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NHK【歴史探偵】戦国最強の築城術!藤堂高虎×豊臣秀長の絆と城づくり|2025年6月25日

歴史探偵

「戦国の築城名人 藤堂高虎」

2025年6月25日(水)22時からNHK総合で放送予定の『歴史探偵』では、戦国時代から江戸初期にかけて活躍した築城名人・藤堂高虎の特集が組まれます。今回の放送では、石垣の工夫や天守の移動など、戦国の乱世を生き抜いた高虎ならではの工夫が光る築城術に焦点が当てられます。また、2026年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』で主人公となる豊臣秀長との深い関わりにも注目が集まります。放送後、詳しい内容が分かり次第、最新の情報を更新します。

藤堂高虎の出自と出世の道のり

藤堂高虎は1556年に近江国(現在の滋賀県)で誕生しました。出自は小さな領主の家でありながら、ほとんど農民と変わらない生活を送っていたとされています。裕福ではない家に生まれた高虎は、戦国の混乱期に自らの力で道を切り開いていくことになります。

・幼少期から武士としての道を志し、身分の低さを乗り越えるために必死に戦場で結果を出しました。
・高虎は、生涯で10回以上も主君を替えたことでも知られています。これは裏切りではなく、より良い主君を求めて、また戦乱の中で生き残るために必要だった柔軟な選択でした。
・最初に仕えたのは浅井長政で、その後、織田信長、豊臣秀吉と、当時の有力大名たちの元を転々としました。
・戦の中で実績を積み、やがて豊臣秀長に見出されて重用されるようになります。この出会いが高虎の人生を大きく変えるきっかけとなりました。
・秀長の死後は、豊臣家の一員としての立場を守りつつ、やがて関ヶ原の戦いを経て徳川家康に仕えることになります

このように、藤堂高虎は戦国時代の厳しい環境の中で、多くの主君に仕えながら経験を積み、最終的には大名として大きな領地を得るまでに成長しました。それぞれの主君から信頼を得た背景には、戦の才能だけでなく、人としての誠実さや柔軟な対応力もあったと考えられます。生まれは貧しくても、努力と知恵でのし上がっていった高虎の人生は、戦国時代を象徴する出世物語のひとつです。

戦国を代表する築城の名人

藤堂高虎は武将としても高く評価されていた人物で、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)、関ヶ原の戦い、大坂の陣といった大きな合戦にも参加し、重要な役割を果たしました。これらの戦では、指揮官としての手腕や忠誠心が認められ、着実に功績を重ねていきました。

しかし、高虎がとくに名を残しているのは築城の分野での卓越した才能です。高虎は、黒田官兵衛や加藤清正と並んで「築城三名人」と称されており、その実績は戦国末期から江戸初期にかけて広く知られています。

・高虎は20以上の城の築城・改修に関わったとされます。その中には今治城、伊賀上野城、津城、篠山城、膳所城、江戸城など、現在でも遺構が残る名城が多数あります。
石垣の設計では、算木積みや高石垣を取り入れた防御力の高い構造が特徴で、見た目の美しさと実用性の高さを両立させました。
・また、層塔型天守という建築様式を普及させた先駆けでもありました。これにより、工期の短縮やコストの削減が可能になり、実戦に耐えるだけでなく、効率のよい築城が実現されました。
堀の構造も工夫されており、自然の地形を活かした水堀や空堀の配置が多くの城に見られます。敵の侵入を阻み、城下の生活空間との調和も意識されていました。

このように、高虎の築城術は、単なる防御施設ではなく「暮らしと統治の場としての城」を意識した設計となっていました。そのため、彼の築いた城は実用性に優れ、後の時代でも模範とされる存在となっています。現代でもその遺構を通じて、高虎の工夫と技術力の高さを感じ取ることができます

高虎の代表的な三つの城

藤堂高虎の築城術を語るうえで、代表的な三つの城は欠かせません。いずれも彼の技術と発想が随所に光る名城であり、現代までその魅力を伝えています。

今治城(愛媛県)は、海水を利用した三重の堀を備えた珍しい「海城」です。1602年から築城が始まり、完成は1613年頃とされています。海水を引き入れた堀によって、船の出入りが可能となり、軍事と物流の両方を支える構造となっていました。さらに、高虎はここに層塔型天守を採用し、縦に重なるような設計で高層化と工期短縮、そして建築費用の節約を同時に実現しました。

伊賀上野城(三重県)では、特に防御力を意識した設計が際立っています。1611年に改修されたこの城は、約30メートルにも及ぶ高石垣が特徴で、見た目の迫力とともに実戦での耐久性も重視されました。地形を巧みに利用し、深い堀と急な斜面で敵の侵入を防ぎます。また、城下町との位置関係も考慮されており、都市防衛と支配の中心としての役割を果たす構造になっていました。

津城(三重県)は、都市型の城として整備された点が特徴です。高虎は今治から津に転封されたのち、1611年に本格的な整備に取りかかりました。本丸の石垣を高く積み直し、内堀・外堀を設けて堅固な構えとしながらも、城下町全体を視野に入れた設計となっていました。また、櫓の数を増やし、防御力だけでなく居住性や行政の中心としての機能も備えた城となりました。

これら三つの城に共通して見られるのが、直線的で高い石垣、算木積みの補強法、外周を覆うように配された多聞櫓、水堀の巧妙な活用です。どの城も、機能性と美しさ、防御と実用性を高次元で両立させており、藤堂高虎の築城術が戦国時代の中でも特に洗練されていたことを示しています。彼の城は単なる戦の拠点ではなく、支配と暮らしを守る場として進化していったのです。

豊臣秀長との深い関係

藤堂高虎の人生を大きく変えた人物の一人が、豊臣秀吉の実弟・豊臣秀長です。1576年、高虎は秀長と出会い、その人物としての才覚を見出されて家臣となりました。当時、高虎に与えられたのは300石の所領で、これは当時としてはかなりの厚遇といえるものでした。この出会いがきっかけとなり、高虎の立場と人生は大きく動き始めます。

・秀長は武に優れるだけでなく、文化や教養を重んじる人物であり、千利休や有識者との交流も深く、穏やかな人柄で知られていました。
・高虎はその環境の中で、単なる武将としての力だけでなく、政治や築城、文化的素養も身につけていきます。築城術の飛躍的な進歩も、秀長の下での経験が基盤となりました。
・やがて高虎は秀長の“右腕”として、中国地方の平定戦、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、四国・九州の征伐など多くの戦に従軍し、実戦を通して実績と信頼を積み重ねていきます。
・築城面でも、秀長が拠点を築く際には現場で指揮を執り、その地に最適な城の構造を計画・実行しました。ここで培った経験が、後年の築城名人としての地位に繋がっていきます。

秀長が1591年に亡くなったあとも、高虎はその恩義を忘れずに行動します。秀長の息子・秀保が亡くなるまでの間、豊臣家の支えとなるよう振る舞い、浪人となった旧家臣たちを自ら引き取り、再仕官の道を開いたとも伝えられています。主君を失ってもなお、その遺族や家臣たちにまで気を配る姿勢は、ただの忠義を超えた人間としての信頼関係のあらわれでした。

このように、藤堂高虎と秀長の関係は、単なる主従ではなく、深い絆と相互の信頼に基づいた特別なものでした。2026年放送予定の大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、この関係性も重要な軸として描かれる予定であり、歴史ファンの間でも大きな注目を集めています。高虎にとって、秀長は武将人生の師であり、人生の転機を与えてくれた大恩人だったのです。

家康との絆と晩年

藤堂高虎は、関ヶ原の戦いでは徳川家康に味方して西軍と戦い、その活躍により家康から高く評価されます。この戦いの後、高虎は伊予今治20万石から伊勢津32万石へと加増されるという大出世を果たしました。これは単に戦での功績だけでなく、家康が高虎の実務能力と人柄を深く信頼していたことの証とも言えます。

・大坂の陣では、東軍の先鋒として最前線に立ち、大坂城攻めに重要な役割を果たしました
・高虎の冷静かつ着実な行動は、家康にとって非常に頼もしい存在であり、徳川幕府成立の陰の立役者の一人とされることもあります。
・家康が亡くなる際には、側近として最期を見届ける立場にあったことも記録されており、個人的な信頼関係が厚かったことがうかがえます

晩年の高虎は、戦乱の時代を生き抜いた証ともいえる数多くの傷を抱えた身体で、まさに武将の生き様をその身で表現するような人物でした。それでも、敵であった石田三成に対しても礼節を尽くし、私情ではなく信念と礼をもって接したと伝えられています。

高虎は1630年、江戸で74歳または75歳の生涯を終えました。その功績と人柄をしのび、墓所は現在の上野公園に建てられています。現地には今も多くの歴史ファンが訪れ、高虎の人生に思いを馳せています。

藤堂高虎は、戦国の動乱を生き抜いただけでなく、主君への忠誠、築城の才、人との礼節を兼ね備えた人物として、今もなお語り継がれる存在です。幕府からの信頼と、人々からの敬意に包まれてその生涯を閉じた高虎は、まさに「戦国武将の理想像」の一人だったといえるでしょう。

放送内容への期待

今回の『歴史探偵』では、藤堂高虎の石垣や天守の設計に秘められた工夫を掘り下げ、築城の技術的な側面に加えて、高虎の人間的な魅力にも光が当てられると見られています。さらに、来年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』の登場人物として再評価されることで、注目度も高まっている高虎の人物像を、より深く知る貴重な機会となるでしょう。

放送後、詳しい内容が分かり次第、最新の情報を更新します。

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