クスノキとともに−これからの平和の話をしよう−
2025年8月9日に放送されたNHK総合「クスノキとともに−これからの平和の話をしよう−」は、原爆を受けながらも生き延びた長崎の被爆クスノキと、その木に込められた人々の思いを通して、平和の大切さを未来へとつなぐ内容でした。福山雅治さんの楽曲「クスノキ」や、全国に広がる被爆クスノキの苗、平和を考える授業や活動が紹介され、戦争の記憶を継承する人々の姿が描かれました。
被爆クスノキと森田博満さんの歩み
長崎市山王神社の境内に立つ被爆クスノキは、爆心地からわずか800mという至近距離で原子爆弾の爆風と熱線を受けながらも生き延びた木です。1945年8月9日、長崎に投下された原爆はこの周辺一帯を壊滅状態にし、社殿や周囲の建物は跡形もなく焼失しました。クスノキも幹や枝の多くが損傷し、表面は黒く焦げてしまいましたが、奇跡的に枯れることなく、やがて新芽を出しました。
森田さんと仲間の尽力
被爆者である森田博満さん(90歳)は、この木を長年守り続けてきた人物です。幹には治療を受けた痕跡が残っていますが、これは森田さんが仲間と共に資金を集めて行った処置によるものです。樹木医による補修や栄養補給、支柱の設置などが施され、少しずつ木は回復していきました。1996年には山王神社の氏子たちが大規模な資金集めを行い、その努力によってクスノキは再び青々と葉を茂らせるまでになりました。
被爆からの人生と転機
森田さんが被爆したのは10歳の時で、自宅は爆心地から約1.8kmの場所にありました。戦後は家族を支えるために上京しましたが、被爆者であることを理由に都会で差別を受けたといいます。そんな森田さんにとって転機となったのが、この被爆クスノキの存在でした。その生命力に励まされ、38歳で鉄工所を創業。グラバー園や西海橋といった長崎を代表する施設の建設にも関わり、地元に貢献しました。クスノキと歩んだ森田さんの人生は、復興と平和の象徴として今も語り継がれています。
福山雅治さんとクスノキ
長崎市山王神社の被爆クスノキは、長崎出身の福山雅治さんにとって人生の指針となる存在です。2016年、福山さんは山王神社を訪れ、この木への思いを「自分の悩みが小さく思えるほど大きな存在」と語りました。その言葉には、被爆を生き延びた木の力強さと、時を超えて人々を励まし続ける存在感が込められています。
被爆二世としての告白と楽曲誕生
福山さんは自身のラジオ番組で、自らが被爆二世であることを公表しました。この事実はネットニュースとして広く報じられ、多くの人々に影響を与えました。彼が長年温め続けた曲「クスノキ」は、こうした背景と強い思いの中から生まれ、2014年に発表されました。この楽曲は構想から発表までに24年を要し、その深いメッセージは聴く人の心に平和の種を芽吹かせています。
合唱曲への進化と新たな挑戦
2025年春、福山さんは「クスノキ」を新たな形に進化させました。国内外で活躍する著名な演奏家たちと共にストリングスアレンジを加え、合唱曲「クスノキ-500年の風に吹かれて-」として生まれ変わらせたのです。この新たな楽曲には、500年先まで平和の願いを届けたいという強い決意が込められており、多くの人々に新しい感動を与えています。
平和教育に生きる「クスノキ」
福島県郡山市の中学校教諭・星美由紀さんは、福山雅治さんの楽曲「クスノキ」の歌詞を授業の題材にしています。生徒たちが歌詞に込められた意味を考えることで、戦争や平和の問題を自分のこととして受け止めるきっかけを作っているのです。音楽を通じたこの取り組みは、難しい歴史や平和の話をより身近に感じさせ、心に残る学びへとつながっています。
被災と避難生活を経て
星さん自身も、東日本大震災と福島第一原発事故で被災しました。当時、幼い子どもを連れて県外へ避難し、全国8か所を転々とする生活が2年間続きました。慣れない土地での生活や将来への不安の中で出会ったのが「クスノキ」でした。
クスノキから受けた力
星さんは、長崎の人々が被爆クスノキに勇気をもらったように、自分もこの曲に大きく支えられたと感じています。歌詞に込められた強い生命力と希望のメッセージは、避難生活の中でくじけそうになった心を何度も励まし、再び前を向く力を与えてくれたのです。
ソ ヒャンスさんの体験
在日コリアン3世のソ ヒャンスさんは、宝塚市で開かれた平和イベントに出演し、福山雅治さんの「クスノキ」を演奏しました。この演奏は、平和の大切さや歴史への思いを音楽で伝える機会となりました。
朝鮮学校での学びと歴史への関心
ソさんは幼少期から20歳まで朝鮮学校で学び、祖父母や両親から自身のルーツや民族の歴史について多くを学んできました。その背景が、平和や人権について考える視点を育ててきました。
三菱兵器トンネル工場跡の訪問
2024年3月、ソさんは長崎市の三菱兵器トンネル工場跡を訪れました。ここは戦時中、動員学徒約1800人と朝鮮人800〜1000人が働いていた場所です。当時の厳しい労働環境や歴史的背景に触れることで、ソさんは自分のルーツとより深く向き合うきっかけを得ました。この経験は、音楽活動にも新たな意味と使命感を与えるものとなりました。
全国に広がる被爆クスノキ2世
長崎市山王神社では、被爆クスノキの種を採取し、苗木として育てたものを全国各地に送り届けています。被爆を乗り越えて芽吹いた命をつなぐこの活動は、平和の思いを形にする取り組みとして広がっています。
全国に広がる植樹の輪
現在、この被爆クスノキ2世は宮城県から沖縄まで233本が植樹され、各地で根を下ろし成長しています。訪れる人々に被爆の歴史を伝える生きた証人として、地域の象徴的存在になっています。
学校での取り組みと子どもたちの発表
福岡県古賀市では、市内すべての小学校と中学校に被爆クスノキ2世が植えられています。小学校の学習発表会では、この木をテーマにしたオリジナルの平和劇「長崎から未来へ」が披露され、子どもたちが自らの言葉と演技で平和への思いを表現しました。こうした活動は、世代を超えて平和のバトンをつなぐ大切な機会になっています。
平和への歩みと音楽の力
昨年、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞しました。長年にわたり続けてきた被爆者の核兵器廃絶への訴えが、ついに世界的に評価された瞬間でした。この受賞は、平和運動の歴史において大きな節目となり、国内外の多くの人々に勇気と希望を与えました。
福山雅治さんの想いと新たな「クスノキ」
この出来事を受け、福山雅治さんは「平和に対する願いが一歩前進した」と語りました。そして長崎で、5000人を超える人々と共に新たな「クスノキ」を熱唱しました。その歌声には、被爆クスノキが象徴する生命力や復興の思い、そして未来への希望が込められていました。
音楽がつなぐ平和の種
「クスノキ」という曲とその活動は、音楽を通じて人と人をつなぎ、世代や国境を超えて平和の大切さを伝えています。これからもこの歌は、多くの人の心に平和の種をまき続け、芽吹かせていくことでしょう。
番組を見て感じたこと
今回の番組は、一本の木が持つ力と、人の心をつなぐ力を強く感じさせてくれました。原爆の爆風と熱線を受けながらも生き延びた被爆クスノキは、ただの木ではなく、長崎の人々や全国の人々にとって希望と平和の象徴になっていると実感しました。森田博満さんが長年クスノキを守り続けてきた姿は、平和を守るためには継続的な努力と支え合いが必要だということを教えてくれます。
また、福山雅治さんの「クスノキ」という曲が、多くの人の心を動かし、教育現場やイベントで平和について考えるきっかけになっていることに感動しました。特に福島県の中学校で行われている授業や、在日コリアン3世のソ ヒャンスさんが自分のルーツと向き合う姿は、この曲が国や背景を超えて人々をつなげている証だと思いました。
さらに、全国に広がる被爆クスノキ2世の植樹活動も印象的でした。子どもたちが平和劇を披露する姿は、未来へ向けてしっかりとバトンが渡されているように感じられます。一本の木から始まった物語が、音楽や教育、そして人の行動を通して広がっていく様子は、とても希望に満ちていました。見終わった後も心に温かさが残り、平和のために自分にできることを改めて考えさせられる内容でした。
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