京都・二条城の“徳川三代の思惑”
二条城は、徳川家康がつくった「京都で幕府の存在感を示すための拠点」で、のちに徳川秀忠・徳川家光が大規模改築を行い、さらに幕末には徳川慶喜が『大政奉還』を表明した歴史の転換点です。この記事では、三代にわたる城づくりの思惑と、国宝・二の丸御殿に残る壮大な計画の痕跡を、2025年の視点で分かりやすくまとめます。読み終えるころには、二条城がなぜ“江戸時代の始まりと終わりを見届けた城”といわれるのか、その理由がすっきり理解できるはずです。
【NHKスペシャル「戦国サムライの城」第1集・織田信長“驚異の城郭革命”】藤戸石と黄金の瓦岐阜城、安土城破城の痕跡が語る“城郭革命”の真実|2025年9月14日放送
家康が京都に築いた「政治の要」としての二条城
二条城の築城が完成したのは1603年。この年は徳川家康が征夷大将軍に任じられた年でもあり、江戸幕府誕生と同時期です。
そんな重要なタイミングで家康が京都に城を築いた理由は明確で、天皇・朝廷のある京都の中心に近い場所で、幕府の存在を力強く示す必要があったためです。
京都御所からわずか約600メートルという距離は、家康がどれほど強く「幕府の威信を可視化」しようとしたかを物語っています。
江戸に本拠を置きつつも、京都という伝統の中心に拠点を置くことは、朝廷を抑えるという政治的な意味をもちました。
さらに城は、将軍が上洛した際の宿泊・政務のための場所として整えられています。
当時の京都には多くの有力寺院がありますが、あくまで「城」を構えることで、武家政権としての強さと正統性を明示しようとしていました。
城の見た目にも、政治的メッセージがあった
家康は城の防御力だけでなく“見た目の迫力”にもこだわりました。
二条城は他の城と比べて天守が低かったり、巨大な石垣が目立たなかったりしますが、それは京都という都市の景観に合わせつつも、御殿や門の豪華さで権威を示す設計だったからです。
堀や石垣、複雑な虎口など軍事的要素に加えて、城門の意匠・御殿の構えにも重厚感をもたせ、「将軍の城はこうである」という武家のステータスを京都の町に刻みつける役割を持たされていました。
築城当初は“半分だけの城”だった
意外と知られていませんが、家康がつくった最初の二条城は、現在の規模よりも小さいものでした。
東半分だけが整備され、本丸を中心とした控えめな造りだったと言われています。
家康がまず急いだのは「京都に拠点を置くこと」であり、豪華さよりも“存在を示す”ことが優先されたためでした。
その後、二の丸御殿を中心に豪華化していくのは、家康の次の世代の仕事です。
秀忠・家光による大改築 ――天皇行幸に備えた壮大な計画
二条城が本格的に“大城郭”へと姿を変えたのは、二代徳川秀忠・三代徳川家光の時代です。
彼らが行った大改築の中心にあるのは、「天皇行幸を迎え入れるための御殿づくり」でした。
行幸(ぎょうこう)とは、天皇が特別な場所へ訪れる重要な儀式であり、幕府がその行幸を受けるというのは、政治的にも文化的にも非常に大きな意味を持ちます。
このため秀忠・家光は、二条城を“天皇が訪れても恥ずかしくない最高の空間”に変えたのです。
1624年から始まった西側への城域拡張では、現在の広さにほぼ匹敵する規模まで城が広がり、庭園の造り変え、御殿の増築、道の整備など、城全体が「天皇を迎える儀式にふさわしい舞台」へと変貌しました。
天守の存在が語る“幕府の力”
三代家光の時代には、旧伏見城の天守が二条城に移され、二条城の西側に据えられました。
この天守は幕府政治の象徴としての意味を持ち、遠くから見えるように設計されています。
京都市街からでも存在が確認できる位置に置いたのは、「幕府の力を視覚的に示す」いわば“広告塔”の役割も担っていたためでした。
御殿・庭園・障壁画は「幕府の文化力のアピール」
天皇を迎えるため、御殿の内部は徹底的に豪華化されました。
二の丸御殿には、狩野派を代表する絵師である狩野探幽らが描いた障壁画が数多く配置され、動物や松、竹、氷柱など、権威と吉祥を象徴するモチーフがちりばめられています。
庭園は、御殿の広間から見た時の“借景”が綿密に計算され、天守と庭園、さらにその先の京都の山並みが一体になるよう設計されています。
これは武家政権の美意識と文化力を示す、極めて高度な景観構成です。
二条城は軍事拠点でもあった
秀忠・家光の改築は華麗な空間を整えるだけでなく、防御の強化も同時に進めています。
高い石垣、広い水堀、出入り口を複雑にする虎口の配置など、戦時に備えた構造がしっかり備わっていました。
京都に将軍が常駐しないからこそ、幕府側は「拠点としての守り」を緻密に計画し、政治の中心である朝廷に対して常に優位を保てるようにしていたのです。
しかし、家光の代以降、将軍の上洛は途絶え、二条城は“象徴の城”としての役割へと移行していきました。
幕末――二条城が歴史の舞台に戻る
長い間「象徴の城」として存在していた二条城が、再び政治の最前線に現れたのが幕末です。
中心となるのは、国宝二の丸御殿。
ここは将軍の政務の場であり、格式の高さを誇る御殿として整えられていました。
1867年10月13日、徳川慶喜はこの二の丸御殿で『大政奉還』の意思を表明しました。
翌日に朝廷がこれを受け入れたことで、260年以上続いた江戸幕府は幕を下ろします。
つまり
・江戸幕府の始まり(家康の築城)
・江戸幕府の終わり(慶喜の大政奉還)
の両方が二条城で起きたのです。
日本史の中でも非常に珍しい「始まりと終わりを一つの場所で迎えた城」といえます。
世界遺産として評価される理由
1994年、二条城はユネスコ世界遺産に登録され、国宝・重要文化財の多くが保護されています。
二の丸御殿、唐門、庭園、堀、門、城郭――いずれも江戸時代の技術と価値観をそのまま残す貴重な文化遺産です。
訪れれば、徳川三代の戦略、幕府の文化力、そして幕末の緊張感まで、一つひとつの場所から物語が立ち上がってくるように感じられます。
まとめ
二条城は、単に「幕府の京都の拠点」ではありません。
徳川家康が築いた“始まりの城”、徳川秀忠・徳川家光が磨き上げた“権威の城”、そして徳川慶喜が幕府の幕を閉じた“終わりの城”でもあります。
まさに日本史の節目をすべて見てきた、壮大な記憶装置のような場所です。
2025年の今、歴史を知るために欠かせない価値を持ち続けています。
※まだ放送前のため、番組内容が明らかになり次第、放送後に追記して再構成します。
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