西郷隆盛の“消えた写真”に迫る追跡ドキュメント
歴史好きなら一度は気になるのが「西郷隆盛の本当の顔」です。坂本龍馬や大久保利通、高杉晋作といった明治維新の中心人物たちは写真を残しているのに、西郷隆盛の写真は現存していません。本当に一枚もないのか、それともどこかに眠っているのか。2025年8月12日放送のNHK総合『謎解きドキュメント ツイセキ』では、この歴史ミステリーを徹底的に追跡しました。この記事では、番組で明らかになった調査の全貌を紹介します。
鹿児島で探る西郷の実像
調査は西郷隆盛の故郷である鹿児島市から始まりました。市内の高台に堂々と立つ、軍服姿の西郷像は、東京・上野にある有名な銅像とは顔つきや表情が大きく異なります。鹿児島の像はより鋭く力強い印象を与え、見る者に深い威厳を感じさせます。こうした違いは、地域ごとの西郷像の解釈や造形の背景を物語っているようです。
この地で「西郷通」と呼ばれ、地元では西郷に関して最も詳しい人物とされるのが若松宏さんです。若松さんは子どもの頃から独学で西郷を研究し、何十年にもわたり膨大な資料を収集してきました。その知識と情熱は、専門家顔負けのものです。今回の取材では、若松さんが所蔵する貴重な音声資料がテレビ初公開となりました。
その音声は、西郷隆盛の親戚であるトクさんが昭和27年に語った記録です。トクさんの生き生きとした語りからは、西郷の人となりや、日常のふとした仕草までが鮮明に浮かび上がります。例えば、キセルでこめかみをかく癖や、実際には目が細かったことなどが具体的に語られました。これらの証言は、現在広く知られている肖像画や銅像の姿とは異なり、私たちが思い描く西郷像のイメージを覆すものでした。
さらに取材では、西郷が30歳のとき、志を共にしていた僧侶月照とともに自殺未遂を図ったという重大な出来事にも触れられました。奇跡的に命は助かったものの、この経験を境に、西郷は「一度は死んだ身」として生きる覚悟を固めたとされます。そのため、生涯にわたって写真撮影には消極的で、自ら進んでカメラの前に立つことを避けていた可能性が高いと指摘されました。こうした背景が、西郷の写真が現存しない大きな理由の一つとなっているのです。
子孫が保管する貴重な資料
続いて訪ねたのは、福岡に在住する西郷隆盛の玄孫、諫山尚子さんです。諫山さんのもとでは、近年になって相次いで発見された西郷家の貴重な家族写真が大切に保管されていました。これらの写真は、これまで公開されてこなかったもので、その歴史的価値は非常に高いものです。
中には、ドイツ留学中の長男・西郷寅太郎が現地で撮影された写真があり、異国で学ぶ若き日の姿が鮮明に残されていました。また、弟の西郷従道が写る写真も紹介され、明治期の西郷家の活動の幅広さをうかがわせます。さらに特筆すべきは、今回の取材で初公開となった末子・西郷酉三の写真です。酉三の写真はこれまで一度も確認されたことがなく、西郷家の歴史を補完する重要な発見となりました。これらの資料によって、西郷家の家族構成や人物像がより具体的に浮かび上がってきます。
しかし、最も求められている西郷隆盛本人の写真は、今回もついに確認されませんでした。その理由については諸説ありますが、その中でも有力とされるのが、暗殺を恐れて意図的に写真を残さなかったという説です。西郷は政治的にも軍事的にも多くの敵を抱えていたため、自身の姿を広く残すことに強い警戒心を持っていた可能性があるといわれています。この慎重な姿勢こそが、現在まで“幻の写真”と呼ばれる所以なのかもしれません。
日置市での手がかり
鹿児島県日置市は、西郷隆盛が征韓論争に敗れて新政府の職を辞し、故郷へ戻った後に訪れていたゆかりの地です。この地では、兎狩りや温泉を楽しみ、心身を休めていたと伝えられています。また、西南戦争が勃発した際には、最も信頼できる場所として妻子を避難させた重要な拠点でもありました。
この日置市に現在も暮らすのが、西郷のひ孫であり、薩摩焼の陶芸家として現代の名工にも選ばれた西郷隆文さんです。隆文さんが所蔵する中で特に注目されるのが、明治初期に撮影されたとされる集合写真、通称「フルベッキ写真」です。この写真は佐賀藩関係者の集まりを写したもので、かつては中央に立つ人物が西郷隆盛ではないかという説が話題を呼びました。
さらに取材班は、地元で広まっていた「西郷写真が学校で発見された」という噂についても調査しました。複数の目撃者の証言を集めると、その写真はこれまで知られているどの西郷像とも異なる特徴を持っていたといいます。しかし、証言を頼りに向かった日置市立上市来小学校や、現在は就労支援施設として利用されている旧上市来中学校に残されていた金庫を開けても、残念ながら写真は見つかりませんでした。
こうして、日置市での探索は有力な証拠にたどり着くことはできなかったものの、西郷の姿に関する新たな伝承や地域の記憶を掘り起こす貴重な機会となりました。
山形・松ヶ岡集落での発見
調査は鹿児島から遠く離れた山形県鶴岡市の松ヶ岡集落へと進みました。ここは戊辰戦争で新政府軍と激しく戦った庄内藩の地ですが、敗戦後、西郷隆盛の温情ある降伏条件によって厳しい処分を免れた歴史があります。そのため、今も集落の多くの家庭で西郷隆盛の肖像画が大切に飾られ、住民たちの敬意と感謝の思いが受け継がれています。
当時の庄内藩士たちは、西郷という人物の度量の大きさに深く感銘を受け、国造りを学ぶため薩摩を訪問しました。その際に撮影されたアルバムからは、西郷の側近中の側近であった別府晋介や桐野利秋といった歴史的にも貴重な人物写真が発見され、研究資料としての価値が非常に高いことが分かりました。これらの写真は、西南戦争や明治初期の政治動向を知る上でも重要な証拠となります。
さらに、集落の資料庫を探索したところ、そこには大量の明治初期の写真や、西郷隆盛が送った手紙が保存されていました。その手紙には、開墾に取り組む松ヶ岡の人々にお茶の銘柄候補を6つ送ったことが記されており、地域との交流の深さがうかがえます。しかし、残念ながら西郷本人の姿を捉えた写真は見つからず、あったのは肖像画を金属板に焼き付けたものだけでした。こうして松ヶ岡での調査も、幻の“西郷写真”発見には至らなかったのです。
海外に残された可能性
最終的に、西郷隆盛の写真を長年研究してきた専門家は、「現存の可能性が最も高いのはアメリカにある」と指摘しました。その根拠となるのは明治4年の出来事です。この年、岩倉使節団が欧米視察のため渡米する際、西郷隆盛は明治天皇に随行し、横浜港まで見送りに訪れていました。
当時の横浜港には複数の外国新聞社が取材のため集まっており、現場ではカメラによる撮影も行われていたと考えられます。そのため、このとき偶然にでも西郷が写り込んでいた可能性は十分にあり、もしその写真が保存されていれば、アメリカの新聞社の資料庫や公的アーカイブに眠っているかもしれないのです。
この指摘は、これまで日本国内で行われてきた数多くの調査の枠を超え、探索の舞台を海外に広げる必要性を示すものでした。幻とされてきた“西郷の真の姿”が、遠い異国の資料棚の中で静かに時を超えて待っている可能性がある——そう考えると、この歴史的謎の解明に新たな希望が灯った瞬間でもありました。
まとめ
今回の追跡で、西郷隆盛の写真が現存する確証は得られませんでしたが、家族や子孫の証言、国内外の資料、そして伝承の数々が新たな手がかりを生み出しました。もしかすると、いつの日か海外の資料庫からその姿が発見される日が来るかもしれません。西郷の“本当の顔”を巡る探求は、まだ終わっていません。
気になるNHKをもっと見る
購読すると最新の投稿がメールで送信されます。
コメント