袴田事件を追った「新プロジェクトX」前編の深い物語
1966年に静岡県清水市で起きた袴田事件は、日本の司法史に深く刻まれた未曾有の冤罪事件です。今回の『新プロジェクトX〜挑戦者たち〜』(2025年9月27日放送)では、袴田巌さんと、彼を支え続けた姉・ひで子さん、そして支援者や弁護士たちの執念が描かれました。この記事では、放送内容を振り返りながら、事件の全貌と「みそ漬け実験」に込められた真実追求の重みを伝えます。
【新プロジェクトX】雪冤 “袴田事件” 完結編|裁判官の独白とDNA鑑定の真実に迫る|2025年10月4日
袴田事件とは何だったのか
1966年6月、静岡県清水市にあった味噌会社で、専務とその家族4人が殺害され、建物には火が放たれるという凄惨な事件が発生しました。現場は地域社会を震撼させ、住民たちに大きな恐怖を与えました。警察が逮捕したのは、この会社に住み込みで働いていた従業員の袴田巌さんでした。
捜査当局は、元プロボクサーであった経歴を「腕力がある」として強調し、さらに借金や離婚歴といった私生活上の事情を理由に、犯人像に重ね合わせていきました。警察やメディアは彼を「ボクサーくずれ」と呼び、世論も次第に「袴田さんが犯人である」という印象へと傾いていきました。
袴田さんの部屋からはパジャマが押収され、それが「犯行時に着ていた衣類だ」とされました。決定的な証拠とされたこのパジャマをもとに、警察は袴田さんを追い込みます。取り調べは連日長時間に及び、平均で12時間を超える過酷なものでした。肉体的にも精神的にも限界を超えた中で、ついに自白を引き出されます。しかし裁判の場では一貫して無罪を訴え続けました。
それでも裁判所は検察側の主張を受け入れ、1980年、最高裁判所で死刑判決が確定しました。こうして袴田さんは、48年という長きにわたり獄中生活を余儀なくされ、日本の司法史に残る冤罪事件として大きな注目を集めることになりました。
補足として、この事件が起きた1960年代は高度経済成長期であり、地域の労働環境も過酷なものでした。当時の刑事司法は「自白偏重」と呼ばれる時代で、長時間の取り調べや強引な捜査手法が常態化していたことも、袴田事件を理解する上で欠かせない背景です。
姉・ひで子さんの孤独な闘い
袴田巌さんを救うために立ち上がったのは、実の姉である袴田ひで子さんでした。彼女は弟の無実を信じ、周囲の冷たい視線や孤立無援の状況の中でも、ひたすらに声を上げ続けました。裁判で有罪判決が重ねられていくたびに心は打ち砕かれそうになりながらも、彼女は「弟を助けるのは自分しかいない」と覚悟を決め、必死に行動を続けました。
ひで子さんは全国に向けて署名活動を展開し、弟の無罪を訴えるために街頭に立ちました。また、莫大な弁護士費用をまかなうため、家族とともにお金を出し合い、生活を切り詰めながら戦いを支えました。その姿は次第に支援者の共感を呼び、少しずつ協力の輪が広がっていきました。
しかし、長い年月に及ぶ闘いは彼女の心身を確実にむしばんでいきました。度重なる再審請求の却下、世間からの無理解、先の見えない苦闘が重なり、精神的にも身体的にも限界に近づいていったのです。その果てに、アルコールに依存する時期もありましたと語られています。それでも彼女が完全に立ち止まることはなく、ただひとつ「弟を救いたい」という揺るぎない思いが、暗闇の中で彼女を突き動かし続けました。
背景には、日本の司法制度が「再審は開かずの扉」と呼ばれ、冤罪を訴える家族が社会の中で孤立しやすい状況があったことも大きな要因です。ひで子さんの闘いは、家族愛に支えられた執念であると同時に、制度の壁に挑み続けた長期にわたる試練でもありました。
突如現れた「5点の衣類」
事件発生から1年2か月が経過した頃、突如として味噌タンクの中から麻袋に入った「5点の衣類」が発見されました。長期間大量の味噌に漬かっていたはずの衣類が、なぜ今になって見つかったのかという点からも、大きな疑問を呼びました。検察はこれを犯行時の着衣と断定し、決定的な証拠として法廷に提出しました。そして、この衣類が死刑判決の根拠となったのです。
しかし、衣類の内容を詳しく調べると、数々の矛盾が浮かび上がりました。まず、ズボンは小さすぎて袴田巌さんの体格には合わず、実際に履くことができなかったとされています。また、本来であれば上衣に多く付着しているはずの血痕が、下に着るはずのステテコに多く付着しているなど、状況とは一致しない点がいくつも見つかりました。これらは「本当に犯行時に着ていたものなのか」という強い疑念を抱かせるものでした。
さらに、衣類が発見された経緯自体にも不自然さがありました。事件直後の捜索では発見されず、1年以上も経ってから突然出てきたことは、多くの人に「証拠のねつ造ではないか」との疑念を抱かせました。こうした矛盾や不可解な点は、弁護団や支援者たちが新たな闘いを始めるきっかけとなり、のちに「みそ漬け実験」へとつながっていきます。
当時の日本では、警察や検察の主張が裁判で重視されやすい「自白偏重」の風潮が強く、証拠の矛盾に対する検証は十分に行われませんでした。この5点の衣類をめぐる疑問こそが、長期にわたる再審請求の大きな原動力となったのです。
執念の「みそ漬け実験」
弁護団と支援者たちは、突如発見された衣類が本当に長期間味噌タンクに漬かっていたのかを確かめるため、自ら独自の実験に取り組みました。焦点となったのは、ズボンのポケットに入っていたマッチや絆創膏でした。通常であれば、1年以上味噌に漬かっていれば湿気や成分で大きく変色し、形状も劣化しているはずです。
そこで彼らは同じ条件を再現するため、実際にマッチや絆創膏を味噌に漬け込む「みそ漬け実験」を開始しました。長期間保存した後の結果を検証したところ、予想に反してマッチも絆創膏もほとんど変色せず、そのままの状態を保っていました。この結果は「検察の証拠に疑いを投げかける」材料にはなり得たものの、法廷で新たな証拠として採用されるには不十分とされました。
実験は一度の失敗で終わることはありませんでした。弁護団と支援者たちは方法を変えながら試行錯誤を重ねます。衣類の繊維や血痕の残り方を確認するため、鶏の血液や人間の血液を使い、味噌漬けにして変化を観察する実験も繰り返されました。血液が酸化して黒く変色していく様子を観察し、衣類の状態と照らし合わせることで、検察側の証拠に矛盾があることを突き止めようとしたのです。
こうした粘り強い挑戦は、すぐに成果を上げることはできませんでしたが、「証拠は本当に真実を示しているのか」という根本的な疑問を突き続けるための大きな力となり、その後の再審請求へとつながっていきました。
再審請求と司法の壁
1981年、弁護団はついに再審請求に踏み切りました。しかし、日本の司法制度において再審は「開かずの扉」と呼ばれるほど実現が難しいものでした。当時の制度では、警察や検察に証拠開示の義務がなく、弁護団が手にできる資料はごく限られていました。そのため、無罪を立証するためには、自ら新しい証拠を探し出し、実験や検証を積み重ねるしかなかったのです。
再審請求は20年以上にわたり続けられましたが、壁は厚く、簡単には開かれませんでした。ついに2004年、東京高等裁判所は再審請求を棄却します。多くの支援者にとって失望の瞬間でしたが、その決定文の中に意外な一文が記されていました。そこには「問題となった衣類は1年余り味噌タンクに漬かっていた」と明記されていたのです。
この一文は、弁護団にとって大きな突破口となりました。なぜなら、実際に長期間味噌に漬け込んでいたのであれば、布や血痕の状態が検察の提示した証拠とは合致しないはずだという新たな矛盾が浮かび上がったからです。ここから再び「みそ漬け実験」が注目され、長い闘いの新しい局面が開かれていきました。
前代未聞の即日釈放
2007年、ついに長年続いた闘いが大きな転機を迎えました。再審請求が認められ、裁判長は決定文の中で「提出された証拠は捜査機関によるねつ造の疑いがある」と明記しました。この判断は司法の歴史において極めて異例のものであり、法廷に立ち会った人々も大きなどよめきを上げました。そして、その場で誰もが予想していなかった即日釈放が言い渡されたのです。
獄中に閉じ込められてから実に48年。長く独房で生活を強いられた袴田巌さんは、限られた空間の中で日々を過ごすために歩き続ける習慣を身につけていました。そのため、釈放後も無意識のうちに部屋を歩き回る姿が見られ、その長年の生活習慣の深い爪痕を物語っていました。
それでも、袴田ひで子さんにとっては弟が自分の元へ戻ってきたこと自体が何よりの喜びでした。彼女は「どんな巌さんでも帰ってきてくれたことが嬉しかった」と語り、その言葉には半世紀近く続いた苦難と祈りの重みが込められていました。家族の愛と執念が奇跡を呼び寄せた瞬間であり、日本の司法における冤罪問題の象徴的な場面となりました。
補足すると、袴田さんの即日釈放は、戦後の日本で死刑が確定した被告が解放されるという前例のない出来事であり、国内外のメディアでも大きく報じられました。
記事のポイントまとめ
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袴田事件は1966年に静岡で起きた冤罪事件で、48年もの獄中生活を生んだ
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袴田ひで子さんは孤立無援の中で弟を支え続けた
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みそ漬け実験は証拠のねつ造を暴くための執念の取り組みだった
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即日釈放は司法史に残る前代未聞の出来事となった
今後への問いかけ
袴田事件は、司法制度の在り方、証拠の扱い、そして「人が人を裁くこと」の重さを改めて問いかけています。冤罪を二度と繰り返さないために、私たちはこの出来事から何を学ぶべきなのか。その問いは今も続いています。
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