宮城の家族史をたどる特別編
今回のファミリーヒストリーは、サンドウィッチマンをゲストに迎え、宮城県にまつわる家族の歴史をたどる特別編です。先祖の謎や気になる出来事を募集したところ、300件以上の投稿が寄せられ、それぞれの家族の知られざる物語が明らかになっていきます。
このページでは「ファミリーヒストリー(あなたのファミリーヒストリー宮城編 72分拡大版)(2026年3月7日放送)」の内容を分かりやすくまとめています。仙台の戦災復興に関わった人物の歩みや、明治時代にカナダへ渡った移民の人生、家族の縁が導いた不思議な物語まで、宮城を舞台にした家族史を紹介します。
宮城で先祖の謎を調査 300件の投稿から始まった特別編
今回の「あなたのファミリーヒストリー 宮城編」は、宮城県の人々から寄せられた“先祖の謎”を手がかりに家族の歴史をたどる特別企画です。番組では事前にエピソードを募集し、300件を超える投稿が寄せられました。その中からいくつかの家族の物語を選び、戸籍や古文書、地域の資料館、海外の記録などを調査しながらルーツを探っていきます。
この回の特徴は、有名人ではなく一般の人たちの家族史が主役になっている点です。先祖がどこから来たのか、なぜ移住したのか、どんな時代を生きたのかを取材班が丁寧に調べ、思いもよらない歴史や家族のつながりが明らかになります。宮城の街づくりに関わった人物の足跡や海外移民の物語など、地域の歴史と個人の人生が重なり合うエピソードが紹介され、視聴者にとっても自分の家族のルーツを考えるきっかけになる内容となっています。
さらに番組では、司会の今田耕司と寺門亜衣子アナウンサー、そして宮城出身のサンドウィッチマンがゲストとして参加。家族の記録をひもとく調査の過程や、知られざる祖先の人生に触れながら、宮城という土地が育んできた歴史と人々の歩みを深く見つめていきます。家族の記憶をたどることで、地域の歴史や社会の変化まで浮かび上がる点が、この特別編の大きな見どころです。
仙台復興を支えた土木技術者 塩隆義の人生
塩隆義は宮城県出身の土木技術者で、戦前から戦後にかけて激動の時代を生きた人物です。若い頃は仙台高等工業学校(現在の東北大学工学部)で土木工学を学びました。当時は河川や堤防の整備など土木技術者の需要が高く、卒業後は台湾総督府の土木課に就職します。台湾では河川工事に携わり、流域面積が大きい高塀渓の堤防整備などを担当しました。技術者として順調な生活を送っていましたが、家族の死や戦争など数多くの困難に直面することになります。
戦後、隆義は日本へ引き揚げ、焼け野原となった仙台で新たな人生を歩み始めます。仙台市役所の復興局に所属し、都市計画に関わる仕事を担当しました。彼が大切にしたのは、戦災から立ち上がる街に緑を多く取り入れることでした。広い道路と街路樹を組み合わせた都市づくりを目指し、住民や国の反対があっても「将来のために必要だ」と粘り強く計画を進めました。
その結果、現在の仙台を象徴する並木道や公園が整備されていきます。とくにケヤキ並木で知られる定禅寺通などは、隆義が関わった都市計画の一つとされています。こうした取り組みが積み重なり、仙台は「杜の都」と呼ばれる緑豊かな都市へと再生していきました。戦争と喪失を経験しながらも、未来の街を見据えて復興に尽くした塩隆義の歩みは、仙台の歴史を語るうえで欠かせないものとなっています。
杜の都をつくった都市計画 定禅寺通と街路樹の誕生
現在「杜の都」と呼ばれる仙台の街並みは、戦後の都市計画によって形づくられました。1945年の仙台空襲で中心市街地は焼け野原となり、街を覆っていた多くの緑も失われてしまいます。そこで戦後、国の戦災復興計画に基づき道路や公園の整備とともに、都市に緑を取り戻す計画が進められました。青葉通や定禅寺通などの主要道路に街路樹を植える取り組みも、この復興計画の中で行われたものです。
定禅寺通は復興計画の中で幅46メートルの広い道路として整備され、1958年に約156本のケヤキの若木が植えられました。歩道と車道の間に緑道を設ける構造により、都市の中心に大きな並木道が生まれます。これらの木々は長い年月をかけて成長し、街に豊かな木陰をつくる象徴的な景観となりました。
こうして整備されたケヤキ並木は、市民の暮らしと深く結びついていきます。定禅寺通はイベントや文化活動の舞台となり、現在ではジャズフェスティバルや光のページェントなど多くの人が集まる場所になりました。戦後の復興とともに植えられた街路樹は、時間とともに成長し、仙台を象徴する風景として「杜の都」のイメージを形づくっています。
明治の密航移民 後藤金平のカナダ移住物語
後藤金平は、宮城県登米郡米川村(現在の登米市周辺)出身の青年で、明治時代にカナダへ渡った移民の一人です。1906年、18歳のときに同郷の実業家・及川甚三郎が用意した密航船「水安丸」に乗り込み、カナダへ向かいました。船には同じ地域の若者など約80人が乗っており、日本を出てからおよそ54日かけて太平洋を渡り、ブリティッシュコロンビア州に到着しました。
当時の日本は日露戦争後で経済的にも厳しく、地方では仕事が少ない状況でした。金平のような若者にとって海外は新しい可能性の地でしたが、日本人の北米渡航は次第に制限されていたため、密航という危険な方法を選ぶ人も少なくありませんでした。長い航海の途中、金平は宮城の民謡「さんさ時雨」を歌い、故郷を思いながら仲間と励まし合っていたと伝えられています。
カナダに到着した金平は、まず鉄道建設などの重労働に従事しました。ロッキー山脈を越える大陸横断鉄道の建設は危険で厳しい仕事でしたが、移民たちは働きながら生活基盤を築いていきます。その後、金平は保険外交員として働き、現地の日系人社会の中で生計を立てるようになりました。差別や苦難の多い時代でしたが、彼の歩みは日本から北米へ渡った移民たちの歴史を象徴するものとなっています。
日系カナダ人の苦難 強制収容と再出発
第二次世界大戦が始まると、カナダに住んでいた日系人の生活は大きく変わりました。1941年の太平洋戦争開戦後、政府は安全保障を理由に日本系住民を危険視し、日系カナダ人の強制移住と収容を決定します。1942年以降、ブリティッシュコロンビア州に住んでいた人々を中心に、約2万2000人が家を追われ、内陸の収容施設や労働現場へ移されました。多くはカナダ生まれの市民でしたが、祖先が日本人であるという理由だけで移住を強いられました。
収容された人々は山間部の仮設住宅や収容キャンプで生活し、家族が離れ離れになることもありました。男性は道路工事などの労働に従事させられ、農業労働や農場作業に送られる人もいました。漁業や商店など、それまで築いてきた仕事や財産の多くは没収され、コミュニティは大きな打撃を受けます。
戦争が終わった後もすぐに自由が戻ったわけではありません。日系人は西海岸へ戻ることを禁止され、ロッキー山脈より東の地域へ移住するか、日本へ送還されるかの選択を迫られました。多くの人々は新しい土地で生活を立て直し、差別や困難を乗り越えながら地域社会を築いていきます。のちにカナダ政府はこの政策を人権侵害として認め、1988年に正式な謝罪と補償が行われました。
こうした歴史は、海外に渡った日本人移民の歩みの中でも特に重い出来事として語り継がれています。戦争による分断と苦難を経験しながらも、多くの日系カナダ人は新しい社会の中で再出発し、現在のコミュニティの基盤を築いていきました。
北海道から宮城へ 松浦美智子をめぐる家族の縁
依頼者・松浦恵里さんの母 松浦美智子 は北海道生まれですが、その家族のルーツは宮城県にありました。先祖にあたる小沼忠八は宮城県亘理周辺の出身で、後に北海道の開拓に関わった人物とされています。明治以降、東北地方から北海道へ移住する人は多く、農地の開拓や新しい生活を求めて多くの家族が北の大地へ渡っていきました。こうした移住の流れの中で、小沼家も北海道で暮らすようになったと考えられています。
美智子さんの母・小沼よし江は北海道で生まれましたが、幼いころに母を亡くし、札幌に住む伯父のもとで育ちました。忙しい伯父に代わり家事を手伝うなど、幼い頃から家庭を支える生活を送っていたといいます。その後、美智子さんは若くして結婚し、夫の出身地である宮城県へ移り住みました。しかし24歳のときに夫を亡くし、人生の大きな転機を迎えます。
その後出会ったのが陸上自衛隊員の松浦愼一郎でした。二人は宮城県岩沼市で暮らすことになりますが、驚くことにその場所は、美智子さんの先祖がかつて暮らしていた宮城県亘理町のすぐ近くでした。北海道で生まれ育った美智子さんが、偶然にも先祖の土地の近くへ戻ることになったのです。
さらに美智子さんは生前、夫と入る墓を亘理町に準備していました。その場所は、先祖が暮らしていた地域と重なる土地でした。先祖の詳しい出自までは分からなかったものの、北海道から宮城へとつながる不思議な縁が、家族の歴史の中に浮かび上がるエピソードとなりました。
NHK【ファミリーヒストリー】 里見浩太朗 父の戦死の真実と山西省小寨村の最期を追う 母エツの覚悟と井出駅の写真が語る家族史|2026年3月1日
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