされています。現在では史料が散逸しており、詳細は不明な点が多いものの、当時日本にいたポルトガル人の記録には、鉄甲船について「日本で最も大きく、最も華麗な船だった」と記されており、内部には大砲が備えられていたとも書かれています。

  • 鉄甲船は火に強く、敵の攻撃を防ぐ構造を持っていた

  • 船内には大砲が複数搭載され、遠距離からの攻撃も可能だった

  • 外国人からもその構造と見た目が賞賛されるほど先進的だった

このように、九鬼水軍はただ戦うだけの集団ではなく、海の上で戦うための技術と文化を独自に築き上げた存在でした。長島一向一揆という激戦の中で、彼らの力が信長の勝利に直結したことは間違いなく、その後の戦国史における海上戦術の進化にも大きな影響を与えたといえるでしょう。

一向宗との海上戦と鉄甲船の威力

戦国時代の日本で、陸上だけでなく海上でも繰り広げられた壮絶な戦いの一つが、大坂本願寺との戦いでした。この一向宗の拠点は、信仰を背景にした強固な勢力で、信長にとっても手ごわい相手でした。特に本願寺には海路から武器や兵糧が運び込まれていたため、それを断つことが戦況を左右する大きな鍵でした。

信長はこれに対抗するため、海上封鎖を実施しますが、ここで立ちはだかったのが、敵方に加勢した毛利水軍や村上海賊でした。彼らは海戦に長けた集団で、織田軍は苦戦を強いられます。そこで登場するのが、九鬼嘉隆と九鬼水軍です。

信長は、九鬼嘉隆に対し「燃えにくく、打たれ強い鉄の船を造れ」と命じます。これが歴史に名高い「鉄甲船(てっこうせん)」の誕生です。木造が当たり前だった当時の船とは一線を画し、鉄板で船体を覆うという大胆な発想で、火矢や火攻めに対抗できる構造が追求されました。

  • 鉄甲船は外装に鉄板を用いた防火・防弾性能を備えていた

  • 船内には大砲が搭載され、海上からの攻撃力も格段に向上

  • 100人の兵士が搭乗可能で、軍団としての機能を有していた

  • 宣教師の記録では「母国の大船を思わせる」と高評価されていた

この鉄甲船が九鬼水軍の手によって実現されると、戦況は一変。本願寺側は次第に追い詰められ、1580年に信長と和議を結ぶに至り、大坂の地を明け渡すことになりました。海からの補給線が断たれたことが大きな要因であり、九鬼水軍の活躍は勝利の決定打となったのです。

ただし、鉄甲船には動きの鈍さという課題もありました。鉄で覆われた船体は重量がかさみ、俊敏な動きが求められる場面では不利だったと考えられています。そのため、一揆鎮圧という目的を果たしたあとには、これらの鉄甲船は不要とされ解体された可能性があるとも番組内で紹介されました。

九鬼水軍は、単なる兵力ではなく、技術革新によって戦のかたちを変えた集団でもありました。鉄甲船という存在は、まさにその象徴であり、戦国の海戦史における大きな転換点となったのです。

秀吉の時代、そして関ヶ原での運命

九鬼嘉隆は、織田信長の死後に台頭した豊臣秀吉に仕え、かつて海賊と呼ばれた存在から正式な大名へと昇格しました。海で培った武力と統率力、そして船団を扱う技術が評価されたことで、陸の武将たちと並ぶ地位を得たのです。一方で、同じく海を拠点にしていた村上海賊などの勢力は、秀吉の下で海賊行為の取り締まりを受け、次第に瀬戸内海から追い払われていきました

その後、秀吉が朝鮮出兵(文禄・慶長の役)を決断すると、九鬼水軍には大きな任務が課されます。新たな軍船を建造せよという命令です。しかしこれは、想像以上に過酷な命令で、短期間で多数の大型軍船を建てなければならず、水軍としての力量だけでなく、造船に関わる人手や資材の確保など、大きな負担がかかりました。

  • 朝鮮出兵に向けての造船命令は量・規模ともに異例の重さ

  • 短期間での建造が求められ、兵力だけでなく造船能力が問われた

  • 統率力と技術力があった九鬼水軍でさえ、対応に追われる事態だった

ところが、秀吉が病没すると朝鮮での戦争も終息。せっかく作られた軍船は不要となり、次々と解体されることになりました。努力の結果が報われることなく、九鬼水軍にとっては無念な状況だったと考えられます。

やがて1600年、歴史を分ける関ヶ原の戦いが勃発します。ここで九鬼家は分かれる決断を強いられました。父・嘉隆は西軍、息子・守隆は東軍に与し、まさに家族の中で立場が分かれてしまいます。これは生き残りをかけた苦渋の判断だったのでしょう。

  • 嘉隆は西軍に忠義を貫く決意を見せた

  • 守隆は東軍につくことで家の存続を優先した

  • 戦後、西軍敗北の知らせを受けた嘉隆は切腹し、生涯を終えた

この戦いのあと、九鬼家は一応残されるものの、1633年には鳥羽の海沿いの地から内陸部へと領地替えを命じられ、長年拠点とした海から完全に切り離されてしまいます。これにより、かつて日本有数の水軍として恐れられた九鬼水軍は、実質的にその歴史に幕を下ろすこととなったのです。

  • 1633年、九鬼家は内陸地へ移され、海の支配権を失う

  • 分裂した九鬼家はその後、異なる道を歩むことに

  • 水軍としての栄光は過去のものとなったが、その功績は歴史に刻まれた

信長、秀吉という二人の天下人に重用され、海戦の最前線で活躍した九鬼水軍。その最後は静かに海を離れるものでしたが、戦国時代を語るうえで欠かせない存在であったことは、今も多くの史料や伝承から感じ取ることができます。

失われた九鬼水軍の痕跡と今後の研究

スタジオでは河合敦氏が、海上の出来事は地上に比べて記録が残りにくいと指摘。実際に、当時の戦や捕鯨、鉄甲船の詳細については断片的な史料しか残っていません。ただし、近年の研究が進展しており、今後のさらなる発見が期待されています。

戦国の海で活躍した九鬼水軍は、その勇ましさと技術力、そして信長や秀吉の信頼を得た実績において、陸の戦国武将にも勝るとも劣らない存在でした。鳥羽市に残る城跡や文献、そして研究者たちの努力が、今後もその実像に光を当ててくれることでしょう。

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