戦国の築城名人 藤堂高虎の知られざる魅力|2025年6月25日放送
2025年6月25日にNHK総合で放送された「歴史探偵」は、戦国時代を代表する築城の名人・藤堂高虎を特集しました。俳優の佐藤二朗さんとアナウンサーの片山千恵子さん、そして城郭考古学者の千田嘉博さんが、藤堂高虎の築城術やその生き様に迫りました。大河ドラマ「豊臣兄弟!」でも注目される藤堂高虎。その知られざる努力と工夫、そして人々とのつながりを楽しく学べる内容でした。
巨体と頭脳をあわせ持った若き武将、藤堂高虎のスタート
藤堂高虎の人生が大きく動き始めたのは20歳のとき。運命的な出会いをしたのが、豊臣秀吉の実弟であり有能な統治者でもあった豊臣秀長です。当時の高虎は、身長190cm・体重100kg超という恵まれた体格を持ち、周囲の戦国武将たちのなかでも非常に目立つ存在でした。
しかし高虎の魅力はその体格だけではありませんでした。実直な性格と学びへの姿勢をもって、秀長のもとで築城術や兵站(戦争に必要な物資や移動手段の管理)を一から学び、着実に成長していきました。このときに得た知識と経験が、後の名城を築く力となっていきます。
穴太衆から学んだ石垣技術と、赤木城の特徴
高虎が実際に築城を任された最初の代表的な城のひとつが赤木城です。この城の石垣には、滋賀県・近江の石工集団である「穴太衆(あのうしゅう)」が得意とした「野面積み(のづらづみ)」という技法が使われています。
この技法は、自然の石をそのまま利用して積み上げるもので、加工を加えずとも堅牢な構造を実現できるのが特徴です。赤木城の石垣は、断崖を利用し、城に登ろうとする敵を側面から攻撃できるように設計されており、守りの機能もしっかりと考えられていました。
さらに1581年、秀吉軍による鳥取城攻めの際には、大軍を効率よく配置するための土木技術が投入されており、高虎はその現場で最先端の工事と設計を間近で学ぶことができたのです。
築城地名 | 特徴とポイント |
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赤木城 | 野面積みの石垣、断崖地形の活用、側面攻撃に有利な構造 |
鳥取城(攻囲戦) | 土木技術の最前線、包囲戦のための地形改造を体験 |
徳川家康への忠誠と、砂地に築いた今治城のすごさ
秀長とその養子・秀保が相次いで亡くなると、高虎は新たな主君を求め、徳川家康に仕えることを決断します。これは戦国時代の家臣としては特別なことではなく、有能な主君に仕えることで自らの技術や志を生かすのが武士の常識でした。
関ヶ原の戦いでは家康に味方し、勝利の恩賞として与えられたのが、愛媛県の今治の地です。ここで高虎は今治城を築きますが、もともと今治の地は砂地が多く、築城には不向きな土地でした。
しかし高虎は、地盤をしっかり固める技術を取り入れ、13mの高さの石垣を築きあげることに成功します。天守には層塔型を採用し、分解や移築が容易な構造とすることで、戦略的にも優れた城を完成させました。
上野城での挑戦、日本一の高さの石垣づくり
その後、高虎は徳川家からの信頼を背景に、三重県の上野城の大改修も任されます。ここでは、高さ30mという当時の日本一を誇る石垣が完成します。
この城で使われたのは、赤木城などで見られる「野面積み」ではなく、より短時間で大量の石を積み上げることができる新たな技法です。これにより、戦略的な防御性能とともに、施工期間の短縮にも成功しています。
城名 | 特徴 |
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今治城 | 砂地でも強固な地盤、高さ13mの石垣、層塔型天守 |
上野城 | 高さ30mの日本一の石垣、新しい工法での短期施工 |
津城では軍事から経済へ、まちづくりの視点
藤堂高虎が最後に手がけたのが津城(つじょう)です。この城では、単なる軍事的防御だけでなく、人々の暮らしや経済活動を重視した設計がされていました。
たとえば、伊勢神宮へ向かう参拝客が通る「伊勢街道」を城下町の中心に引き込む設計を施し、城下町を活性化させようとしました。参拝者が立ち寄ることで経済が潤い、特産品である伊勢木綿(いせもめん)が観光客のお土産として広まりました。
城名 | 特徴 |
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津城 | 伊勢街道を通して集客、城と城下町を一体化した地域振興の拠点 |
家康が信頼した家臣、藤堂高虎の忠義と実力
千田嘉博さんは番組中で、「戦国時代では主君がすばらしければ仕え、そうでなければ他の道を選ぶのはごく自然なことだった」と語っていました。藤堂高虎もその典型です。秀長亡き後、家康に仕えるようになりますが、家康は最期に「国に一大事が起きたら先陣は藤堂高虎に任せよ」と言い残したほど、その才能と忠誠心を高く評価していました。
城に込められた「国づくり」の意志
番組の締めくくりとして、千田氏は「高虎が築いた城を見ていくと、個人の力で国を動かすのではなく、組織力で秩序をつくり、平和を守ろうとした姿勢が見えてくる」と話しました。そして佐藤二朗さんは、「高虎がたどり着いた最後のテーマは“国づくり”だった」と語りました。
藤堂高虎は、戦のための城ではなく、暮らしや産業、地域社会を支えるための城を築いていたことがよくわかります。その築城術の裏には、人々の未来を見据えた深い思いやりと構想力が込められていたのです。城めぐりをしながら、そんな藤堂高虎の“心の設計図”を感じてみるのも面白いかもしれません。
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