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闇のかなたに光をさがして 戦争で祈りの意味はあるのか なぜ神は止めないのかという疑問と心の傷を支える答え

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戦争と祈りの意味を考える

戦争によって故郷を失った人々は、悲しみや憎しみの中で日々を生きています。それでも人はなぜ「祈る」のでしょうか。その意味を考えることは、今の世界を理解する大切な手がかりになります。『こころの時代 闇のかなたに光をさがして(2026年4月13日)』でも取り上げられ注目されています。遠い国の出来事ではなく、私たちの心にもつながるテーマです。

・戦争で心はどのように傷つくのか
・祈りはどんな役割を持つのか
・なぜ「神は止めないのか」という問いが生まれるのか
・長崎とウクライナがつながる意味
・絶望の中でも人が生きるための支えとは何か

ウクライナ避難者が抱える悲しみと憎しみの現実

戦争で避難した人が苦しむのは、爆撃や逃避行そのものだけではありません。避難先での孤独、言葉の壁、仕事や住まいの不安、家族が離ればなれになる苦しみも重なります。世界の保健機関も、ウクライナでは戦争の長期化によって心のケアトラウマ支援の必要が大きく高まっていると示しています。医療機関への攻撃が続いてきたことも、支援を受けにくくする大きな背景です。

ここで見落とせないのは、悲しみといっしょに憎しみも生まれやすいことです。大切な人や故郷を奪われたと感じたとき、「許せない」と思うのはとても自然です。むしろ、そう感じないほうが不自然なくらいです。だからこそ、避難者を支える側は「前向きになろう」と急がせるのではなく、怒りや悲しみをそのまま受け止める必要があります。心の傷は、きれいごとでは消えません。

また、避難生活が長くなるほど苦しみの形も変わります。最初は命を守ることが最優先でも、時間がたつと「自分はこれからどう生きるのか」「故郷に戻れるのか」「子どもに何を残せるのか」という、もっと深い問いが出てきます。これは単なる生活再建ではなく、人生そのものの立て直しです。だから支援は、食料や住まいだけでなく、心の居場所や人とのつながりまで含めて考えなければなりません。

なぜ神は戦争を止めないのかという問い

戦争と宗教が重なると、多くの人がまずぶつかるのが「なぜ神は止めてくれないのか」という問いです。これは信仰が弱いから出てくる疑問ではありません。むしろ、本気で信じてきた人ほど、現実のむごさに深く揺さぶられます。大きな苦しみを経験した人が、神や祈りに希望を見いだすこともあれば、逆に怒りや失望を感じることもある。心理学や宗教研究でも、信仰は人を支える力にもなりうる一方、深い苦しみの中では葛藤の場にもなると示されています。

ここで大事なのは、この問いに「正解」を急いで与えないことです。戦争の前で「すべてに意味がある」と簡単に言ってしまうと、かえって傷ついた人を追い詰めます。苦しむ人に必要なのは、答えを押しつけることより、「そう問わずにいられないほどつらいのだ」と理解されることです。宗教の役目は、ときに答えを出すことではなく、問いを抱えたまま生きる力を支えることにあります。

つまり、祈りとは「願えばすぐ奇跡が起きる」という話ではありません。戦争が止まらない現実の中でも、人間らしさを失わないために、自分の心を崩しきらないために、なお誰かを思い、言葉を手放さない行為でもあります。だから祈りは、現実逃避ではなく、壊れた現実の中で人間が人間でいようとする、ぎりぎりの行動とも言えます。

司祭ポール・コロルークの葛藤と支援活動

日本で活動するポール・コロルーク司祭が注目されるのは、遠い国の出来事を語る人ではなく、日本で暮らす避難者の苦しみを日々受け止めている立場だからです。公開情報でも、彼は日本におけるウクライナ正教会の責任者で、日本で唯一の司祭として紹介されており、避難者支援の現場に長く関わってきました。だから彼の言葉には、理想論ではない重みがあります。

司祭の役目は、礼拝を行うことだけではありません。避難してきた人の話を聞き、亡くなった人を悼み、怒りや絶望に触れ、それでも共同体をつなぎとめることです。とくに戦争のような極限状況では、宗教者は「心の避難所」に近い役割を持ちます。ただし、その役割はとても苦しいものでもあります。支える人自身もまた、同じ痛みの中にいるからです。

しかも、この戦争は2022年に突然始まっただけではなく、2014年のクリミア侵攻までさかのぼって受け止めるべきだという見方も、コロルーク司祭の発言として伝えられています。そう考えると、避難者の悲しみは「数年」の話ではなく、もっと長い時間をかけて積み重なってきたものです。今見えている涙の奥には、奪われ続けた年月があります。

長崎の宗教者が語る祈りの意味

長崎がこのテーマで特別な意味を持つのは、ただの観光地でも、ただの被爆地でもないからです。長崎は、原爆で大きな被害を受けた記憶を持ちながら、長く平和への祈りを重ねてきた場所です。市の平和発信でも、核兵器廃絶と恒久平和への取り組みが続けられており、宗教の違いをこえて祈りや慰霊を行う場も受け継がれています。

とくに長崎では、キリスト教だけでなく、仏教、神道、イスラム教など、宗教宗派を超えて合同で慰霊と平和への祈りをささげる取り組みが続いています。これはとても大事な点です。祈りが「自分たちだけのもの」ではなく、苦しんだ人を悼み、未来の暴力を止めたいという共通の願いとして育てられてきたからです。戦争で傷ついた人にとって、こうした姿は「違いがあっても一緒に立てる」という希望になります。

さらに長崎は、日常の中に祈りの文化が残る町としても語られています。だからこそ、ここで語られる祈りは、特別な儀式の言葉だけではありません。失われた命を忘れないこと、苦しむ人の話を聞くこと、憎しみに飲み込まれないよう自分を保つこと。そうした静かな行い全部が、祈りの延長にあると考えることができます。

絶望の中で「祈る」ことが持つ力とは

祈りの力は、戦争そのものを一瞬で終わらせる魔法ではありません。では何の役に立つのかというと、まず人の心をばらばらにしない力があります。祈りの場では、自分ひとりが苦しいのではないと知り、悲しみを言葉にし、亡くなった人を忘れず、明日まで生きる意味をつなぎ直すことができます。研究でも、宗教やスピリチュアルな実践は、苦難の中での意味づけ回復の支えになりうるとされています。

ただし、祈りには明るい面だけがあるわけではありません。「こんなことが起きたのは自分のせいでは」「神に見捨てられたのでは」と感じてしまう人もいます。だから本当に必要なのは、祈れと命じることではなく、その人が祈れない日も、怒っている日も、黙っている日も受け止めることです。良い祈りとは、きれいな言葉を並べることではなく、傷ついた人の尊厳を守ることに近いのだと思います。

戦争の時代に祈りを考える意味は、宗教の話に閉じません。私たちは誰でも、苦しむ人の前で何ができるのかを問われます。すぐに世界を変えられなくても、相手の苦しみを軽く扱わないこと、忘れないこと、つながりを切らないことはできます。祈りとは、そうした小さな行いをあきらめない心の形でもあります。だから絶望の中で祈ることには、現実を見ない弱さではなく、人間を人間のまま守ろうとする強さがあるのです。

戦争と信仰が私たちに問いかけるもの

このテーマが注目される理由は、ウクライナの話で終わらないからです。戦争が起きたとき、人は何を支えに生きるのか。憎しみを抱えたまま、どうすれば人間らしさを失わずにいられるのか。被害の記憶をどう次の世代へ渡すのか。これは、被爆地の記憶を持つ日本にも重なる問いです。

そしてもうひとつ大切なのは、祈りと平和を考えることは、遠い国の悲劇を眺めることではないという点です。戦争が長引くほど、避難、貧困、孤立、心の傷は世界中へ広がります。だから私たちにできる第一歩は、痛みを「特別な誰かの問題」にしないことです。知ること、想像すること、忘れないこと。それ自体が、暴力に慣れてしまわないための大切な行動です。

このテーマを深く読む価値は、結局ここにあります。戦争は町を壊しますが、同時に人の心の中の言葉や信頼まで壊します。それでもなお、誰かのために祈ること、語り合うこと、悼むことをやめないなら、人は完全には壊れきらない。その小さな光をどう守るかが、いま私たちに問われているのだと思います。


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