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【NHKスペシャル】椎葉 山物語 “のさり”の原風景|椎葉村の山暮らしと菜豆腐づくり、のさりとは何かを深掘りし、生活文化ともぐら打ちをたどる|2026年1月18日

NHKスペシャル
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椎葉に刻まれた“のさり”の物語

このページでは『NHKスペシャル 椎葉 山物語 “のさり”の原風景(2026年1月18日)』の内容を分かりやすくまとめています。

山深い椎葉村で受け継がれてきたのは、良いことも悪いことも神さまからの授かりものとして受け入れるのさりという生き方です。

厳しい自然の中で、命が生まれ、消え、季節が巡る。そのすべてを抱きしめながら進む人々の姿は、まるで一篇の叙事詩のように胸を揺さぶります。

椎葉村と「のさり」

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椎葉村は、深い山に囲まれ、谷ごとに集落が点在する土地として描かれています。外からは秘境と呼ばれることもありますが、番組が映し出すのは観光地としての特別さではなく、日々の生活が淡々と続いてきた場所の姿です。山の中で生きるということは、便利さよりも自然の都合が優先される暮らしであり、その前提が画面の端々から伝わってきます。

この番組の核に据えられている言葉がのさりです。良い出来事も悪い出来事も、神さまから授かったものとして受け取るという考え方で、椎葉の暮らしの中では特別な教えではなく、ごく自然な感覚として語られます。思い通りにいかない日があっても、それを切り捨てたり責めたりせず、自然の流れとして受け止める空気が、村全体に静かに流れています。

番組の冒頭では、91歳の久喜さんが妻の久子さんと山で暮らし、日々の出来事をのさりとして受け止めて生きてきた姿が紹介されます。山では、生きることと死ぬことが同じ時間の中で起きます。その現実を避けずに見つめ、受け入れてきた姿勢そのものが、椎葉村の暮らしの土台として置かれています。

柳田國男が見た椎葉という原風景

椎葉は、民俗学者の柳田國男が強く心を惹かれ、村内をくまなく歩き回って記録を残した土地としても知られています。番組では、椎葉が「発見された場所」ではなく、「記録され、語り継がれてきた場所」であることが強調されます。その視点が加わることで、日常の一つひとつに重みが生まれます。
柳田國男は、日本各地の言葉や行事、暮らしを見つめ続けた人物です。青空文庫に残る文章の中にも、九州南部の山村として椎葉村に触れる記述があり、山深い土地の暮らしが全国に伝えられてきました。外からのまなざしが入ることで、椎葉は昔話の舞台ではなく、現実の生活が続く場所として立体的に浮かび上がります。
番組が使う原風景という言葉は、懐かしさを演出するための飾りではありません。山へ入り、祈り、獲れない日があり、作物が実る年もある。その積み重ねが、そのまま風景として残っているという意味です。民俗学の視線と映像が重なり、椎葉の暮らしが今も続いている現実として提示されます。

小正月の「もぐら打ち」

年の初めに行われる行事として、子どもたちが棒で地面を叩き、大地の霊を鎮め、豊作を願うもぐら打ちが紹介されます。番組では、子どもたちが実際に地面を叩く場面が描かれ、一年の始まりを身体の動きで整える行事として位置づけられています。

もぐら打ちは、田畑からモグラを追い出すための行事と説明されることもありますが、本来は土地そのものに働きかけ、大地の力を鎮める意味合いが強い行事です。地区によって使う棒の材質が異なるなど、細かな違いがあり、暮らしの積み重ねがそのまま文化として残っています。

この行事は、番組が描くのさりの感覚と自然に重なります。自然を完全に制御しようとするのではなく、自然と折り合いをつけながら一年を始める。その役割を子どもが担い、毎年繰り返していくことで、椎葉の時間は静かに循環していきます。

犬と走るイノシシ猟

番組では、椎葉で今も犬がイノシシを追い込む猟が行われていることが描かれます。この猟の姿に柳田國男も驚いたとされ、猟は過去の風習ではなく、現在進行形の暮らしとして存在しています。

猟師の康道さんは、複数の犬を連れて険しい山に入り、猟の前には山の神を祀る場所に立ち寄り、安全と獲物を祈願します。山に入ってからは、長い距離を走り続ける過酷な時間が続きますが、何も得られない日もあります。その結果を「失敗」とせず、山の側の都合として受け止める姿勢が、のさりという言葉に重なります。

映像は、猟を迫力ある見世物として強調するのではなく、命をどういただくか山にどう入るかという基本的な問いを静かに映し出します。犬と人が同じ山を走り、同じ空気の中で結果を受け止める。その関係性こそが、椎葉の猟の本質として伝わってきます。

山の暮らしは季節で回る(春・夏・秋)

春、久喜さん夫婦はミツバチの姿が見えず、硬い表情を浮かべます。同じ頃、小屋では烏骨鶏のヒナが孵り、山では山菜採りが始まります。猟では山の神に祈り、犬が吠え、イノシシを仕留められる日もあれば、何も起きない日もあります。動き出す季節であっても、思い通りに進まないことが当たり前として描かれます。

夏になると、村は帰省した家族で賑わいます。墓に供える竹を切り出し、親子で墓掃除をし、迎え火を焚く。山の暮らしでは、季節の行事が予定として組まれるのではなく、自然と生活の流れの中に組み込まれています。

秋、烏骨鶏は成長し、ヒナも増え、ハチミツ採りの季節が訪れます。しかし久喜さんは、体力の限界からすべてを採りきれないと話します。そこでもミツバチの都合と人の都合があり、それを良し悪しで裁かず受け止める姿勢が示されます。さらに、焼き畑で育ったそばが実をつける様子が描かれ、自然に働きかけつつも、結果を抱え込みすぎない距離感が椎葉の強さとして積み上がります。

戻ってきた息子と菜豆腐、そして命の現場

翔仁さんは18歳で椎葉を離れ、宮崎市内や東京で料理人として働いたあと、再び村に戻り、実家の豆腐屋を継ぎます。そこで作られる名物が菜豆腐です。外の世界で身につけた技術が、村の食文化として戻っていく流れが丁寧に描かれます。

翔仁さんの物語は、暮らしの再出発だけでは終わりません。山でイノシシが罠にかかった知らせを受け、現場に向かい、初めて解体を手伝う場面が映されます。食べ物が商品として並ぶ前に、命として存在していた現実を、身体を通して受け止める瞬間です。その場面によって、のさりは抽象的な言葉ではなく、現実の行為として立ち上がります。

さらに、久喜さんの場面では、ニワトリがテンに襲われ、そのテンがアナグマに食べられる出来事が語られます。生きることと死ぬことが切り離されず、一つの風景として存在する。その厳しさを悲劇として強調せず、恵みを過剰に美化もしない。すべてを受け取りながら前に進む姿勢こそが、椎葉村の暮らしの芯として、静かに積み上がっていきます。

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