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NHK【熱談プレイバック】D51開発者・島秀雄が挑んだ“弾丸列車”と新幹線誕生秘話|2025年4月24日放送

ドキュメント

新幹線誕生!D51から超特急へ|島秀雄・親子二代の夢と決断の軌跡

2025年4月24日、NHK総合で放送された『熱談プレイバック』は、日本が世界に誇る高速鉄道「新幹線」の誕生秘話に迫る特集でした。タイトルは「新幹線誕生!D51から超特急へ!」。語り手は講談師・神田阿久鯉さんで、臨場感あふれる語りと貴重な映像が組み合わさり、まるで物語の中に入り込んだかのような感覚で視聴者を引き込みました。主役は、蒸気機関車D51を生んだ技術者・島秀雄。そして、その父・島安次郎との親子二代にわたる夢が、「超特急」の歴史にどう結びついていったのかが描かれました。戦前から戦後、そして開業の日までの長い道のりは、多くの困難と挑戦に満ちていました。

蒸気機関車D51の設計と技術者・島秀雄の出発点

大正14年、現在のJRグループの前身にあたる鉄道省に入省した島秀雄は、若くして頭角を現します。29歳で蒸気機関車の設計主任に就任し、昭和10年には後に名車と呼ばれるD51形蒸気機関車の設計を担当しました。D51は当時としては高い性能を誇り、最高時速は85キロ。燃焼効率と整備性が優れており、1115両も生産されました。その姿は「デゴイチ」と親しまれ、今なおSLファンに語り継がれる存在です。

当時、日本の経済と輸送は急速に拡大しており、既存の鉄道路線だけでは対応が困難になってきていました。長距離輸送の効率化が急務とされ、新たな高速鉄道の構想が浮上します。それが、のちに「幻の新幹線」とも呼ばれる弾丸列車計画です。

この弾丸列車は、東京から下関までを結ぶ超高速列車で、当時の通常所要時間18時間半を、9時間に短縮することを目指した大規模プロジェクトでした。計画された最高時速は150キロ以上。1930年代としては夢のような構想であり、その計画責任者を務めたのが、島秀雄の父である島安次郎でした。技術者としての理想を追い求めた親子が、それぞれの立場からこの夢に関わっていたのです。

しかし、太平洋戦争の勃発によってこの計画は頓挫します。着工されたトンネルなどのインフラは放置され、構想そのものも中断。親子の夢は一度、静かに幕を閉じることになります。

戦後の混乱と湘南電車の登場、そして悲劇の事故

戦後、昭和23年。焼け野原の中で復興の希望をかけて、鉄道の近代化が進められます。ここで島秀雄が着手したのが、東京〜沼津間の長距離電車運行計画です。従来の蒸気機関車ではなく、電気を動力とする新型の車両を走らせようという構想でした。

こうして誕生したのが、日本初の長距離電車「湘南電車(80系電車)」です。明るいオレンジとグリーンの塗装が特徴で、多くの人々に新しい時代の到来を印象づけました。これにより、島秀雄は電車こそが未来の主役であると確信することになります。

ところがその翌年、痛ましい事故が発生します。修理中だった架線がパンタグラフに絡まり、車内で火災が発生。車両の一部は木製で、火の回りが早かったこともあり、106人もの犠牲者を出す大事故となりました。この湘南電車は、島秀雄が深く関わっていたプロジェクトでした。

この事故を受け、秀雄は車両構造や安全基準の見直しを徹底的に行いましたが、技術者としての責任を強く感じ、国鉄を辞職。長年の鉄道人生に一度、区切りをつけます。

十河信二の登場と、新幹線計画の再始動

事故から4年後、再び島秀雄のもとに転機が訪れます。国鉄の総裁に就任した十河信二から、再登用の打診があったのです。最初、島は固辞します。しかし、十河は諦めません。何度も何度も面会を重ね、秀雄の心に残っていた父との約束と「夢の続き」を呼び覚まします。やがて島秀雄は、再び国鉄に戻ることを決意します。

その頃、すでに東海道線は輸送限界を迎えていました。十河は、東京〜大阪間にまったく新しい路線を通し、世界最速の電車を走らせる構想を進めていました。島秀雄が注目したのは、私鉄との協力で生まれた小田急ロマンスカー・3000形SE車。この車両は当時としては画期的な性能を誇り、国鉄の東海道本線での試験走行では最高時速145キロを記録します。

昭和33年には、島秀雄が開発に関わった特急列車「こだま」が登場し、東京〜大阪間を6時間50分で結びました。「こだま」はその後の新幹線開発に向けたデータ収集を担い、実験では最高時速163キロを記録。すでに新幹線構想は現実の形を帯びはじめていました。

新幹線着工と開業、そしてその裏にあった代償

昭和34年4月20日、戦前の弾丸列車計画で掘削されたままだった新丹那トンネルにて起工式が行われ、ついに新幹線建設がスタートします。島秀雄はこのプロジェクトで、最も大切なものは「スピード」ではなく「安全性」であると強調しました。

しかし、当時の高速鉄道には「蛇行動(だこうどう)」と呼ばれる車両の揺れの課題がありました。これが原因で脱線の危険性があるため、秀雄はかつて海軍で航空機を研究していた松平精に対処を依頼。結果、安定性と安全性を兼ね備えた新型車両が完成し、昭和38年の試験走行では時速256キロという驚異的な速度を記録しました。

そして昭和39年10月1日、ついに東海道新幹線は開業を迎えます。これは日本の鉄道史だけでなく、世界の交通史においても画期的な出来事でした。しかし、その晴れ舞台に島秀雄と十河信二の姿はありませんでした。建設費用が当初予算を大きく上回り、国会で批判を受けた責任を取る形で、2人は辞任していたのです。

まとめ|“夢の超特急”を生んだ信念と犠牲

『熱談プレイバック』で描かれたのは、ただの鉄道開発ではなく、親子二代にわたる情熱と信念のドラマでした。戦前のD51設計から始まり、幻に終わった弾丸列車計画、戦後の湘南電車とその事故、こだまの誕生、そして東海道新幹線の開業。技術的進化の裏には、数々の困難と犠牲があったことが語られました。

安全性とスピードを両立させるために妥協しなかった島秀雄、夢をつないだ父・安次郎、そして信じて支え続けた十河信二――。彼らの存在がなければ、今私たちが当たり前に乗っている新幹線は、まだ夢のままだったかもしれません。

わずか27分間の放送でしたが、その中に詰め込まれた物語は、日本のものづくりと未来への希望そのものでした。視聴後は、新幹線に乗るたびに、彼らの努力と情熱を思い出すことになるでしょう。

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