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Eテレ【美の壺】煎じて味わう 日本のお茶|黄檗売茶流×石鎚黒茶×普茶料理の深い魅力を知る旅|2025年11月23日

美の壺

日本のお茶をもっと深く楽しめる理由とは?

日本のお茶には、ただ飲むだけでは分からない長い歴史や文化の広がりがあり、その奥にある物語を知ることでお茶の味わいは驚くほど変わります。今回紹介されるテーマには、中国から伝わった喫茶文化、修行僧の茶礼に宿る心、鮮やかな普茶料理、徳川家康にゆかりの儀式、そして600年続く黒茶まで、知れば知るほど魅力が深まる内容がそろっています。

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遣唐使が運んだ“最初のお茶”と煎茶文化の源流

日本にお茶が最初に伝わった時代には、奈良・平安期の遣唐使や留学僧が大きな役割を果たしています。唐の都では、茶がすでに薬用から嗜好品へと広がりつつあり、修行の一環として喫茶習慣が取り入れられていました。
永忠 が嵯峨天皇に茶を献じたという記録は、国立の史料にも残る事実で、日本最古級の献茶の史実とされています。これはただの飲みものではなく、“心身の調整”としての茶が、すでに役割を持っていたことを示しています。

さらに、当時の茶は今の煎茶とは違い、『煎茶法』と呼ばれる煎じるスタイルでした。湯を沸かし、固形の団茶や粉末状の茶を煮出して味わう方法で、香りよりも滋養・効能に重きが置かれていました。

江戸時代に入ると、明から渡来した 隠元隆琦 禅師が黄檗宗を開き、「唐茶」と呼ばれるお茶のスタイルを伝えました。これが後に日本の煎茶文化へ影響を与えたと言われています。隠元禅師が伝えたのは、禅的精神とともに、お茶を日常の楽しみとして広げていく心でもありました。

ただし、現在の急須を使う煎茶がこの時代から連続している明確な史料は見つかっておらず、団茶・粉茶・煮出し茶など複数の様式が混在していたのが実情です。つまり、日本の煎茶は、中国から学びつつも、独自の進化を遂げた文化なのです。

伝統的な“黒茶”の深みに触れる

黒茶は“後発酵茶”と呼ばれ、茶葉を摘んだ後、発酵という時間の積み重ねによって特徴的な香りと味わいを生むお茶です。
中国では雲南省のプーアル茶が代表格ですが、日本にも古くから後発酵茶が存在し、その一つが愛媛県西条市の『石鎚黒茶』です。

石鎚黒茶は、蒸した茶葉を桶に詰めて自然発酵させる「一次発酵」、その後天日で乾燥させて仕上げる「二次発酵」という二段の工程を踏む特徴があります。この製法は地域の暮らしに深く根づき、祭礼や季節行事とも結びついて受け継がれてきました。

「600年の歴史」をうたう紹介もありますが、その数字がどの時点からか明確に特定できる史料は確認できません。それでも、地域の生活や信仰とともに受け継がれてきた“生きた文化財”であることは確かで、後発酵茶が世界的にも珍しい存在であることを考えると、日本のお茶文化の奥行きを感じられる貴重な存在です。

黄檗売茶流が大切にする“人を思うお茶時間”

煎茶道は、抹茶の茶道とは異なり、葉茶を急須や湯器で淹れる形式の茶道です。その中でも 黄檗売茶流 は、特に“もてなしの柔らかさ”を重んじる流派です。

流派の原点は、禅僧 高遊外(売茶翁) にあります。
売茶翁は、形式よりも「お茶を楽しむ心」を大切にした人物で、その思想は現代まで続いています。

特徴として、正座ではなく椅子席での立礼式を採用し、体の負担を抑えながら誰でも参加しやすい環境が整えられている点があります。
お茶を淹れるときは、
・その日の気温
・相手の体調
・その場の空気
を読み取り、最適な湯温や濃さに調整します。
“心配りが所作となる”のが黄檗売茶流の特徴であり、単なる作法ではなく「相手の時間を整える」という価値が込められています。

徳川家康を偲ぶ『お茶壺道中』と一年の最初の“口切り”

江戸時代、お茶は将軍家に献じられる重要な品物でした。宇治などの産地で詰められた茶壺は、厳重に封をされ、武士や関係者の行列によって江戸へ運ばれました。この壮大な行列が『お茶壺道中行列』です。

道中は非常に格式が高く、地域を通る際には宿場町が総出で整えたと言われています。茶壺には鍵がつけられ、不正や毒物混入を防ぐための厳密な検査も行われました。茶が国家レベルで扱われていたことが分かる象徴的な儀式です。

江戸に届いた茶壺はそのまま寝かせられ、特別な日に封を切る『口切の儀』が行われます。
静岡県の 久能山東照宮 でもこの儀式が続いており、徳川家康を偲ぶ文化として残っています。

「一年で最初に飲むお茶」が特別であったように、茶を開く瞬間そのものが神聖な行事でした。お茶が単なる嗜好品ではなく、地域や武家の威信と深いつながりを持っていたことがよく分かります。

普茶料理が伝える“共に味わう”という心

『普茶料理』は、黄檗宗の寺院で伝わる中国風の精進料理で、隠元禅師が日本に伝えたとされています。名前の「普茶」は「大勢で茶を共にする」という意味から来ています。

特徴は次の通りです。

・植物油を用いた揚げ物・炒め物
・美しい盛り付け
・大皿を四人で取り分ける形式
・席に上下の差をつくらない平等の精神

日本の精進料理が持つ“素朴さ”とは少し異なり、香りや彩りの華やかさが際立つ料理です。茶礼のあとにいただく習わしがあり、お茶と食の文化が自然につながっています。

普茶料理は、ただ料理を楽しむ場ではなく「他者と同じ卓に座り、同じ皿を分け合う」という精神を体現している点も特徴的です。茶の文化が、食事を通じて人と人をつなぐ役割を持っていたことがよく分かります。

“炭酸”や“くず粉”で広がる現代の茶アレンジ

番組案内には「炭酸からくず粉まで」とありますが、これは歴史的に定着した形式というより、現代の自由な発想から生まれたアレンジと考えられます。

・炭酸と合わせて爽やかなドリンクにする
・くず粉でとろみをつけて和スイーツ風にする

といった、現代ならではの楽しみ方が紹介される可能性があります。

修行僧たちが大切にしてきた“茶礼”の意味

禅寺では、修行の合間や法要のあとに『茶礼(されい)』と呼ばれる時間があります。
これは単なる休憩ではなく、お茶をいただきながら心を静め、気持ちを整える大切な儀式です。

茶礼には、
・静かに心を鎮める意識
・仲間への敬意
・所作を端正にする精神
・一つの湯、一つの茶に集中する姿勢
という教えが息づいています。

煎茶道の精神とも重なり、お茶を点てる所作は“心を整える行い”として多くの僧に受け継がれてきました。

地域の文化と暮らしを支えてきた“お茶のつながり”

お茶は、地域によって姿も意味も変わります。黒茶、普茶料理、茶壺道中など、地域ごとに独自の文化が発展し、暮らしの一部として受け継がれてきました。

その背景には、
・地域の気候や風土
・宗教や信仰
・歴史的背景
・農家や職人の技
が重なりあっています。

お茶が「飲み物」を超えて、地域の誇りや人々の心をつなぐ存在として大切にされてきたことが改めて見えてきます。

まとめ

日本のお茶には、中国からの喫茶伝来、修行僧の茶礼、煎茶道のもてなし、徳川家康にまつわる儀式、地域の黒茶や普茶料理など、多様な文化が折り重なっています。
お茶の背景にある物語を知ることで、日常の一杯もまったく違って感じられるはずです。


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