暗い中で最も“邪魔にならない”色
まずは、科学的な理由です。
映画館や劇場の照明が落とされると、私たちの目の働きは大きく変化します。
明るい場所では「錐体(すいたい)」という細胞が、暗い場所では「杆体(かんたい)」という細胞が主に働きます。
この杆体は、光の強さには敏感ですが、色の判別能力は低く、特に赤い光を感じにくいのです。
この現象を「プルキニエ現象(Purkinje effect)」といいます。
つまり、暗闇では赤いものが最も見えにくいのです。
映画館の照明が落ちたあと、赤い座席がまるで“闇に溶ける”ように感じるのはこのため。
視界に余計な色が入らず、自然と舞台やスクリーンに意識が集中できるように設計されています。
一方、上映前の明るい時間帯には、赤は空間を華やかに見せ、観客に「非日常の時間が始まる」期待感を与えてくれます。
このように、赤は「明るい時は華やか」「暗い時は消える」という、まるで魔法のような性質を持っているのです。
赤が持つ“特別感”と劇場の伝統
次に、文化的な背景です。
劇場文化のルーツをたどると、19世紀のヨーロッパに行き着きます。
当時のオペラハウスや劇場では、赤と金を基調とした内装が多く見られました。
たとえば、フランスのオペラ座(ガルニエ宮)やロンドンのロイヤル・アルバート・ホールなどは、客席が深い赤のベルベットで覆われ、装飾には金色のモールディングが施されています。
赤は王族や貴族の衣装にも使われてきた“高貴な色”であり、「情熱」「特別」「興奮」を象徴する色。
その伝統を、20世紀初頭の映画館建築が受け継ぎました。
映画館はもともと「庶民がオペラハウスのような贅沢を味わえる場所」として設計され、赤い座席=特別な時間を演出する装置として導入されたのです。
心理学的にも、赤は交感神経を刺激して興奮や期待を高める効果があるとされています。
暗転する前のわずかな時間、観客が赤い椅子に座ることで「これから何かが始まる」という高揚感を自然に得られるよう、意図的に演出されているのです。
赤は“美しさと実用性”を両立する色
デザインの世界では、美しさだけでなく機能性も重要な要素です。
劇場や映画館では、毎日多くの人が出入りし、座席には摩耗や汚れが生じます。
そこで選ばれたのが、赤という色の実用的メリット。
・飲み物のシミや摩耗が目立ちにくい
・日光や照明による色あせが緩やか
・染料や布の流通量が多く、修繕が容易
こうした理由で、赤はコスト面でも管理面でも優秀な色とされています。
特にベルベット生地は、光の当たり方で深い陰影が出るため、空間全体に温かみと高級感をもたらします。
赤いベルベットの座席は、単なる装飾ではなく、美観と耐久性を両立させた合理的な選択なのです。
“赤”が観客を物語の世界へ導く
照明が落ち、ざわめきが静まる瞬間。
観客の視界から赤い座席がすっと消え、暗闇の中にスクリーンや舞台だけが浮かび上がる。
この“視覚的な切り替え”こそ、映画や演劇の魅力を最大化する仕掛けです。
赤い椅子がなければ、観客は舞台よりも周囲の動きに意識を取られてしまうかもしれません。
赤は、観客の注意を“静かに操作する色”。
デザインという名の裏方が、物語の世界への没入を支えているのです。
世界の劇場が愛した“赤”の系譜
現代の映画館や劇場でも、その伝統は脈々と続いています。
たとえば、ニューヨークのメトロポリタン・オペラハウスやウィーン国立歌劇場でも、赤と金の組み合わせが今なお健在。
日本でも、帝国劇場や日比谷シアタークリエなど、クラシカルな劇場の多くがこの配色を取り入れています。
そして近年では、モダンな映画館やシネコンでも、あえて深い赤やワインレッドを採用するケースが増えています。
それは“懐かしさ”や“特別な空間”を演出しながらも、デザインの系譜を大切にしている証なのです。
まとめ
この記事のポイントを整理すると次の通りです。
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赤は暗闇で最も見えにくい色。照明が落ちると自然に視界から消え、舞台やスクリーンへの集中を高める。
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赤は情熱・高貴・非日常を象徴する伝統色。ヨーロッパ劇場文化から受け継がれ、映画館にも定着した。
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実用面でも優れた色。汚れが目立たず、長期間の使用に適している。
つまり、劇場の赤い座席は偶然ではなく、人間の感覚と文化の記憶が生んだ最適解。
その赤の中に座り、静かに照明が落ちる瞬間——そこから始まる“非日常”こそ、演劇や映画の最大の魅力なのです。
※本記事は2025年時点の情報に基づき作成。
NHK『チコちゃんに叱られる!』などで放送予定の内容については、放送後に詳細を追記します。
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