「豊臣と近江八幡」最先端の商業都市はどう生まれたのか
滋賀県の近江八幡が、なぜ日本を代表する商人文化の中心になったのか。その秘密を、タモリさんとともに歩きながら探った今回のブラタモリは、戦国から江戸へと続く“商業都市の進化”がよく見える回でした。『本能寺の変』で揺らいだ安土の町、織田信長の構想、さらに豊臣秀吉と豊臣秀次が描いた都市計画が、どのように“近江商人”を生み出したのかが立体的に伝わります。この記事では、放送の流れに沿って、その理由と背景を深く紹介します。
豊臣と近江八幡の関係とは?信長の“安土”から何が受け継がれたのか
近江八幡の物語は、安土城とその城下町から始まります。信長が各地の商人を集めてつくった安土は、当時としては最先端の都市でした。しかし『本能寺の変』後、安土は大きく衰退し、商人たちの拠点は失われました。そこで新しい受け皿となったのが、琵琶湖のほとりに広がる水郷の町・近江八幡です。
町の中心にあり、地名の由来ともなった日牟禮八幡宮の存在、そして水運の利便性が、安土の商業文化を引き継ぐ土台となりました。現在の大手総合商社や百貨店のルーツに近江商人が多いという事実は、この土地が持つ商業的ポテンシャルの高さを示しています。
八幡山城の築城と豊臣秀次の役割とは?
タモリさんがロープウェーで向かった八幡山城は、1585年に秀吉の甥・豊臣秀次が築いた城です。秀吉は、安土を超える新しい商業都市をつくるため、商人たちを近江八幡へ移住させ、その中心として八幡山城下を整備しました。
秀次の城づくりは、商業を前提とした都市計画でした。町は碁盤目のように区画され、城下に新しい商業ルールを導入。これは、信長が安土で実施した都市制度を発展させたもので、豊臣家が「新しい経済都市」をつくる意図が明確に現れています。
秀次が後に疑いをかけられ、城が破却されても、この都市計画の基盤は消えず、商人たちが自立していく土台となりました。
八幡堀はなぜ商業都市の中心になったのか
番組でも印象的だったのが、よく時代劇でも使われる八幡堀です。ここは単なる景観ではなく、当時の“商業インフラの心臓部”でした。
琵琶湖と町を結ぶ運河としてつくられ、舟が町の中心部まで入る設計になっています。琵琶湖を行き交う商船は必ず八幡堀に入るというルールもあり、人・物資・情報が自然に集まる仕組みでした。
こうした水運を中心に据えた都市構造は、商売の回転を速くし、町を豊かにする大きな役割を果たしました。
商業都市を支えた“背割下水”の仕組みとは?
近江八幡の町を歩いて驚くのが、当時としては革新的な“衛生インフラ”です。それが背割下水と呼ばれる下水道の仕組みです。
家と家の背中合わせの境界に下水路をつくり、町全体に張り巡らせることで、水郷の湿地環境でも雑排水が滞らないように整えました。こうした仕組みは、秀吉の都市づくりにも通じる発想で、商人が暮らしやすく働きやすい環境をつくるための重要な技術でした。
“商売は町が清潔でないと発展しない”という思想が形になったインフラと言えます。
なぜ八幡の商人たちは全国に進出できたのか
近江商人が全国に広がった背景には、八幡の地の強みがあります。水運と街道が交わり、京都・大阪・江戸いずれにもアクセスしやすいロケーションでした。
八幡山城が廃され、政治的な後ろ盾が失われても、商人たちは逆境をチャンスに変えます。商家を持ちながら行商を行い、さらに各地に支店を設けて販売網を広げました。こうした活動は、自らの足で販路を切り開く“全国展開”というビジネスモデルを形づくりました。
豊臣政権のゆらぎと商人たちの奮起の理由とは?
豊臣秀頼が誕生したことで秀次との関係が悪化し、秀次は切腹。八幡山城は破却され、家臣たちは町を離れました。通常なら城下町は衰退しますが、近江八幡はむしろここから発展します。
理由は、政治に依存しない“商人による商人の町”へと変化したからです。地理、都市機能、流通網、商業文化のすべてが揃っていた近江八幡は、商人たちが自ら動くことで成長を続けました。
近江商人のお屋敷が示す“全国展開”の秘密
町に残る旧西川家住宅などの立派な商家は、近江商人がどれほど成功したかを物語ります。八幡堀に裏口がつながり、物資を蔵に直接運び入れられる構造になっているのが特徴です。
本宅をしっかり構えながらも、全国に支店を展開するという“本宅+ネットワーク”方式は、現代の企業経営にも通じる合理的な商法です。
八幡の蚊帳が全国的ヒット商品になった理由とは?
全国で売れた『八幡の蚊帳』は、近江商人の象徴でもあります。地元で手に入る麻を使った涼しげな萌葱色、赤い縁取りの美しさが人気を呼び、浮世絵師喜多川歌麿も作品に描きました。
安価で軽く、行商でも運びやすかったため、販路は一気に広がりました。三方よし(売り手よし・買い手よし・世間よし)の精神で商売を行ったことも、全国で信用を得た理由です。
まとめ
近江八幡が“最先端商業都市”となり、近江商人が全国で活躍した背景には、信長の都市構想を受け継いだ豊臣家による町づくり、商人を支える水運や下水などのインフラ、そして逆境を力に変える商人の強さがありました。
八幡堀、背割下水、八幡山城跡に残る町割り、商家の構造など、すべてが当時の商業戦略の証そのもので、2025年の今見ても学ぶポイントが多い町です。
次回のブラタモリも、歴史の中に隠れた“町の秘密”をひも解いてくれるのが楽しみです。
【ブラタモリ】世界遺産&国宝二の丸御殿へ!徳川三代の思惑とは 二条城の堀幅はなぜ?石垣の違いと“行幸”の意味を読み解く|2025年11月22日
八幡堀・八幡山ロープウェー・旧西川家住宅について紹介します

ここからは、私からの提案です。近江八幡という町は、景色の美しさだけでなく、町そのものが昔の営みをそのまま残しているところに魅力があります。八幡堀を進む観光船の静かな揺れ、八幡山ロープウェーから見下ろす広い町並み、そして旧西川家住宅に残る商人の暮らし。どれも同じ歴史を別の角度から感じられる場所です。町が生まれ、商人が全国へ羽ばたいていった背景が、風景や建物の中に息づいています。ここから紹介する3つのスポットは、その歴史を立体的に見せてくれる大切な鍵になります。
八幡堀の現在の姿と観光船の魅力
八幡堀は、かつて琵琶湖とつながる大切な運河として、さまざまな荷物を運ぶために使われていました。現在は、その歴史を感じられる観光船の遊覧コースとして親しまれています。手漕ぎの和舟や小さなボートがゆっくりと進み、約35分のコースで四季ごとに変わる町並みを楽しめます。桜の春、柳がそよぐ夏、紅葉に包まれる秋、雪景色の冬と、いつ訪れても違う表情を見せてくれます。周りには、白壁の蔵や木造の町家、石畳の道が残っていて、水面に映るその風景がとても印象的です。昔は荷物を運んでいた場所が、今では景色を楽しむ時間に変わり、歴史と現在が重なる空間として多くの人に愛されています。
八幡山ロープウェーから見る町と地形のつながり
八幡山ロープウェーは、八幡山城跡の近くまで登れる短い空の旅です。山頂からは、琵琶湖や西の湖、そして碁盤目のように整えられた町並みを一望できます。ここからの景色は、城を守りながら町を栄えさせるための地形の工夫がよく分かります。山の上の城、そのふもとの運河、そしてきれいに並んだ町家が、当時の城下町の姿そのままに広がっています。頂上を歩いていると、城の配置や町のつくりが自然の形を生かして考えられていたことを実感できます。風景を眺めるだけで、歴史がどう広がっていったのかが伝わってくる場所です。
近江商人ゆかりの旧西川家住宅と町家の文化
旧西川家住宅は、近江商人として活躍した家の暮らしを知ることができる貴重な資料館です。広い屋敷の中には、昔の商売道具や生活に使われていた物が残されていて、当時の暮らしぶりがそのまま見えてきます。近江八幡の旧市街には、大きな町家や土蔵が今も並び、歩いているだけで商人の時代にタイムスリップしたような気持ちになります。歴史的な建物を保存している地区でもあり、町全体が落ち着いた雰囲気に包まれています。資料館や旧商人の屋敷をめぐると、近江商人がどんな思いで商売を続け、町を支えてきたのかを深く感じられます。こうした場所は、歴史が好きな人にも、文化を知りたい人にも魅力的で、訪れるたびに新しい発見があります。
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