「豊臣と近江八幡」
近江八幡を歩くと、古い町家が立ち並び、水面に町並みが映る八幡堀の風景がすぐに目に入ります。年間200万人以上が訪れる理由は、この美しい景観だけではありません。戦国から安土桃山、そして江戸へと続く激動の歴史が、町のすみずみに重なっているからです。今回のブラタモリでは、タモリさんがその核心に迫り、信長から豊臣、そして近江商人へと続く物語をたどります。
NHK【ブラタモリ】世界遺産&国宝二の丸御殿へ!徳川三代の思惑とは 二条城の堀幅はなぜ?石垣の違いと“行幸”の意味を読み解く|2025年11月22日
町の基盤をつくった“戦国の大きな転換”
近江八幡の物語は、織田信長が築いた安土城の繁栄と崩壊から始まります。安土で活躍していた商人たちは、城の消失によって生活の場を失い、新しい拠点を探す必要が出てきました。そこで目を向けた先が、安土からほど近い八幡の地でした。
1585年、豊臣秀次は八幡山に八幡山城を築き、そのふもとに城下町をつくり始めます。道は碁盤目状に整備され、商人や職人がこの町に集められました。町をまっすぐ貫く通り、整った屋敷割り、移住者を受け入れる政策。計画的に整えられた町は、「新しい時代の拠点」を感じさせるものでした。
ここで整備されたのが、町の象徴ともいえる八幡堀です。琵琶湖とつながり、湖上輸送の入口となるこの堀は、物資や人の流れを町に取り込み、のちの“商業都市”としての繁栄につながります。
豊臣秀次が仕掛けた“商売が育つ町づくり”
町に人を呼び寄せただけでは商業都市にはなりません。秀次は、商人が自由に商いをはじめられる仕組みを整えました。税や役を軽くし、制限を減らし、商人が自分の力で挑戦できる環境を整えます。
こうした政策によって、町には活気が生まれました。水運と陸路、両方を使える立地も加わり、八幡は各地から商人が集まる場所に成長していきます。
そして、この町から後に全国へ広がる商人たちの原点がつくられました。商売の場として成立しただけでなく、商売を育てる土台があったからこそ、近江八幡は“最先端の商業都市”と呼ばれるようになるのです。
商人の底力と“安土からの再起”
今回のブラタモリで印象的なのが、「安土の商人が再起をかけた」という視点です。安土城が失われたとき、商人たちは生きるために場所を求め、近江八幡に集まりました。古い習慣にとらわれず、新しい商品や流通に積極的に挑んだ姿勢が、八幡の町を豊かにしていきます。
畳表や蚊帳、麻布、灯心など、生活必需品を扱いながら、需要にあわせて商品を変えていく柔軟さこそ、後に全国を動き回る近江商人としての大きな強みでした。
タモリさんが驚いた“夏の必須アイテム”として登場した逸品も、近江商人が広めた大ヒット商品です。日用品から全国へ普及させたその商才は、町の成長を後押しする力となりました。
八幡堀が支えた“商売と暮らし”
八幡堀の静かな水面は、今では観光の名所ですが、当時は商売の要でした。琵琶湖から荷物を運び込み、町中に流通させるための“物流の背骨”として大きな役割を持っていました。
ブラタモリでは、タモリさんが堀沿いを歩きながら、その仕組みが商売にどう生きていたのかを体験していきます。水面に映る町家、石垣の曲線、その先に続く道。この風景が、商人の往来と活気をどれほど支えていたかが、深く伝わってきます。
城がなくなった後も続いた商いの道
1595年、八幡山城は廃城となり、町は大きな転機を迎えました。城という象徴がなくなることは、町にとって大きな不安を生みます。しかし、町を支えたのは商人たちでした。
城がなくても八幡の商業は止まりませんでした。堀、通り、町割り、そして商人のネットワーク。これらが町を支え続け、江戸時代には“商都”としてさらに発展していきます。
その後の町並みはしっかりと守られ、新町通りや永原町通り、八幡堀周辺には、今も戦国の息づかいが残っています。古い町家や白壁の土蔵は、当時の面影をそのまま今に伝えています。
商人が示した“波乱万丈の歩み”
ブラタモリでは、タモリさんが何度も感心したように、近江商人の歩みは決して順調ではありませんでした。城の消失、時代の変わり目、地域の変化。そのたびに商人たちは自分たちの手で未来を切りひらき、商売を広げていきました。
その根底にあったのが『三方よし』の考え方。自分の利益だけではなく、相手や社会の喜びまで見つめる姿勢が、信頼を生み、商売の広がりにつながりました。
こうした価値観が町を守り、近江八幡を“歴史が歩いているような場所”として残してくれています。
まとめ
近江八幡は、戦国の混乱の中で生まれ、豊臣秀次による町づくりと商人の挑戦によって成長した町です。八幡堀の静かな水面や古い通りを歩くと、信長、豊臣、そして近江商人へと続く時間の流れが自然と浮かび上がってきます。
安土の商人が再起をかけた町。豊臣が築いた最先端の商業都市。苦難を越えた商人たちの物語。そして、今に残る美しい水郷の町並み。
この番組は、近江八幡の奥深い歴史を知ることで、旅するように町の魅力を感じさせてくれる回になりそうです。
この回は放送前のため、放送内容がわかりしだい記事を改めて書き直します。
【日本ダ・ダ・ダ大移動】携帯9100万台データで判明!2025年夏の観光トレンド完全解説(放送日:8月26日
八幡堀・八幡山ロープウェー・旧西川家住宅について紹介します

ここからは、私からの提案です。近江八幡という町は、景色の美しさだけでなく、町そのものが昔の営みをそのまま残しているところに魅力があります。八幡堀を進む観光船の静かな揺れ、八幡山ロープウェーから見下ろす広い町並み、そして旧西川家住宅に残る商人の暮らし。どれも同じ歴史を別の角度から感じられる場所です。町が生まれ、商人が全国へ羽ばたいていった背景が、風景や建物の中に息づいています。ここから紹介する3つのスポットは、その歴史を立体的に見せてくれる大切な鍵になります。
八幡堀の現在の姿と観光船の魅力
八幡堀は、かつて琵琶湖とつながる大切な運河として、さまざまな荷物を運ぶために使われていました。現在は、その歴史を感じられる観光船の遊覧コースとして親しまれています。手漕ぎの和舟や小さなボートがゆっくりと進み、約35分のコースで四季ごとに変わる町並みを楽しめます。桜の春、柳がそよぐ夏、紅葉に包まれる秋、雪景色の冬と、いつ訪れても違う表情を見せてくれます。周りには、白壁の蔵や木造の町家、石畳の道が残っていて、水面に映るその風景がとても印象的です。昔は荷物を運んでいた場所が、今では景色を楽しむ時間に変わり、歴史と現在が重なる空間として多くの人に愛されています。
八幡山ロープウェーから見る町と地形のつながり
八幡山ロープウェーは、八幡山城跡の近くまで登れる短い空の旅です。山頂からは、琵琶湖や西の湖、そして碁盤目のように整えられた町並みを一望できます。ここからの景色は、城を守りながら町を栄えさせるための地形の工夫がよく分かります。山の上の城、そのふもとの運河、そしてきれいに並んだ町家が、当時の城下町の姿そのままに広がっています。頂上を歩いていると、城の配置や町のつくりが自然の形を生かして考えられていたことを実感できます。風景を眺めるだけで、歴史がどう広がっていったのかが伝わってくる場所です。
近江商人ゆかりの旧西川家住宅と町家の文化
旧西川家住宅は、近江商人として活躍した家の暮らしを知ることができる貴重な資料館です。広い屋敷の中には、昔の商売道具や生活に使われていた物が残されていて、当時の暮らしぶりがそのまま見えてきます。近江八幡の旧市街には、大きな町家や土蔵が今も並び、歩いているだけで商人の時代にタイムスリップしたような気持ちになります。歴史的な建物を保存している地区でもあり、町全体が落ち着いた雰囲気に包まれています。資料館や旧商人の屋敷をめぐると、近江商人がどんな思いで商売を続け、町を支えてきたのかを深く感じられます。こうした場所は、歴史が好きな人にも、文化を知りたい人にも魅力的で、訪れるたびに新しい発見があります。
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