女形の美しさを未来へつなぐ物語
歌舞伎の舞台で女性を演じ続けてきた女形。その背後には、時代の波にのまれながらも芸を守り抜いた俳優たちの知られざる人生があります。父の遺志を継いだ中村歌右衛門、戦火をくぐり抜けた仲間たち、そして新たな時代を切り開いた坂東玉三郎。彼らの歩みは、まるで一本の太い糸のようにつながり、今の歌舞伎を支えています。
このページでは『映像の世紀バタフライエフェクト 人間国宝 女形に生きた男たち(2026年2月2日放送)』の内容を分かりやすくまとめています。
女形の誕生と黄金期 五代目中村歌右衛門が変えた歌舞伎
歌舞伎は17世紀初め、出雲の阿国のかぶき踊りから始まり、当初は女性も舞台に立っていましたが、風紀を乱すとして次第に禁止され、やがて舞台に立つのは男性だけになりました。そこで生まれたのが、男が女を演じる女形という役柄です。今日の歌舞伎を象徴する存在は、この時点で運命づけられたと言えます。
明治期に入ると歌舞伎は近代都市・東京で大衆娯楽の王様となり、九代目市川團十郎や五代目尾上菊五郎らが活躍する黄金期の歌舞伎が到来します。その中で、女形の在り方を根本から変えたのが五代目中村歌右衛門です。彼は、男役の添え物だった女役に主役としての輝きを与え、淀君や烈しい気性の女性たちを描く新しい役柄を次々と作り上げました。
従来の女形は、殿様や立役に寄り添う「付き従う女」が中心でしたが、五代目は歴史上の女性や烈女を真ん中に据え、舞台のドラマを動かす存在へと引き上げました。絢爛な衣装だけでなく、指先や目線の隅々にまで女性の心理を刻み込み、「女性の内面を演じる女形」というスタイルを確立したのです。この革命があったからこそ、その後の六代目中村歌右衛門や坂東玉三郎の女形が生まれたといっても過言ではありません。
戦争と検閲が試した女形 日中戦争からGHQ占領下まで
1937年、日中戦争が始まると、歌舞伎俳優たちも戦争の渦に巻き込まれていきます。若い俳優の多くが戦地に送り出され、残された者も戦意高揚の演目に出演するよう求められました。大谷廣太郎(のちの七代目大谷友右衛門)も出征し、戦場を経験した一人です。一方で、五代目中村歌右衛門の息子・藤雄は徴兵検査で兵役免除となり、日本各地を慰問公演で巡りながら、戦時下でも女形の芸を守り抜きました。
1945年に空襲が激しくなると、東京・銀座の歌舞伎座も炎に包まれ、劇場は焼失します。芝居小屋が失われたことは、俳優たちにとって肉体の一部をもがれるような痛手でした。終戦後、日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領下に入り、封建的で軍国主義を連想させるとされた多くの歌舞伎演目が上演禁止になります。
その中で、歌舞伎の味方として立ち上がったのが、アメリカ軍将校のフォービオン・バワーズでした。彼は日本文化、とりわけ歌舞伎に深く魅了され、当時の最高司令官であるダグラス・マッカーサーの「歌舞伎禁止」の考えに真っ向から異議を唱えます。バワーズは、上演禁止予定の台本を一つひとつ読み込み、「反民主的ではない」と判断した作品の上演継続を認めさせました。その結果、占領期の終わりとともに厳しい規制は緩み、歌舞伎は壊滅を免れたのです。彼は今も「歌舞伎を救ったアメリカ人」と呼ばれています。
六代目中村歌右衛門の孤独な修行と再建・歌舞伎座
戦後、藤雄は再び舞台に立つ日々を取り戻していきます。彼は日常生活においてもふとした仕草が男性的にならないよう徹底的に気を配り、歩き方、座り方、扇子の持ち方に至るまで「女性としての身体の使い方」を刻み込みました。その背中を憧れの目で追い続けたのが、大谷廣太郎です。やがて廣太郎は七代目大谷友右衛門を襲名し、立派な女形として活躍していきます。
1951年、銀座四丁目に歌舞伎座が再建され、東京の中心に再び大劇場の灯がともります。現在の住所は東京都中央区銀座4-12-15。地下鉄東銀座駅と直結し、日本の伝統芸能の殿堂として世界中から観客を集め続けています。 この新しい舞台で藤雄はついに六代目中村歌右衛門を襲名し、父の名跡を継ぐ大役に挑みます。
襲名後、六代目は父が切り開いた「自立した女性像の女形」をさらに深め、気品と激しさをあわせ持つ芸風で、戦後歌舞伎を象徴する存在になります。藤色の衣装をまとって花道を歩む姿は、観客にとって「これぞ女形」という理想像でした。彼のもとには多くの若い俳優が集まり、その一人がのちに**中村歌右衛門(六代目)一門を背負うことになる俳優たちです。弟子たちは身の回りの所作から舞台の心構えまで、徹底的に女形の型を叩き込まれました。
一方で、七代目大谷友右衛門は仕事の減少から映画の世界へ活路を求め、映画『佐々木小次郎』の主演で大ヒットを飛ばします。その後ふたたび歌舞伎界に戻り、四代目中村雀右衛門として女形の第一人者となっていきます。戦争と映画界を経て再び舞台に戻ったこの経歴は、戦後歌舞伎の激動を象徴しています。
世界を魅了した女形と三島由紀夫 人間国宝への道
六代目中村歌右衛門の芸は、戦後の日本だけでなく世界も魅了しました。彼の舞台に心を奪われた一人が作家の三島由紀夫です。三島は六代目のために新作歌舞伎を書き下ろし、古典の型の中に現代的な心理描写を織り込んだ作品を次々と生み出しました。六代目のしなやかな身のこなしと、激しい情念を秘めたまなざしは、三島の文学世界と共鳴しながら、戦後日本文化のアイコンとなっていきます。
六代目は海外公演にも積極的に参加し、ヨーロッパやアメリカの劇場で女形の芸を披露しました。異文化の観客にとって「男が女を演じる」という発想は衝撃的でしたが、舞台が進むにつれて性別の違和感は消え去り、「ただ美しい人間ドラマ」として受け止められていきます。こうした評価が積み重なり、1968年、六代目は重要無形文化財保持者、いわゆる人間国宝に認定されます。その後も文化功労者、文化勲章など、日本文化を代表する勲章を次々と受けました。
やがて六代目は60代を迎え、老いを隠すどころか、老いそのものを芸の力へと変えていきます。しなやかな若い女の役だけでなく、老女や宿命を背負った女性の深い哀しみを演じることで、「女形は年齢を重ねるほどに深まる芸」であることを証明しました。しかし晩年はケガや体調不良から舞台を休むことも増え、そのたびに別の女形が大役を任され、世代交代の波が少しずつ押し寄せていきます。2001年、六代目中村歌右衛門はこの世を去り、女形の大名跡「中村歌右衛門」は今も空名跡のまま、伝説的な存在として残されています。
坂東玉三郎と中村雀右衛門 受け継がれる女形の美学
六代目の全盛期と並行して、戦後歌舞伎界にはもう一人のスターが現れます。それが五代目坂東玉三郎です。一般家庭の出身ながら並外れた美貌と舞台センスで注目を集め、十四代目守田勘弥の養子として本格的に歌舞伎の世界に入りました。玉三郎は妖精のような透明感をたたえた女形として、若い観客をも劇場に引き寄せ、1970年代以降の歌舞伎ブームを牽引していきます。
彼にとって運命的な代表作と出会ったのが1978年頃とされ、この頃から「玉三郎を見るために歌舞伎座へ行く」という観客が急増します。長い手足と端正な顔立ち、そして一瞬で空気を変える視線の力によって、「女形はここまで幻想的になれるのか」と世界を驚かせました。2012年には重要無形文化財保持者として人間国宝に認定され、現在も古典の名作から演出・映画監督まで、女形の可能性を押し広げ続けています。
一方、七代目大谷友右衛門として映画界でも成功したあと、歌舞伎に戻って四代目中村雀右衛門を継いだ俳優は、晩年まで「立女形の大御所」として舞台を支えました。中村雀右衛門(四代目)は、若々しい美しさと格調高い演技で観客を魅了し、91歳まで舞台に立ち続けた名優です。人間国宝として古典の女形を守り抜き、2004年には文化勲章も受章しました。
六代目中村歌右衛門が築いた「女性の内面を演じる女形」、四代目中村雀右衛門が体現した「端正で格調高い女形」、そして五代目坂東玉三郎が切り開く「幻想的で現代的な女形」。三者の系譜は、今の歌舞伎界に連なる若い女形たちにも脈々と受け継がれています。番組「映像の世紀バタフライエフェクト 人間国宝 女形に生きた男たち」は、一人の俳優の物語ではなく、400年続く歌舞伎の歴史の中で、男たちが命をかけて守り育ててきた「女性の役」の物語を、濃密に描き出しているのです。
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