昭和の大横綱・大鵬の一代記
このページでは『熱談プレイバック 昭和の大横綱・大鵬伝!伝説の名勝負でつづる一代記(2025年12月22日放送)』の内容を分かりやすくまとめています。
昭和の大相撲を代表する横綱・大鵬 幸喜が歩んだ道のりは、勝ち続けた記録だけでは語り尽くせません。厳しい稽古、宿命のライバル、けがによる挫折、家族の支え、そして次の時代へ託した引退。その一つ一つが、名勝負の映像と講談によって立体的に描かれていきます。
北海道から角界へ 二所ノ関部屋で鍛えられた若き日々
大鵬 幸喜は1940年5月29日、北海道弟子屈町で生まれました。幼少期は決して恵まれた環境ではなく、生活を支えるために働きながら成長します。この経験が、後に土俵で見せる粘りや我慢強さの原点になりました。
1956年、16歳で二所ノ関部屋に入門します。親方の二所ノ関[8代目](元佐賀ノ花)は、体の大きさだけでなく、将来性を感じ取り、基礎を何より重視しました。四股500回、鉄砲2000回という反復練習を毎日欠かさず行い、十両の瀧見山を相手にした長時間のぶつかり稽古も続きます。逃げ場のない稽古は体力だけでなく精神力も鍛え、土俵に立つ覚悟を体に染み込ませていきました。
十両昇進を機に「大鵬」の四股名を授かり、若き力士は着実に角界で存在感を高めていきます。
新入幕11連勝と宿命の始まり 柏戸との初対決から再戦まで
昭和35年、1960年初場所。19歳で新入幕を果たした大鵬は、いきなり11連勝を記録し、角界に強烈な印象を残します。将来を期待される若手として注目される中、その前に立ちはだかったのが小結の柏戸 泉洋でした。
初対決では力の差を見せつけられ、技を繰り出す余裕もなく敗れます。この完敗が、二人の関係を単なる対戦相手ではなく、宿命のライバルへと変えていきました。
その後も大鵬は出稽古を重ね、課題を一つずつ克服しながら番付を上げていきます。史上最年少で大関に昇進し、再び柏戸に挑みますが、結果は思うように出ませんでした。何度も跳ね返されながらも諦めず、迎えた昭和36年秋場所の優勝決定戦。ここで再び相まみえた二人の一番は、時代を象徴する勝負となり、大鵬はついに柏戸を破ります。
同時横綱昇進と柏鵬時代 国民的スターへの道
この勝利を経て、大鵬と柏戸は同時に横綱へ昇進します。二人が並び立つことで生まれたのが、昭和の大相撲を語る上で欠かせない『柏鵬時代』です。
大鵬は横綱として安定した強さを発揮し、優勝を重ねていきます。幕内最高優勝32回、前人未到の6場所連続優勝という記録は、圧倒的な実力の証でした。その存在は相撲ファンにとどまらず、社会全体に広がり、「『巨人・大鵬・卵焼き』」という言葉が流行語のように使われるほどでした。
土俵に上がるだけで会場の空気が変わり、勝つことが期待される存在。その重圧を背負いながらも、堂々と相撲を取り続けた姿が、多くの人の記憶に残っています。
けがとスランプ、そして復活 妻・芳子との二人三脚
全盛期の裏で、大鵬の体は少しずつ悲鳴を上げていました。左肘の骨折、左膝靱帯の損傷など、大きなけがが重なり、長期休場を余儀なくされます。復帰後に稽古を再開しても、幕下以下の若手に土俵を割る場面があり、再起不能ではないかという声も出始めました。
その苦しい時期を支えたのが、妻の芳子です。昭和40年の東北巡業で出会い、昭和42年に結婚。芳子は生活面でも精神面でも寄り添い、横綱を陰から支え続けました。
昭和43年秋場所、大鵬は土俵に戻ります。初戦は敗れたものの、翌日から14連勝し復活優勝を果たしました。一度はどん底を味わいながら、再び頂点に立つ姿は、記録以上に多くの人の心を動かしました。
世紀の大誤審と判定改革 連勝記録が残したもの
復活後の大鵬は勢いに乗り、双葉山の69連勝に迫る連勝街道を進みます。しかし、45連勝で止まった一番が、相撲史に残る出来事となりました。物言いの末に敗戦となりましたが、後に映像で検証すると、相手の足が先に出ていたことが判明します。
この一番は「世紀の大誤審」と呼ばれ、相撲界に大きな衝撃を与えました。その結果、他の競技に先駆けてビデオ判定が導入され、判定制度が見直されるきっかけになります。大鵬の連勝は、記録としてだけでなく、相撲の仕組みそのものを変える影響を残しました。
若武者に託した引退 貴ノ花戦と横綱としての最後の役目
横綱として7年が過ぎ、角界には新しい世代が台頭してきます。大鵬自身も体の限界を感じながら、それでも土俵に立ち続けました。それは、若い力士に時代を引き渡すことも横綱の役目だと考えていたからです。
昭和46年初場所、成長著しい貴ノ花と対戦し、勝利はしたものの相手に大けがを負わせてしまいます。翌場所、復活した貴ノ花と再戦し、今度は大鵬が敗れました。その翌日、引退を発表します。
勝ち続けるだけでなく、最後は次の世代に道を譲る。その姿勢こそが、昭和の大横綱・大鵬 幸喜が今も語り継がれる理由の一つです。
NHK放送100年記念「スポーツ名場面〜歴史を彩ったヒーロー・ヒロイン〜」で語られた実況と感動の名シーン全紹介|2025年3月26日(水)
柏鵬時代が今も語り継がれる理由

ここでは、番組を見てあらためて感じた視点として、「柏鵬時代」がなぜこれほどまでに語り継がれているのかを、当時の世相や娯楽の変化と重ねて紹介します。勝敗や記録だけでは説明しきれない、この時代ならではの空気が確かにありました。
昭和の家庭に入り込んだ相撲という娯楽
昭和30年代から40年代にかけて、テレビは急速に各家庭へ普及しました。大相撲はその中心的なコンテンツで、本場所の中継は家族そろって見る娯楽のひとつでした。力士の名前や取組が、日常会話の中に自然と登場し、相撲は特別な人のものではなく、生活の中にある存在でした。その時代に、大鵬 幸喜と柏戸 泉洋という、実力も個性も対照的な二人が同時に頂点に立ったことが、多くの人の記憶に強く刻まれる理由になっています。
強さと個性がはっきり分かれた二人の存在
柏鵬時代が特別視されるのは、二人の横綱がただ強かったからではありません。大鵬は安定感と完成度の高さで勝ち続ける横綱として、柏戸は鋭さと勢いで観客を引きつける横綱として、それぞれ異なる魅力を持っていました。どちらが勝つのかという興味だけでなく、どんな相撲を見せるのかという期待が、毎場所高まっていきました。この対照的な存在が並び立つことで、相撲そのものが物語として受け止められるようになっていきます。
同時昇進が生んだ「時代の名前」
二人が同時に横綱へ昇進した出来事は、当時としても大きな話題でした。その結果、「柏鵬時代」という呼び名が自然に生まれ、単なる成績の並びではなく、一つの時代として認識されるようになります。これは、娯楽やスポーツが記録だけでなく、象徴や物語として楽しまれるようになった昭和ならではの特徴でもあります。だからこそ、柏鵬時代は今も語られ続け、番組の中でも重要な軸として描かれているのです。
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