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【まけんぞ 〜能登・孤立集落の2年〜】能登半島地震と奥能登豪雨に揺れた大沢町、間垣の里で続いた「戻るか離れるか」の記録|2026年1月1日

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二度の災害に揺れた集落が問い続けた「戻る」という選択

このページでは『まけんぞ 〜能登・孤立集落の2年〜(2026年1月1日放送)』の内容を分かりやすくまとめています。
舞台は石川県輪島市の海沿いにある大沢町。地震と豪雨、二度の災害に襲われた小さな集落が、壊れた暮らしと向き合いながら「ここで生きるのか」「離れるのか」を考え続けた2年間を追った記録です。番組を通して見えてくるのは、復旧という言葉では語りきれない、人の生活そのものの重さです。

間垣に守られてきた大沢町という場所

大沢町は、冬になると日本海から吹きつける強い海風から家々を守るため、竹をすき間なく組んだ「間垣(まがき)」に集落全体が囲まれた場所です。
この間垣は景観のためではなく、暮らしを守るために代々受け継がれてきた実用の知恵で、家の周囲だけでなく、集落の輪郭そのものを形づくっています。

集落は日本海に面した急な斜面に張りつくように広がり、背後には山、目の前には海という地形です。
そのため、住民の暮らしは自然と漁と畑を組み合わせた生活になってきました。海で魚をとり、山側のわずかな土地で畑を耕す。季節や天候に合わせて体を動かし、自然と折り合いをつけながら生きる日々が続いてきた土地です。

この大沢町は、連続テレビ小説『まれ』の舞台として全国に知られるようになりました。
ドラマを通して映し出された間垣の風景
や静かな集落のたたずまいは、作られたセットではなく、実際に人が暮らし続けてきた場所そのものでした。観光地化されすぎることなく、日常の延長としての景観が保たれてきた点も、この町の特徴です。

人口はおよそ100人ほど
高齢化は進んでいましたが、家と家の距離が近く、顔を合わせれば誰の家か分かる関係が成り立っていました。漁に出る人、畑に向かう人、旅館を守る人、それぞれの役割が重なり合い、互いの存在が暮らしを支える関係が自然に続いていた集落でした。

令和6年能登半島地震で断たれた日常

2024年1月1日に発生した令和6年 能登半島地震で、大沢町はこれまで経験したことのない激しい揺れに襲われました。
元日の夕方、日常の時間が一瞬で断ち切られ、家々は大きくきしみ、集落全体が不安と混乱に包まれました。

地震の影響で、集落と外部をつなぐ県道は崩れ落ち、大沢町は完全に孤立集落となります。
車での出入りは不可能になり、電気や通信も不安定な状態が続きました。住民は自力で動くことができず、助けを待つしかない状況に置かれます。

やがてヘリコプターによる救助が始まりました。
上空から降ろされたロープや担架を使い、住民は順番に町を離れていきます。高齢者も多い集落で、全員が一度に避難する決断は重く、住民全員が町を離れるという事態になりました。

地震後の大沢町では、無傷の家はほとんど残っていませんでした
長年暮らしてきた民家だけでなく、地域の拠点だった田中屋旅館を含む旅館や作業小屋も被害を受け、建物の傾きや壁の崩れが目立ちました。畑や道にも亀裂が入り、元の暮らしをすぐに取り戻せる状況ではありませんでした。

避難先となった輪島市中心部での生活は、それまでの大沢町とはまったく違うものでした。
慣れない場所での集団生活の中、住民たちはテレビや写真で映し出される被災地の様子を見ながら、突然失った日常を思い返します。
静かな海、間垣に囲まれた家、毎日の仕事と会話。当たり前だった暮らしが、一瞬で遠くなった現実を、多くの人が胸の中で受け止めていました。

一時帰宅と、戻ろうとする人たちの動き

数か月がたち、大沢町への一時帰宅が認められました。
久しぶりに足を踏み入れた自宅には、地震の爪痕がそのまま残っていました。傾いた柱、崩れた壁、割れた食器。畑には土砂が入り込み、海を見渡せば、これまで当たり前だった風景が変わっていることがはっきり分かります。住民たちは、何もかもが元には戻らない現実と静かに向き合う時間を過ごしました。

それでも春が訪れると、集落に戻る決断をした人たちがいました。
県道が完全に復旧したわけではなく、生活は不便なままでしたが、「人がいれば電気が来る」「人がいれば暮らしが動く」という思いが背中を押します。

畑では、壊れた用水路を自分たちで直し、土をならし、じゃがいもの種が植えられました。
海では漁師が再び船を出し、とれた魚は浜で天日干しにされます。乾く魚の匂いと潮風は、かつての日常を思い出させるものでした。

港では、重機に頼らず、手作業で波止場を整える姿が見られました。
中心となって動いていたのは、70代の住民たちです。長年この土地で暮らしてきた経験を生かし、「できることからやる」という考えで、一つひとつ作業を進めていきました。

壊れたものは多く、元通りとは言えませんでしたが、畑に芽が出て、船が戻り、人の声が聞こえることで、暮らしを取り戻そうとする流れが少しずつ生まれていきました。

令和6年奥能登豪雨が奪った積み重ね

2024年9月、令和6年 奥能登豪雨が、再び大沢町を襲いました。
夏を越え、ようやく暮らしが動き始めた矢先のことでした。

この豪雨では、令和6年 能登半島地震で緩んでいた山肌に大量の雨水が流れ込み、各所で土石流が発生します。
山から押し寄せた土砂は勢いを増し、家々や畑をのみ込み、集落の下にある大沢漁港へと流れ込みました。

せっかく人の手で整え直した手作りの波止場は、土砂に埋まり、跡形もなく消失しました。
波止場は漁に出るための命綱であり、集落が戻るための象徴でもありました。それが一夜にして失われたことで、集落は再び外部との行き来が断たれ、孤立集落となります。

港には、助けを求めるために「SOS」の文字が書かれました。
空からの救助に望みを託すしかない状況の中、再びヘリコプターによる避難が行われます。ヘリは大沢町には降りられず、向かった先は輪島市中心部でした。

こうして大沢の住民たちは、再度避難所生活に入ることになります。
一度は戻り、畑を耕し、船を出し、暮らしを立て直そうとした場所から、また離れなければならない現実。積み重ねてきた努力が流される光景を前に、立ち尽くす住民の姿がありました。

地震に続く豪雨という二重の災害は、「戻る」という選択そのものを揺さぶる出来事となり、大沢町の時間を再び止めることになったのです。

仮設住宅で続く「帰るか、帰らないか」の時間

輪島市の仮設住宅での暮らしが続く中、住民たちはテレビや記録映像に映る大沢町の姿を静かに見つめていました。
崩れた家並み、土砂に埋もれた港、かつての暮らしの跡。画面越しに映る故郷は、近いようで遠い場所になっていました。

そこでは、
帰ると決めた人
戻らないと決めた人
帰りたいが帰れない人
それぞれの思いが交錯していました。年齢、体力、仕事、家族構成、住まいの被害状況。判断の基準は一人ひとり違い、同じ答えにはなりませんでした。

冬になると、仮設住宅にも雪が積もり、外に出ることさえ負担になります。
それでも春になると、災害ボランティアが集まり、現地では少しずつ土砂の片付けが進みました。人の手が入ることで、止まっていた時間がわずかに動き出します。

田中屋旅館を残した夫婦は、建物を守り続けながら、いつか再び人を迎える日を思い描いていました。
漁師たちは、漁港の復旧が集落の再生につながると信じ、行政と交渉し、重機の確保に動きます。
別の家族は、壊れた家に代わり、番屋を買い取り、そこを新たな暮らしの拠点にする決断をしました。

2025年の夏、工事の音が港に響きます。
には、人の姿が少しずつ戻り、井戸端で言葉を交わす場面も見られました。
になると、震災から2年という時間が経っていました。

しかし、その時点でも、答えは一つに定まってはいませんでした。
戻ることが正解でも、離れることが間違いでもない。
大沢町で起きたこの2年間は、災害後の暮らしが、数字や計画だけでは測れないものであることを、静かに示し続けていました。

二年間が示した、暮らしを選ぶということ

この番組が伝えているのは、復興の早さではなく、暮らしを選ぶ過程です。大沢町(石川)では、家があるかどうかだけでなく、港が使えるか、道が通れるか、仲間がいるかが、帰る判断に直結します。輪島市の一集落で起きた出来事は、災害後の地域が抱える現実そのものです。
「まけんぞ」という言葉の通り、簡単に答えが出ない中でも、人は考え続け、手を動かし、選び続けていました。

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