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NHK【ブラタモリ】青山通りの秘密!赤坂・表参道の名坂と青山家の歴史に迫る|2025年6月21日放送

ブラタモリ

青山通りバスツアー 渋谷発!赤坂・表参道を行く2階建てバスの旅

2025年6月21日放送の『ブラタモリ』(NHK総合)は、東京の中でも特に人気の高いエリアを2階建てバスで巡る「青山通りバスツアー」がテーマです。渋谷から出発し、赤坂・青山・表参道という華やかな街を走るこの旅では、地形・歴史・坂道・人名由来など、さまざまな視点から青山通りの魅力が紹介される予定です。今回は放送前の情報をもとに、予習として番組の見どころを紹介します。

【ブラタモリ】青山通りの秘密とは?江戸時代の大山街道や大名屋敷の痕跡を発見!|2025年6月14日

渋谷から青山へ 尾根道の秘密

今回の旅は渋谷からスタートします。ここでまず注目されるのが、「青山通り」と「六本木通り」という2つの道の違いです。どちらも都心を東西に結ぶ重要な通りですが、その成り立ちと地形の扱い方には大きな差があります。

青山通りは、江戸時代の大山街道(矢倉沢往還)をもとにした道です。この街道は、渋谷の宮益坂を登った高台から始まり、尾根筋に沿って整備されたルートでした。尾根筋とは、谷を避けて山や丘の背を通る道のことで、江戸時代の人々はこれを選ぶことで以下のような利点を得ていました。

  • 地盤が安定しており、建物や道が崩れにくい

  • 雨水がすぐに流れ、ぬかるみにくい

  • 日当たりと風通しが良く、快適に歩ける

このため、青山通りは起伏が少なく、視界が開けていて明るい印象の道として整備されました。現在も歩道の広さや整った街路樹など、歩きやすさが意識された街並みが続いています。

一方で、六本木通りは戦後の高度成長期に再開発の一環として作られた近代的な道路です。効率を重視して直線的に引かれた結果、谷や丘をそのまま貫くような構造となり、トンネルや陸橋、急坂が数多く存在しています。たとえば、芋洗坂や鳥居坂などの急な坂道は、歩くとその高低差をはっきりと実感できます。

このように、地形を活かして自然に寄り添って整えられた青山通りと、地形を切り開いて効率を優先した六本木通り。どちらも都市の発展を支えてきた重要な道ですが、歩いたときに感じる雰囲気や快適さには明確な違いがあります。

番組ではこの対比をバスツアーという形で体感しながら進んでいき、東京という都市が時代によってどうやって街を築いてきたのか、その裏にある地形と設計の工夫をわかりやすく紹介する予定です。道の成り立ちから街の魅力を読み解く視点は、まさにブラタモリならではの見どころといえます。

タモリが歩く江戸の名坂 三分坂と薬研坂

番組の中盤、舞台は赤坂の住宅地へと移り、江戸時代から名坂として知られる「三分坂」と「薬研坂」が登場します。この2つの坂は、地形と生活の関係を深く伝えてくれるスポットとして紹介されました。

まず「三分坂(さんぷんざか)」は、江戸時代の人々にとっても特別な存在でした。この坂は非常に急で、荷車を引く労働者が途中で休憩を挟む必要があるほどの勾配がありました。そのため、坂の中ほどで腰を掛けて休む際に、銀三分(現在の価値で約100円)を支払ったという言い伝えが名前の由来となっています。

  • 坂はTBSの裏手から報土寺方面へと続くルート

  • 現在でも急な勾配が残り、体感的に負荷を感じる

  • 荷車の往来が盛んだった時代を思い起こさせる場所

次に紹介されたのは、坂道愛好家の間でも人気の高い「薬研坂(やげんざか)」です。この坂は緩やかな曲線を描いて長く続く坂で、全長は約530メートル。薬の材料をすり潰す道具「薬研」に似たV字型の地形が、名前の由来になっています。

  • 坂の中央がくぼみ、両端が高い地形が特徴

  • 歩行者にも優しい傾斜と幅広な道路設計

  • 地元では「西の大関」とも呼ばれる名坂

特に注目すべきなのは、三分坂と薬研坂がつながっていることです。歩いてみると、急で短い坂と、緩やかで長い坂との体感的な違いがよく分かり、江戸の人々が坂道とどう向き合っていたかが実感できます。

こうした坂は、ただの通行ルートではなく、その時代の生活の苦労や工夫、知恵が詰まった“生活の道”でした。タモリさんが番組で歩いたこのルートをたどることで、地形の魅力や江戸時代の風景がより身近に感じられるのではないでしょうか。現代の東京の街並みに隠された、歴史と地形の記憶を楽しめる場所です。

青山という地名の意外なルーツ

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「青山」という響きからは、緑豊かな自然や山並みを想像する人も多いかもしれませんが、実はこの地名は自然由来ではなく人物名に由来するものです。その始まりは、室町時代にまでさかのぼります

当時、花山院師重(かさんのいん・もろしげ)という公家の子孫が、群馬県中之条町に移り住んだことが背景にあります。師重の系統にあたる一族は、当地にあった「青山(あおやま)」という地名を姓として名乗るようになり、ここから「青山氏」という家系が始まりました。

その後、青山氏は戦国期に三河へと移り、徳川家康に仕える譜代大名として台頭します。中でも重要な人物が、青山忠成(あおやま・ただなり)です。彼は江戸幕府の重臣として町奉行や老中を歴任し、家康からも信頼の厚い人物でした。

忠成は、江戸の赤坂に広大な屋敷を構えたことで、この地が「青山」と呼ばれるようになりました。江戸時代にはこの地域は「赤坂青山町」として知られ、大名屋敷が並ぶ高級住宅地のひとつでした。現在もその名残は地名に色濃く残っています。

さらに時代が進み、1964年の東京オリンピックをきっかけに都市整備が進められた際、国道246号線が「青山通り」として正式に整備されました。それに伴い、現在の「南青山」「北青山」といった住居表示が確立され、今に続いています。

つまり、「青山」という地名は、風景の印象ではなく、歴史ある人物とその屋敷地に由来して名づけられたものなのです。町名としてはもちろん、文化やファッションの中心地として知られる今の青山も、こうした武家文化と人の歴史が背景にあることを知ると、街の印象がより深く感じられるのではないでしょうか。

青山氏の子孫と家系の歴史

青山家は、江戸時代の初期から徳川家に深く仕えた譜代大名の名門として知られています。中でも代表的な人物が、青山忠成(1551〜1613年)です。彼は徳川秀忠の側近として重用され、町奉行や老中といった幕府の要職を歴任しました。このような家柄は、単に武士としての力を持っていただけでなく、政治・行政の運営にも中心的な役割を担っていたことを示しています。

その後、青山家の家系は代々幕府に仕えながら、江戸時代の中期以降は各地の藩主として移封されることになります。主要な藩は以下の通りです。

  • 常陸国・江戸崎藩(現在の茨城県)

  • 武蔵国・岩槻藩(現在の埼玉県)

  • 信濃国・小諸藩(現在の長野県)

  • 遠江国・浜松藩(現在の静岡県)

  • 最終的には兵庫県の丹波篠山藩(約6万石)を治める大名となりました

そして、明治維新後の廃藩置県によって大名制度は終わりますが、青山家は華族制度の中で「子爵」の爵位を授かり、貴族院議員や実業家としても活動します。特に青山幸宜(ゆきよし)は最後の藩主であり、明治以降も政治・経済の分野で名を残しました。

青山家の名前は、地名や通り名だけでなく、教育・文化の分野でもその影響を残しています。また現在でも、群馬県の中之条町や、旧藩地である丹波篠山などには、青山家の本家や分家が続いているとされ、地元の資料館などでもその歴史が大切に保存されています。

このように、青山家の歴史は単なる過去のものではなく、今も土地や人々の記憶に生き続けている家系といえます。「青山」という言葉を耳にするとき、その裏にある長い歴史と人物の存在を思い出すと、東京という都市がぐっと立体的に見えてくるのではないでしょうか。

表参道とタモリの原点

番組後半では、青山通りに接続する「表参道」も紹介される予定です。表参道は明治神宮の参道として整備された道で、青山通りと並ぶ人気のスポットです。ここには、タモリさんが若き日に過ごした思い出の場所もあり、タモリの原点に迫る語りが聞けると予告されています。地形や歴史とは別の、パーソナルな視点から見る青山通りも楽しみのひとつです。

放送に向けてのまとめ

今回の放送では、渋谷から表参道までの青山通りを、歴史と地形、そして人物の物語から読み解いていきます。江戸の古道をベースに整備された青山通りの“平坦で明るく、歩いていて気持ちのいい道”という印象には、地形や文化の工夫が積み重ねられています。

番組では、2階建てバスからの視点や、名坂を歩くタモリさんの姿を通じて、東京の街の奥深さを再発見できるはずです。放送後、さらに詳細な内容を追記していきますので、ぜひチェックしてください。

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