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NHK【歴史探偵】加賀百万石の秘密!前田家三代が築いた大藩の真実とは|2025年7月9日放送

歴史探偵

加賀百万石 前田家三代の闘い|7月9日放送

7月9日(水)夜10時から、NHK総合で放送される「歴史探偵」では、戦国から江戸時代にかけて、日本最大の石高を誇った「加賀百万石」の秘密が紹介されます。今回は、加賀藩を築き上げた前田家の初代・利家、2代・利長、3代・利常、それぞれの時代の苦労や戦い、そして知恵に迫ります。加賀藩はどうやって100万石という大名に成長したのか、その背景を探ります。

初代・前田利家の知られざる決断

前田家の礎を築き上げた人物が、初代・前田利家です。彼は尾張出身で、若い頃から織田信長に仕え、武勇を発揮しました。槍の名手として「槍の又左」とも呼ばれ、信長の側近として活躍していきます。しかし、そんな利家の人生を大きく変えたのが、天正11年(1583年)の「賤ヶ岳の戦い」でした。この戦いは、信長の死後、織田家の後継をめぐる豊臣秀吉と柴田勝家の争いであり、利家は非常に難しい立場に立たされます。

両者ともに縁が深く、利家は決断に苦しみました。当時、信長の弟・織田信雄とも関係があり、親族や家族の立場も絡んでいました。最終的に、戦況が不利と判断した利家は、一時的に戦場から退却します。この行動は周囲から「裏切り」と見なされることもありましたが、近年の研究では、利家の撤退は単なる逃亡ではなく、家族や領地を守るための冷静な選択だったという見方が広がっています。

この時代は、単純に敵か味方かで割り切れない、複雑な人間関係と政治的な駆け引きが絡んでいました。利家も例外ではなく、領民や家族を守るため、苦渋の決断を下していたことがわかります。

さらに、利家は娘を人質として柴田勝家に差し出しています。
・この人質は、単なる忠誠の証だけではなく、家族を守るための現実的な対応でした。
・人質に出したのは、勝家と良好な関係を築き、前田家を生き残らせるための策でもありました。

やがて、豊臣秀吉が天下統一を進めると、利家は再びその信頼を得て、重要な役割を任されます。特に、豊臣政権下では「五大老」と呼ばれる重臣グループの一人に選ばれ、家康に次ぐ次席大老という地位にまで上りつめました。このことからも、単なる武勇だけでなく、政治的な判断力と人望の厚さが評価されていたことがわかります。

利家はよく「八百屋の息子から大出世した豪快な武将」として語られますが、近年の資料や歴史小説では、もっと人間らしい一面や戦略家としての姿が描かれるようになりました。家族や領地を守るため、冷静に状況を見極め、時には厳しい決断も受け入れる利家の姿は、戦国時代を生き抜くための知恵と覚悟を象徴しています。

2代・前田利長が100万石へと導いた理由

父・前田利家の死後、前田家を継いだのが2代目の前田利長です。利家が亡くなった時、加賀藩の石高は約80万石でしたが、利長の努力と判断により、加賀藩は最終的に100万石を超える大大名へと成長します。

当時は徳川家康と石田三成を中心とする西軍が対立し、天下分け目の関ヶ原の戦いが起きる直前の不安定な時期でした。利長は、家康が優勢になると見て東軍につき、北陸地方の戦線で活躍します。特に、石田三成に味方する勢力を抑え込み、地域の安定を保ったことが評価されました。

さらに、利長は弟・利政をあえて西軍側に残すという策をとります。
・これは、前田家がどちらに転んでも完全に滅亡することを防ぐための保険でした。
・一族を両陣営に分けることで、生き残る道を確保したのです。

戦後、家康が加賀征伐を計画し、前田家を危険視する場面もありました。しかし、利長は母・芳春院(まつ)を江戸へ人質として送り、直接の戦を避ける選択をします。この人質交換は、加賀藩を守るために必要な苦渋の決断でした。

また、利長は領地の検地を行い、加賀・能登・越中を合わせた石高を正確に把握しました。その結果、実に118万石もの広大な領地を支配していることが明らかになり、前田家は名実ともに日本最大の大藩としての地位を確立しました。

利長は武力だけでなく、藩内の政治や家臣団の統制にも力を入れました。
・家中の対立を抑え、意見の違いをまとめることで内部の安定を実現しました。
・また、自ら前面に出ることを控え、隠居する姿勢を見せることで、幕府との余計な衝突を避けました。

このように、前田利長は戦略と冷静な判断力で、前田家を徳川幕府の中でも特別な存在へと押し上げ、加賀百万石の基盤を完成させたのです。

3代・前田利常が築いた安定の加賀藩

3代目の前田利常は、加賀藩をより安定させるために多くの工夫を重ね、強固な基盤を築き上げた人物です。当時の加賀藩は、徳川幕府に次ぐ日本屈指の大藩として知られ、幕府からの警戒も非常に強いものでした。そんな中で、利常は加賀藩を守り、発展させるためにさまざまな政策を実行しました。

まず、利常が行ったのが「十村制」という農村統治の仕組みです。
・この制度では、約10の村をまとめて管理する「十村」と呼ばれる有力農民を配置しました。
・彼らが年貢の徴収や村の監督を行うことで、農民と役人の間のトラブルが減り、年貢の安定した確保が可能になりました。
・同時に、農村の秩序も保たれるようになり、藩内の経済が安定していきました。

さらに、利常は藩の財政再建にも力を入れました。
・無駄な支出を減らすために、会計の帳簿を細かく整え、無駄のないお金の使い方を徹底しました。
・これにより、加賀藩は大規模な出費にも耐えられる、安定した財政基盤を持つようになったのです。

加えて、利常は「文治主義」を強く推し進めました。
・軍事力を前面に出すのではなく、文化や芸術を重視し、平和的な方法で藩の存在感を高める方針を取りました。
・かつて刀剣や武具を製作していた施設を、茶道具や漆器、工芸品の製作場所に変え、文化の力で藩の地位を確立しようとしたのです。

しかし、利常の政策が全て順調だったわけではありません。
・金沢城の無断修築や武具の購入などで、幕府から「謀反の疑い」をかけられたこともありました。
・このとき利常は、家臣たちと協力し、丁寧な説明を重ねることで、幕府からの疑いを晴らし、藩を守り抜きました。

また、利常の時代には加賀漆器や蒔絵、象嵌といった伝統工芸が大きく発展しました。
・これらの工芸品は、国内外で高く評価され、加賀藩の経済的な豊かさと文化の高さを示す象徴となりました。
・地域社会の暮らしも次第に豊かになり、加賀藩は経済と文化の両面で大きな繁栄を迎えることになります。

このように、前田利常は巧みな政策と文化振興により、幕府の警戒を和らげながら、加賀藩を盤石なものに変えていきました。初代・利家の基盤、2代・利長の拡大、3代・利常の安定。それぞれの時代ごとに前田家は課題と向き合い、家を守り抜いてきたのです。

まとめ

今回の「歴史探偵」では、そうした前田家三代の知られざる努力や工夫、そして加賀百万石がどのように誕生したのかが、わかりやすく紹介されます。歴史好きはもちろん、これまであまり詳しくなかった方でも楽しめる内容です。ぜひ番組をチェックしてみてください。

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