上高地をめぐる奇跡の物語に迫る
上高地と聞いて、みなさんはどんな景色を思い浮かべますか?澄んだ空気に包まれた神秘の池、そびえる穂高連峰、そして全国から観光客を引き寄せる人気の山岳リゾート。けれど、かつては冬にマイナス25度を下回ることもある過酷な土地でした。そんな上高地がなぜ今のように多くの人を魅了する地となったのか――。今回のブラタモリでは、その秘密が明かされます。この記事では番組の見どころを先取りしてご紹介します。
【ブラタモリ】長野・上高地▼山岳リゾート・上高地の絶景はどう生まれた?梓川が透き通る秘密と堰止湖の成り立ち|2025年10月4日
神秘の池・明神池が放つ特別な魅力
上高地の象徴といえば明神池です。池は明神一之池と二之池の二つから成り立ち、周囲を取り囲む森と穂高連峰の雄大な山並みを水面に映し出します。特に風が止み、水面が静まり返った瞬間には、山や木々の姿が鏡のようにくっきりと浮かび上がり、まるで異世界へと続く入口のような神秘的な雰囲気に包まれます。その姿を目にすると、自然が持つ静謐な力に圧倒される感覚を覚える人も少なくありません。
この池は穂高神社奥宮の境内に位置しています。古くから信仰の対象とされ、人々は自然そのものに神が宿ると考え、この地を敬ってきました。江戸時代にはすでに人々の生活や文化の一部となり、池は「人と自然を結ぶ場」として重要な役割を果たしてきました。単なる景観の美しさにとどまらず、信仰や暮らしと深く結びついていることが、この場所を特別なものにしているのです。
また、明神池は穂高見命(ほたかみのみこと)を祀る神域とされ、毎年10月には「穂高神社奥宮例大祭」が執り行われます。地元の人々や参拝者が集い、自然の恵みや山岳信仰の伝統を受け継ぐ大切な行事として今も続いています。池を訪れる人はただ景色を楽しむだけでなく、長い歴史を通じて培われた精神性や文化を体感することができるのです。
こうした背景があるからこそ、ブラタモリで取り上げられる明神池は、単なる絶景スポットではなく「自然と人の営みが重なり合った聖なる場所」として大きな意味を持っています。
杣人と上高地の名を広めた人々
上高地の名を広めた大きな要因となったのが、山林で木を伐り出していた杣人(そまびと)たちの存在です。彼らは険しい山道を自在に歩き回り、木材の運搬や生業のために深い森と向き合い続けてきました。その過程で培われた山岳地形の知識や天候を読む力は、やがて登山者や探検家を導く案内人として活かされるようになります。杣人は単なる林業従事者にとどまらず、山と人をつなぐ役割を担う存在へと変化していったのです。
その中でも特に知られるのが上條嘉門次(かもんじ)です。彼はもともと杣人として育ちながら、後に登山案内人としての道を歩みました。嘉門次は明治期に活躍し、当時日本に訪れていた外国人探検家や登山家たちを穂高連峰や槍ヶ岳へと案内しました。彼の案内によって多くの登山者が無事に山頂を踏み、上高地の名は国内外へと広がっていきます。
特にイギリス人宣教師のウォルター・ウェストンが著した『日本アルプス登山と探検』には、嘉門次との交流や上高地の魅力が記されており、この本が出版されたことで「日本アルプス」という呼び名が定着しました。嘉門次はまさにその歴史の立役者であり、彼が営んだ嘉門次小屋は今も上高地に残り、歴史を伝える存在となっています。
こうした背景が重なり、上高地は単なる山奥の地ではなく、「世界に誇る山岳リゾート」としての地位を確立しました。杣人たちの知恵と努力、そして上條嘉門次の活躍がなければ、現在のように上高地が国際的な観光地として知られることはなかったのです。
世界遺産に影響を与えた風穴
上高地の自然には、かつて日本の養蚕業を支えた「風穴(ふうけつ)」と呼ばれる冷気の吹き出す場所が存在します。風穴とは、山の岩の隙間から一年を通じて冷たい空気が流れ出す自然現象で、この冷気を利用して蚕の卵(蚕種)を低温で保存することができました。夏場でも内部はひんやりとした環境が保たれるため、卵の孵化を遅らせることが可能となり、年に複数回の養蚕が実現したのです。
その代表例として知られるのが群馬県にある荒船風穴です。明治から大正期にかけて本格的に整備され、全国規模で蚕種を保存・供給する拠点となりました。ここから出荷された蚕種は日本各地に広がり、さらには朝鮮半島にも渡ったと記録されています。こうして風穴を活用した蚕種保存技術が、日本の絹産業を飛躍的に発展させる原動力となったのです。
やがてこの技術の成果は、世界文化遺産に登録された富岡製糸場と絹産業遺産群の中でも高く評価されました。富岡製糸場で大量に糸を生産するためには、安定した蚕の供給が欠かせません。風穴の存在によって蚕の卵を計画的に管理できるようになり、日本の絹は世界市場で高い評価を得ることができました。
ブラタモリでは、この上高地の風穴が地域の自然と人々の暮らしをどう結びつけ、さらに日本の近代産業へと影響を与えていったのかが語られることになります。自然の冷気が一国の産業を支えたという事実は、今なお驚きをもって受け止められる歴史的な出来事といえます。
奇跡の道・釜トンネルへの挑戦
上高地を外界と結びつける大きな役割を果たしたのが釜トンネルです。1933年に完成した旧釜トンネルは、当時としては画期的な工事でしたが、すべてが手掘りで行われ、全長はおよそ520メートル。内部は狭く、曲がりくねった暗い道が続き、しかも最大で16%を超える急勾配がありました。車両のすれ違いも難しく、落石や雪崩の危険とも隣り合わせの過酷な道だったのです。それでも、このトンネルの開通によってバスが河童橋まで直接乗り入れられるようになり、観光客が一気に増加しました。これが上高地を「山岳リゾート」として発展させる転換点となりました。
しかし旧トンネルは不便さと危険を抱えたままでした。冬には雪崩で坑口が埋まり、通行できなくなることもありましたし、暗く湿った内部は観光客にとっても恐怖を感じさせる場所でした。こうした状況を改善するため、時代とともに改良や拡張が重ねられ、やがて新しい交通路の整備が進められていきます。
そして2005年、ついに現在の新釜トンネルが完成しました。延長は約1,310メートル、幅も広がり、車両の通行が安全かつスムーズに行えるようになりました。急勾配も緩和され、観光バスが快適に上高地へ乗り入れることが可能となり、安心して自然を楽しむための「玄関口」としての役割を確立したのです。
旧トンネルの危険で不便な時代を乗り越え、今の安全で快適な道があることを考えると、まさに「奇跡の道」と呼ぶにふさわしい存在だといえます。釜トンネルの歴史は、上高地がいかにして今日の人気観光地へと成長したのかを物語る重要な一章となっています。
まとめ
この記事で押さえておきたいポイントは以下の通りです。
・明神池は信仰と自然が重なり合う神秘の象徴
・杣人や嘉門次の活躍が上高地を国内外に広めた
・荒船風穴は養蚕業を支え、世界遺産にもつながった
・釜トンネルが観光地としての上高地を開いた
上高地は単なる観光地ではなく、人と自然、歴史と文化が交わる舞台。今回のブラタモリ放送後には、さらに深い発見が加わるはずです。放送後の追記で最新の情報を更新しますので、ぜひチェックしてください。
ソース:
ブラタモリ NHK公式
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